1月12日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

桜島の日。
1914(大正3)年1月12日、鹿児島県の桜島で、史上最大の大噴火(通称は「大正大噴火」)が始まった。その後、約1ヶ月間に亘って頻繁に爆発が繰返され、一連の噴火によって58名の死者を出し、流出した熔岩により、それまで距離約400m、最深部約100mの海峡で隔てられていた、対岸の大隅半島と地続きになった。さらに、噴火に伴なうマグニチュード(M)7.1の強い地震(桜島地震)が発生し、対岸の鹿児島市内でも、石垣や家屋が倒壊する等の被害があった。鹿児島市では毎年、この日に噴火を想定した防災訓練が行なわれる。桜島は、九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77平方kmの火山で、約26,000年前に鹿児島湾内の海底火山として活動を開始した活火山によって形成された、地質学的には比較的新しい火山である。有史以来頻繁に繰返しており、噴火の記録も多く、現在もなお活発な活動を続けているため、学術的にも重視されている。また、日本国内のみならず世界的にも有数な火山島であり、観光地としても有名である。海の中に聳えるその山容は特に異彩を放っており、鹿児島のシンボルの1つとされている。桜島は、古代において「鹿児島」と呼ばれていたとの説があるが、確証はない。1334(建武元)年頃の記録では「向嶋」と呼ばれており、「桜島」の名称が記録に現れるのは1476(文明8)年以降である。その後暫くの間、「向嶋」と「桜島」の名称が併存していたが、1698(元禄11)年になって、薩摩国/大隅国薩摩藩の通達によって桜島の名称に統一された。「向嶋」の名称は、東西南北どの方向から眺めてもこちらを向いているように見えることに由来する。「桜島」の名称の由来については、島内に木花咲耶姫命(日本神話に登場する女神)を祭る神社が在ったので島を咲耶島と呼んでいたが、いつしか転訛して桜島となったとする説、10世紀中頃に大隅守(現在の鹿児島県東部に相当する大隅国の国司)を勤めた桜島忠信という人物の名に由来するとする説、海面に一葉の桜の花が浮かんで桜島ができたという伝説に由来するとする説等、諸説ある。桜島の大部分を構成する御岳は、南北に並ぶ北岳、中岳、南岳から成り、山腹に多くの側火山を配する。これらが総称して御岳と呼ばれる。山裾が海まで伸びているため、平地は殆どないが、北西部と南西部の海岸沿いに比較的なだらかな斜面があり、農地として利用されている。温暖湿潤な気候でありながら、山肌に木々が乏しい上に、火山噴出物からなる土壌のため保水性が低く、川は殆どが涸れ川となっている。桜島は、全島が火山噴出物で構成されているため、生育に適する農作物は限られている。特産品として、かぶらを大きくしたような世界一大きい大根「桜島大根」と、世界一小さなみかん「桜島小みかん」が有名である。また、土産物として、桜島の溶岩を利用した焼肉プレートが販売されており、小瓶に詰めた火山灰も売られている。大正大噴火によって降積もった火山灰は、火砕流に襲われた桜島西北部の赤生原付近や風下に当たった桜島東部の黒神と大隅半島の一部で最大約1.5m以上、桜島の他の地域でも約30cm以上の深さに達した。桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根等の農作物はほぼ全滅した。耕作が困難となった農地も多く、噴火以前は2万名以上であった島民の約3分の2が島外へ移住した。災害復興のために、桜島と鹿児島市街地を結ぶ定期航路を望む声が上がり、1934(昭和9)年11月19日に当時の鹿児島県鹿児島郡西桜島村(後に鹿児島県鹿児島郡桜島町となり、2004[平成16]年には鹿児島市に編入されて、自治体としては消滅)が村営定期船の運航を開始した。これが後の鹿児島市営桜島フェリーである。桜島と鹿児島市街地との間は、24時間運航の鹿児島市営桜島フェリーによって結ばれている。鹿児島市営桜島フェリーは国道224号の海上区間でもあり、現在では昼間最短10分間隔、深夜60分間隔の24時間運航を行なっており、約3.5kmの距離を約15分で結んでいて、年間延べ約500万名の乗客と150万台以上の車両を航送している。