1月12日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

スキー記念日、スキーの日(続き)。
テオドール・エードラー・フォン・レルヒは帰国後、大佐に昇進し、ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦で、新設された第17軍参謀長として、ロシアに実質的に支配されていたポーランドの首都ワルシャワに派遣された後、各地を転戦したが、負傷により退役を余儀なくされた。退役後、貿易会社を立上げ、業務取締役の役職に就くが、僅か約1年で役職から身を引く。以降は、チロル地方(ヨーロッパ中部にある、オーストリアとイタリアに跨るアルプス山脈東部の地域)での勤務や、日本への旅行を題材に、講演活動等を中心とした生活を送った。1945(昭和20)年12月24日、オーストリアで糖尿病のため死去。76歳没。テオドール・エードラー・フォン・レルヒは、ウィーンの共同墓地に葬られた。テオドール・エードラー・フォン・レルヒは、生粋のスポーツマンで、スキーのみならず、水泳、サイクリング、スケート、登山と、何でもこなした。スキーよりスケートの方が上手であった、との説もある。また、芸術にも秀で、絵画を嗜んだ。現在、上越市は、テオドール・エードラー・フォン・レルヒの描いた、オーストリアの山々や町並み等の水彩画約50点を所蔵している。母語のドイツ語の他、オーストリア=ハンガリー帝国の諸民族が使用しているチェコ語、マジャル語(ハンガリー語)、イタリア語にフランス語、英語、ロシア語の6ヶ国語が話せた。これらは、それぞれ配属先で身に付けたものである。日本語も、来日時に少しだけ習得した。1930(昭和5)年、高田に「スキー発祥記念碑」が建立された時、除幕式に招待されたが、身体の具合が思わしくなく、財政的に厳しいという理由で来日を断った。そんな窮状を知った日本の有志らが協力して見舞金を集め、同年、当時の金額で1,600円(現在の貨幣価値に換算すると、約600万円から約800万円に相当する)をテオドール・エードラー・フォン・レルヒに寄付した。そのお礼に、テオドール・エードラー・フォン・レルヒからは、礼状と共に、自筆の油絵と水彩画が贈られた。テオドール・エードラー・フォン・レルヒは、4人兄妹の長男であった。長らく独身で、1922(大正11)年3月27日、53歳にしてイルマ夫人と結婚する。日本にやって来た時から思い続けており、実に約12年かけての成就である。夫人は、前夫との間にできた2人の女児を連れており、彼女らと弟妹の子孫は、現在でも上越市と交流を続けている。レルヒさんは、2009(平成21)年、翌年にスキー発祥100周年となることを記念して行なわれる新潟県観光キャンペーンのキャラクターとして誕生。テオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐を模したゆるキャラである。身長は270cmで、各地のゆるキャラの中でも背が高い。キャラクターデザインは、観光キャンペーンのコンペで案が採用された、新潟市江南区亀田工業団地に本社を置く、印刷・広告関連の企業、株式会社タカヨシと繋がりのある外注デザイナーによるもので、キモカワイイをウリにして評判を呼んでおり、ストラップが完売する等、グッズの販売も好調である。100周年記念キャンペーン終了後は、「元祖スキー天国新潟」をキャッチフレーズとした新潟県PRキャラクターとして活躍しており、日本国内各地へ宣伝に出掛けている。2011(平成23)年末には、東日本旅客鉄道(JR東日本)管内の各駅で宣伝ポスターが掲出された。また、2012(平成24)年2月には、新潟市内在住の小学生女子3人組からなるユニット「シュプール音楽隊」によるCD「レルヒさんのうた」が、県内各地のショップで販売された。なお、ゆるキャラは、「ゆるいマスコットキャラクター」を略したもので、イベント、各種キャンペーン、地域おこし、名産品の紹介等のような、地域全般の情報PR、企業・団体のコーポレートアイデンティティ(CI、企業文化を構築し、特性や独自性を統一されたイメージやデザイン、また、分かり易いメッセージで発信し、社会と共有することで、存在価値を高めていく企業戦略の1つ)等に使用するマスコットキャラクターのことである。