1月12日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2金曜日 旧暦 12月 2日、先勝(乙亥)、月齢  0.6  
グレゴリオ暦で年始から12日目、年末まであと354日。
誕生花 福寿草・ラケナリア・キンセンカ(黄)・ニワナズナ・雪割草。

スキー記念日、スキーの日。
1911(明治44)年1月12日、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍から交換将校として来日していたテオドール・エードラー・フォン・レルヒ陸軍少佐が、新潟県中頸城郡高田町(後の新潟県高田市、現在の新潟県上越市高田地区)にある陸軍第13師団歩兵第58連隊の営庭を利用して、中隊長であった鶴見宜信陸軍歩兵大尉ら、14名のスキー専修員に技術を伝授したことが、日本での本格的なスキー普及の第一歩とされている。東京都千代田区神田小川町に所在する、大阪市住之江区南港北に本社を置く、日本の総合スポーツ用品メーカー美津濃株式会社(ミズノ)のフラッグシップショップ(旗艦店とも呼ばれる、大都市の一等地に開設された、企業やブランドを象徴する大型の路面店舗で、情報発信基地としての役割を果たす)、「エスポートミズノ」が1994(平成6)年に、この日を記念して制定したもので、「エスポートミズノ」が募集した「スポーツ記念日」の1つでもあり、スキーのさらなる発展を目的としている。スキーは元々、狩人が獲物を追って雪の山野を移動する手段であったが、19世紀中頃からノルウェー南西部のテレマルク 地方を中心に、スポーツや、登山者の山麓での移動手段、西洋のアルプス地方の弓術と組合わせた戦の技術(対して、東洋は弓術と馬術)として進化を遂げた。スキー自体を楽しむ人々が増えるにつれ、スキーの練習に適した斜面のある山麓に練習場(ゲレンデ)ができ、本来の目的から独立したスポーツ・レジャーの場としてスキー場と呼ばれるようになった。 日本では、積雪期にも宿屋が営業する温泉地に愛好者が集まり、やがてスキー場として発展した(山形県米沢市にある五色温泉や、長野県下高井郡野沢温泉村にある野沢温泉がその奔りとされる)。ヨーロッパアルプス地方で普及したアルペンスキーを楽しむ人が多いが、クロスカントリースキーやテレマークスキーのような、アルペンスキーより先に北ヨーロッパのスカンジナビア半島で発展したノルディックスキーも同じく人気がある。アルペンスキーは、ヨーロッパアルプス地方で20世紀になって発展したスキー技術である。アルペンとは、ドイツ語で「アルプスの」という意である。スキーの原型であるノルディックスキーから分化し、ビンディングの踵を固定することにより滑降に特化して発達したスタイルである。雪の斜面をターンを繰返し、時には直滑降を織り交ぜつつ滑る。斜面は斜度0度から40度位以上までのさまざまな斜度で構成されるが、大半の愛好者は斜度10度位から20度位までを好む。滑走速度は、レジャー目的では時速40kmから時速60km程度までであるが、高速系競技では時速100kmを越える。大半の愛好者はスキー場で滑走するが、自然の、整備されない山を登って滑り降りる山岳スキーの愛好者も多い。ノルディックスキーの板と靴の構造は、靴を板に取付けるための器具であるビンディングでつま先だけが繋がれるものであり、アルペンスキーと比較すると、踵が固定されない点で異なる。ノルディックスキーは、長いストックと細長くて軽いスキー板で、雪原や整地されたなだらかなコースを滑る、冬季五輪正式種目であるクロスカントリースキー、太く長いスキー板で、ジャンプ台から飛躍する、冬季五輪正式種目であるスキージャンプ、アルペンスキーのように雪山やゲレンデを滑るテレマークスキーの3つの型に分類できる。テレマークスキーのテレマークという名称は、特に技術や用具について、ノルディックの別名としても用いられる。テレマークスキーには、世界選手権やワールドカップがある。テオドール・エードラー・フォン・レルヒ陸軍少佐は、1904(明治37)年から1905(明治38)年の間に、朝鮮、及び満州 (現在の中国東北部に所在) の支配権を巡る対立から発展した日本とロシアとの間の軍事衝突、日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、1910(明治44)年11月30日に交換将校として来日した。日本陸軍の長岡外史中将が率いる第13師団の御用商人でもあり、新潟県中頸城郡高田町を本拠にする実業家である五十嵐彌五八(後に五十嵐辰豊と改名)の経営する旅館「高陽館」に寄宿し、陸軍第13師団歩兵第58連隊に着任した。また、五十嵐彌五八は自身が経営する「報国商会」を介して、スキーの製造・宣伝活動・スキー音頭や高田小唄を作り、高田芸妓連にスキー踊りを教える等、「スキー」の全国認知に積極的に活動した。特に、信越・関東・東北・北海道のスキーの普及に大きく貢献したと言われる。青森県のほぼ中央に位置する八甲田山の雪中行軍で事故を起こしたばかりであった日本陸軍は、アルペンスキーの創始者であるオーストリア人、マティアス・ツダルスキーの弟子、テオドール・エードラー・フォン・レルヒのスキー技術に注目。その技術向上を目的として、第13師団歩兵第58連隊(歩兵第58連隊長は堀内文次郎)の営庭や、高田の金谷山等で指導を行なった。現在、新潟県上越市高田の金谷山には、日本スキー発祥記念館が設置され、テオドール・エードラー・フォン・レルヒの業績を伝えている。また、毎年2月上旬には、「レルヒ祭」を始めとした各種記念イベントが開かれている。1912(明治45)年2月、北海道の旭川第7師団へのスキー指導のため旭川市を訪問した後、4月には北海道でのスキー訓練の総仕上げとして、羊蹄山(標高1,898mで、円錐形の成層火山であり、富士山によく似たその整った姿から、郷土富士として蝦夷富士とも称される)に登るため北海道虻田郡倶知安町に到着。羊蹄山登山を行ない、羊蹄山の滑走も行なった。さらに、その後は日本各地の旅行に出て、下関から箱根、名古屋、伊勢、奈良、京都、広島を回り、門司港から朝鮮半島へ向かい、中華民国、イギリス領香港を経て、イギリス領インド帝国の演習を観戦した後、1913(大正2)年1月に帰国した。なお、テオドール・エードラー・フォン・レルヒは1本杖、2本杖の両方の技術を会得しており、日本で伝えたのは杖を1本だけ使うスキー術である。これは、重い雪質の急な斜面である高田の地形から判断した結果である。なお、ほぼ同時期に普及した北海道の札幌では、2本杖のノルウェー式が主流となっていた。1923(大正12)年に開催された第1回全日本スキー選手権大会では、2本杖のノルウェー式が圧倒し、テオドール・エードラー・フォン・レルヒが伝えた1本杖の技術は急速に衰退した。因みに、青年将校時にテオドール・エードラー・フォン・レルヒから、初めてスキーの技術を伝授された鶴見宜信はドイツ語が堪能で、テオドール・エードラー・フォン・レルヒの通訳に抜擢され、テオドール・エードラー・フォン・レルヒを補佐しながら各地で指導に当たった。陸軍大佐に昇進して間もなく予備役編入となったが、昭和初期まで高田に留まり、地元のスキー団の副団長を務めた。その後、故郷の栃木に戻り、1939(昭和14)年には栃木県上都賀郡日光町(現:日光市)の町長に就任する。隣組の創設等、国家総動員体制の整備に尽力する傍ら、栃木でもスキーの発展に情熱を注ぎ、栃木県スキー連盟理事長の千家哲麿や地元有志協力の下、奥日光の湯元にゲレンデを開発した。