桜島の人口規模の割にこれだけの利用があるのは、桜島のみならず、鹿児島市中心部と大隅半島中央部・南部との間を行き来する際に、陸路に比べ大幅に移動距離が短く、時間を節約できるためとされる。桜島の噴火災害に備えて、桜島の各所にはフェリーが着岸できる場所が設けられており、災害発生時に住民の避難に利用できるよう準備が整えられている。大正大噴火が終息した後、約20年間は穏やかな状態となっていたが、1935(昭和10)年9月、南岳東側山腹に新たな火口が形成され、約1ヶ月間断続的に噴火を繰返すようになった。1939(昭和14)年10月の噴火において、鍋山の上方海抜約800mに新噴火口が形成され、小規模な熱雲(火砕流)が観察されている。1946(昭和21)年1月から爆発が頻発するようになり、同年3月9日に火口から溶岩の流下が始まった。大正大噴火とは異なり、噴火前後の有感地震は殆どなかった。3月11日夜から連続的に噴火するようになり、対岸の鹿児島県姶良郡加治木町(後の姶良市加治木町)や鹿児島県姶良郡国分町(後の霧島市国分)から火柱が観察されている。大量の火山灰を噴出し、鹿児島県肝属郡牛根村(後の鹿児島県垂水市牛根)では、約3cmの厚さに降積もった。火山灰の影響で、同年5月に持木・野尻地区で度々洪水が発生している。死者1名が出たこの噴火は、同年11月頃に終息したが、その後も散発的に噴火が起きている。1954(昭和29)年12月末頃から火山性地震が増加し、1955(昭和30)年10月に南岳山頂火口で、大量の噴石を噴出する爆発と強烈な空震を伴なう噴火があり、死者1名、負傷者11名を出した。これ以降、南岳山頂付近は立入り禁止となった。以後の噴火は、その殆どが南岳山頂火口で起きている。噴火活動の再開を受けて、1960(昭和35)年に桜島火山観測所が開設された。1967(昭和42)年8月の噴火において火砕流が発生する等、活発な噴火活動も見られたが、1960(昭和35)年を境にして爆発回数は減少に転じ、1969(昭和44)年頃に収束した。1970年代に入ると再び噴火活動が活発となり、1973(昭和48)年以降、年間数十回から数百回程度の爆発を繰返し、日常的に降灰が続いた。昼間でも薄暗くなることもあった。1986(昭和61)年11月23日には、桜島古里地区のホテル(ふるさと観光ホテル)に直径約2m、重量約5tの噴石が落下して建物の屋根と床を突破り、宿泊客と従業員の合わせて6名が負傷するという最大級の火山災害も発生した。1990年代に入ると爆発回数は減少傾向を示し、2003(平成15)年から2006(平成18)年にかけての爆発回数は年間十数回程度にまで収束した。2006(平成18)年6月4日に昭和噴火の火口跡付近において小規模な噴火が発生、以降、昭和火口が中心となって爆発の回数が再び増加へ転じた。2009(平成21)年以降の活動の活発化傾向は特に著しく、2006(平成18)年から2012(平成24)年の間において、従来の記録を大きく上回る爆発的噴火の影響により、昭和火口の大きさが2006平成18)年11月時点よりも約2.5倍の大きさに広がった。2013(平成25)年8月18日16時31分、昭和火口で爆発的な噴火が発生。噴煙の高さは、2006(平成18)年からの昭和火口の活動が再開して以来最も高い約5,000mまで達した。さらに、2016(平成28)年2月5日18時56分頃、昭和火口で再び爆発的なマグマ噴火が発生、噴煙の高さが約2,200mに達した。2020(令和2)年6月4日午前2時59分に南岳山頂火口で起きた噴火では、1955(昭和30)年10月の観測開始以降で最高高度の、火口から約7,850mから約9,570mの噴煙を観測した。2022(令和4)年7月24日20時05分に、南岳山頂火口で爆発的な噴火が発生し、噴石が火口から約2.5km付近まで飛散した。この噴火を受けて、気象庁は同日20時50分、噴火警戒レベルをこれまでのレベル3から、最も高いレベル5の「避難」に引上げ、最大限の警戒を呼掛けた。桜島に噴火警戒レベル5が発令されるのは初めてのこととなったが、3日後の7月27日には、噴火警戒レベルは3に引下げられた。