特に、地域のPRを目的としたものは、ご当地キャラクター(ご当地キャラ)とも呼ばれる。「ゆるキャラ」という名称は、漫画家・エッセイストのみうらじゅんが考案したとされる。1980年代の地方博覧会ブームで作られたマスコットキャラクターが、ゆるキャラの原点と言われる。2007(平成19)年頃から、滋賀県彦根市で開催された記念行事『国宝・彦根城築城400年祭』のイメージキャラクター、ひこにゃんが火付け役と言われる、「ゆるキャラブーム」が起こる。2010(平成22)年からは、「ゆるキャラグランプリ」が開催されている。その「ゆるキャラグランプリ」には、レルヒさんは、初回から参加している。第1回(2010[平成22]年)は携帯投票部門で4,874票を獲得し15位、第2回(2011[平成23]年)は90,569票で10位となった。
いいにんじんの日。 
高麗人参が健康に良いことをアピールするために、株式会社韓国人蔘公社の日本法人、株式会社韓国人參公社ジャパンが制定。日付は、1月12日の「1」と「12」で、「い(1)い(1)に(2)んじん」と読む語呂合わせと、2012(平成24)年1月12日に、株式会社韓国人參公社ジャパンの設立記念パーティーが開かれたことから。ウコギ科の多年草であるオタネニンジン(御種人蔘)は、高麗人参等とも呼ばれ、種を播く前に1、2年かけて土壌作りをし、発芽した後は直射日光や雨風に晒されないように日よけを設置・調整する等、栽培が簡単ではなく、育成には長い年月が必要であるが、その有用性から多くの人に愛されている。オタネニンジン(御種人蔘)は元来「人蔘」と呼ばれ、中国、朝鮮半島、及び日本では、古くからよく知られた薬草であった。枝分かれした根の形が人の姿を思わせることが、その名称の由来と言われている。「御種人蔘」の名は、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、対馬国(現在の長崎県対馬市)対馬府中藩(対馬藩)に命じて、朝鮮半島で種と苗を入手させ、試植と栽培、結実の後で、各地の大名に「御種」を分け与え、栽培を奨励したことに由来する。これ以前の「人蔘」は、朝鮮半島からの輸入に依存していた。因みに、野菜のニンジンはセリ科であり、オタネニンジン(御種人蔘)の近類種ではなく、全く別の種である。株式会社韓国人蔘公社は、韓国健康食品No.1企業で、世界の20ヶ国のビジネスパートナーにより、40ヶ国以上の国々で製品が販売されている。本国の韓国では、1,000ヶ所以上にショップがあり、その歴史は古く、創業は1899(明治32)年にまで遡る。その約100年後、政府企業として韓国タバコ人蔘公社となり、紅蔘(畑から収穫した高麗人参を水洗いし、人参の重要成分であるサポニン(界面活性作用や、心身が元気喪失した状態を改善する効果、補気作用等があり、漢方薬等の生薬にはサポニンを含むものが多い)が多く含まれている皮を剥がさず、皮ごと蒸して水分が14%以下になるまで乾燥させたもの)の専売制が解禁となった後、1999(平成11)年に現在の株式会社韓国人蔘公社となった。株式会社韓国人蔘公社の日本法人である加工食品販売会社、株式会社韓国人蔘公社ジャパンは、東京都新宿区西新宿に本社を置き、日本国内における高麗紅蔘商品のマーケット拡大を目指すと共に、日本の消費者の健康をサポートしている。 
いいねの日(エールを送る日)。
「いいねの日 企画室」が制定。「#指先でエールは送れる」をキャッチフレーズに、Web上で社会的ネットワーク(ソーシャル・ネットワーク)を構築可能にするサービス、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で「いいね!」のボタンを積極的に押す等、自分や他者にエールを送る機会を作ることで、送った人ももらった人も、心が温かくなって、小さな幸せが増える日にすることが目的。心が動いた言葉に、何気ない一言に、もっと気軽に「いいね!」しませんか?、と呼掛けている。日付は、1月12日の「1」と「12」で、「い(1)い(1)ね(2)」と読む語呂合わせから。