1月11日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

厚生省発足記念日。
1938(昭和13)年1月11日、厚生省が発足したことによる。2001(平成13)年から、労働省と統合され、「厚生労働省」となった。医療・保健・社会保障等を所管していた厚生省は、政治史・政教を記した中国最古の歴史書『書経』の「正徳利用、厚生惟和(徳を正しくして用を利し、生を厚くしてこれ和す)」から名付けられた。当初、「保健社会省」と命名する予定であったが、枢密院(天皇の諮問機関[審議やな調査を行ない、意見を答申する機関])審査委員会において「保健社会省とは名前が長すぎる。以前、農商務省というのはあったが、三字止まりだ。もっと簡明な名前にした方がよい」という意見が、主として内務省(地方行政・警察・土木・衛生等の国内行政を担っていた中央官庁で、現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身に当たる)畑の諸職を歴任した顧問官(枢密院の表決に加わった枢密院議員)の南弘から出され、南弘顧問官から「漢籍に出所を持つ『利用厚生』云々は、まさに新省の所掌事務を示している。そこで、この厚生をとって厚生省としよう」という提案があったことに由来する。1938(昭和13)年、当時の陸軍大臣寺内寿一の提唱に端を発し、国民の体力向上、結核等伝染病への罹患防止、傷痍軍人や戦死者の遺族に関する行政機関として、内務省から衛生局、及び社会局が分離される形で、厚生省が設置される。当時は、人材を主に内務省内で発掘して、厚生省へ出向させる形を取っていた。1947(昭和22)年9月1日には、労働行政部門が労働省として分離するが、2001(平成13)年の中央省庁再編(「縦割り行政[個別の中央省庁が、国から地方自治体に至るまでを、その管轄毎に支配しているピラミッド型の行政システムのことで、特に、不条理な役割分担や各省庁の過剰な管轄意識によって、行政サービスが非効率に陥る、いわゆる縦割り行政の弊害を批判する論調で用いられる]による弊害をなくし、内閣機能の強化、事務、及び事業の減量、効率化すること」等を目的として、日本の中央省庁が、これまでの1府22省庁から1府12省庁に再編統合されたもの)に伴ない、労働省と再統合され、厚生労働省となった。
塩の日。
1569(永禄11)年当時、内陸国である甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄と、日本海に面した越後国(現在の新潟県本州部分)の上杉謙信は交戦中であった。その最中、当時甲斐国に塩を供給していた駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の今川氏は、武田氏と反目し始め、甲斐国への塩の輸出を絶ってしまう。それを知った上杉謙信は、越後国の塩を送ったとされている。敵対国であるにも拘らず、塩を送った上杉謙信の行為は、高く評価され後世に伝わる。この話から「敵に塩を送る」(敵対する相手に援助を差し伸べること)という言葉が生まれた。現在の新潟県糸魚川市と長野県松本市間を結ぶ「塩の道・千国街道」によって、塩が運ばれた。1月11日は、武田領の松本に塩が届いた日とされ、松本ではこの日に塩市が開かれていた。名称は江戸初期の頃より「飴市」に変わっており、江戸時代の松本城下の最大の行事で、「初市」とも呼ばれ、正月の市初めに塩やあめが売られていた。一時は衰退気味であったが、イベント化することによって活気が戻り、現在では1月11日の前後の土日に、「松本あめ市」という年頭の大売出しが開催されている。但し、当時の資料からは、塩止め(荷留)をしたという事実は無いと考えられ、後世の人の作った美談とされている。塩の道とは、塩や海産物を内陸に運ぶのに使われた道のことをいう。また、反対に内陸からは、山の幸(食料に限らず、木材や鉱物も含む)が運ばれた道でもある。製塩が化学製法に代わり、「塩専売法(明治38年1月1日法律第11号)」に依る規制が掛けられる以前は海辺の塩田に頼っていたことから、日本の各地で、海と山を結ぶ形で数多くあった。日本各地にあった塩の道は、現在も整備された形で物流の主要なルートとして残っている。日本では、全国各地に塩の運搬路は幾つもあり、特に、雪深い内陸地域に住む住人にとって、冬場は漬物や味噌を作って保存する等、塩が生活に欠かせないことから、重要な生活路であった。また、宿場町やその周辺は、藩によって重点的な開発が行なわれた例もある。その代表例とされる千国街道は、新潟県糸魚川から長野県大町を経て松本盆地の松本・塩尻に至る道筋である。別名、糸魚川街道、松本街道とも呼ばれる。信濃側では糸魚川街道、越後側では松本街道と呼称された。塩は人間の生存に必須のため、古くから政治的、経済的に重要な位置を占めていた。世界各地に海岸部の塩田や内陸部の塩湖から塩を運ぶ道があり、塩を扱う商人は大きな富を得た。日本でも、江戸時代に財政確保、若しくは公益を目的として、塩の専売を導入する藩が多くあった。財政確保を目的とした藩としては、1701(元禄14)年に起きた赤穂事件(江戸城松之大廊下で、高家旗本の吉良上野介義央に斬り付けたとして切腹に処せられた播磨国赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47名が吉良上野介義央を討った事件)を基にした創作作品の『忠臣蔵』で知られる赤穂藩は、その代表格である。しかしながら、遠浅海岸の満潮水位以下の場所に堤防を築き、その内側に砂層地盤の塩田を設けたものである入浜式塩田は、潮の干満差を利用した製法のため、緯度の高い地域での生産は困難であり、その北限は太平洋側は現在の宮城県、日本海側は現在の石川県であった。東北地方北部等では、薪を大量に使い海水を直接煮詰めるという原始的な製法から脱却できず、生産量は極めて少なかったため、藩が公益事業として専売制度を導入し、塩の産地である瀬戸内地方からの交易で供給を確保せざるを得なかった。また、主に北海道、樺太(オホーツク海の南西部にある、現在のロシア連邦サハリン州の島)、千島列島(北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島)に居住する先住民族であるアイヌ民族においては、塩の入手の殆どは和人(アイヌ民族以外の日本人)との交易に頼っていた。明治時代になり、政府でも、1904(明治37)年から1905(明治38)年の間に、朝鮮、及び満州 (現在の中国東北部に所在) の支配権を巡る対立から発展した日本とロシアとの間の軍事衝突、日露戦争の財源確保のために、塩に税金を掛ける案(非常特別税法[戦費調達のために行なった臨時の増税])が出たが、これに反対する人達が塩の販売を専売制にするように提案、これが議会で通り、「塩専売法(明治38年1月1日法律第11号)」が制定され、塩の専売制が始まった。1905(明治38)年、大蔵省(現在の財務省と、内閣府の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織で、独任制の庁]で、金融に関する制度の企画立案、金融機関の検査、監督、監視を担当する中央行政機関、金融庁の一部の前身)専売局が設置されて塩の専売制が開始され、当時はタバコや樟脳(特異な芳香のある無色透明の板状結晶で、クスノキの木片を水蒸気蒸留して製し、歴史上初のプラスチック素材であるセルロイドや無煙火薬の製造原料、香料、防虫剤、医薬品等に用いる)と共に、財源確保の目的の強い専売品であったが、第一次世界大戦期のインフレーション(物価が持続的に上昇する経済現象)等により、財源確保の意味合いは薄れ、大正末期頃からは、国内自給確保という、公益目的の専売制度に変化した。