1月11日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2木曜日 旧暦 12月 1日、赤口(甲戌)、月齢 29.1   
グレゴリオ暦で年始から11日目、年末まであと355日。
誕生花 カーネーション(ピンク)・カポック・セリ・ニオイヒバの花・ミスミソウ・譲葉・梅(白)。

二十四節気・雑節等
新月。
朔。朔とは、月と太陽の視黄経(天球上における太陽の見掛けの通り道[大円])が等しくなること、また、その時刻のことである。現代的な定義での新月と同義である。地球から見て月と太陽が同じ方向となり、月から反射した太陽光が地球に殆ど届かないことと、強い太陽光の影響とで地上からは月が見にくい。黄道と白道が極めて近いか重なる地点(月の交点)で朔となった場合に食である日食が起こる。朔の瞬間を含む日を朔日という。陰暦(太陰太陽暦を含む太陰暦)では、朔日を月の始まる日「1日」とする。月の始まりは「月立ち(つきたち)」が転じて「ついたち」と言うため、朔日は「ついたち」と訓読みし、「朔」だけでも「ついたち」と読む。新月は、本来は朔の後に初めて見える月のことである。陰暦二日までは月は殆ど見えないので、陰暦三日頃の月(三日月)が新月となる。
泉水温をふくむ。
七十二候の1つ(68候)。

鏡開き。
鏡開きは、正月に年神(毎年正月に各家にやって来る、来方神と呼ばれる神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事であり、神仏に感謝し、また、その供えられたものを頂いて無病息災等を祈って、汁粉(小豆等を砂糖で甘く煮た小豆汁の中に、餅や白玉団子、栗の甘露煮等を入れた食べ物で、関東では漉[こ]し餡を用いたものもつぶし餡を用いたものも汁粉と呼ばれるが、関西では漉[こ]し餡を用いたもの汁粉と呼び、つぶし餡を用いたものは、ぜんざいと呼び分けるのが通例である)や雑煮(餅を主な具とし、醤油や味噌等でダシを味付けたつゆをはった日本料理で、世界的に見るとスープ料理の1つであり、日本では正月に多く食べられ、地域や家庭によって違いがある)等で食される。地方によって日が違い、1月20日に行なう地方もある。京都府やその近隣の一部では、1月4日に鏡開きを行なうが、その理由は不明とされている。元々は、松の内が終わる小正月(旧暦1月15日)後の旧暦1月20日に行なわれていたが、江戸幕府第3代将軍徳川家光が亡くなったのが1651(慶安4)年4月20日 (旧暦)であったため、20日を忌日として避け、後に、松の内後の旧暦1月11日とされた。現在では一般的に、新暦の1月11日に行なわれる。江戸時代、新年の吉日に商家では蔵開きの行事をしたが、武家では鎧等の具足に供えた具足餅を下げて、雑煮等にして食し、これを「刃柄(はつか)」を祝うと称した。また、女性が鏡台に供えた鏡餅を開くことを「初顔」を祝うと称した。この武家社会の風習が一般化したものが、鏡開きである。江戸城では、重箱に詰めた餅と餡が大奥にも贈られ、汁粉等にして食べたとされる。刃物で餅を切るのは切腹を連想させるので手や木鎚で割り、「切る」「割る」という言葉を避けて「開く」という言葉を使用する(「開き」は「割り」の忌み言葉)。鏡は円満を、開くは末広がりを意味する。また、鏡餅を食すことを「歯固め」という。これは、硬いものを食べ、歯を丈夫にして、年神様に長寿を祈るためと言われる。鏡餅の割れ方で占いをする地域もあり、「鏡餅の割れが多ければ豊作」と言われている。武家の具足式を受継ぎ、柔道場・や剣道場等では、現在も鏡開き式を新年に行なうところもある。鏡餅は、餅を神仏に供える正月飾り(床飾り)であり、 穀物神である「年神(歳神)」への供え物で、日本の伝統である。鏡餅という名称は、昔の鏡の形に似ていることによる。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事等に用いられるものであった。三種の神器の1つ、八咫鏡を形取ったものとも言われる。また、三種の神器の他の2つ、八尺瓊勾玉に見立てた物が橙(ダイダイ)、天叢雲剣に見立てた物が串柿であるとされる。平安時代には既に存在し、平安時代中期に成立した長編物語『源氏物語』には「歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取寄せて」の一節がある。 鏡餅が、現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降である。因みに、祝宴等で菰(こも)を巻付けた酒樽(菰樽という)の蓋を木槌で割って開封することも鏡開きという。これは、酒屋では酒樽の上蓋のことを鏡と呼んでいたことに由来する。また、この場合は鏡抜きと呼ぶこともあり、「鏡開き」と呼ぶのは誤りという説もある。なお、菰樽は、マコモという植物を粗く編んだむしろで、現在は多く藁を用いる菰を巻いた酒樽で、元は、船での運搬時の樽の破損を防ぐために巻いたが、菰に美麗な絵等を描き、祝宴での鏡抜きに使うことが多くなった。  
蔵開き。
蔵開きは、新年に吉日を選んで蔵を開く儀式である。江戸時代には、諸大名家では初めて米蔵を開くことをいい、商家では1月2日の初荷の出入りで蔵を開く習いであったが、一般には1月11日を蔵開きの日とした。この日はまた、鏡開きの日でもあり、昔は鏡餅を割り、汁粉や雑煮等にして、主従や家族同士で共に食べ、互いの関係を密にした。土蔵とは、日本の伝統的な建築様式の1つで、木骨、外壁を土壁として、漆喰(瓦や石材の接着や目地の充填、壁の上塗り等に使われる、水酸化カルシウム[消石灰]を主成分とした建材)等で仕上げられるものであり、日常では単に蔵と呼ばれることが多く、この様式で作られた建物は、土蔵造り・蔵造り等と言われる。米穀、酒、繭等の倉庫や保管庫として、防火、防湿、防盗構造をもって建てられるものの他、保管庫と店舗を兼ねて建てられるものもある。店舗・住居を兼ねるものは「見世蔵(店蔵)」と呼ばれることもあり、倉庫・保管庫として建てられるものとは分化して発展して来た。起源ははっきりとはしない。土蔵の場合は、開口部をなるべく小さくし、耐火壁の部分を多く取って、耐火性能を向上させることを重視して設計される。また、内部も、保管・収蔵を目的としているため、細かい間取り等はなされない。対して、見世蔵の場合は、店舗・住居として使うことを主目的としているため、耐火性能面では多少の妥協がなされ、商店部分の間口や住居部分の窓等の開口部が設けられている。内部の間取り等も通常の商店建築に準ずる。土蔵の他、石蔵の様式を採用したもの等も見られる。古い宿場町や商都等には、漸減しながらもある程度残されており、近年では、トタンを剥がし、板張りや漆喰壁にする等、観光資源としての積極的な利用に転じている事例もある。中世にも町屋等と共に建てられており、近世、鉄砲の伝来の影響により、城郭にも防火・防弾のために漆喰大壁の技術が用いられ、30cm以上の分厚い壁を多用したことで、安土桃山時代後期から江戸期前後の櫓や天守等の防御施設は、土蔵造りとなった。江戸時代以降には、城郭で発展した技術も生かされ、火災や盗難防止のために盛んに建てられ、後に裕福さの象徴ともなった。明治以降には、土壁の上に漆喰ではなくモルタル(コンクリートやアスファルト混合物を作る際に用いられる材料、砂等の細骨材と、セメントと水とを練り混ぜて作る建築材料で、ペースト状で施工性が良く、仕上材や目地材、躯体の調整等に多く用いられる)を塗り、洋風に仕上げられることもあった。また、土壁ではなく、煉瓦や大谷石(栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材で、柔らかく加工がし易いことから、古くから外壁や土蔵等の建材として使用されてきた)で造られたものもある。現在は、伝統的な外観を生かして、飲食店等の商業施設や博物館に転用されることもある。壁厚は約300mm以上あることが多く、開口部の外戸等も土戸(土と漆喰で戸の外部表面を覆ったもの)とすることがある。古くは江戸時代の大火、近代では空襲による大火でも、内部に火が回らない事例が多かった。但し、空襲で使用された焼夷弾とは、屋根を貫通した後、内部で発火する兵器のため、屋根に焼夷弾が直撃した場合は、外壁は無事でも、内部が焼落ちたという例も多い。また、かつては、いざ近隣で火災が発生したという際、普段出入りの左官が駆付け、用意してある用心土と呼ばれる粘土を、土蔵の全ての隙間に叩付け、土蔵への延焼を防ぐといった防火活動もあった。