1月9日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

風邪の日。
江戸時代の大横綱とされる第4代横綱、二代谷風梶之助が、1795(寛政7)年当時、流行した風邪(インフルエンザ)に罹り、現役中にこの世を去った(旧暦1月9日)。二代谷風梶之助は、陸奥国宮城郡霞目村(現在の宮城県仙台市若林区霞目)出身で後年の文献等、通俗上初代と扱われる場合も少なくない。初代は元禄時代の大関であり、讃岐の谷風と称されていたが、これに対して2代目は、仙台の谷風と称されていた。第4代横綱であるが、実質的な初代横綱ともされ、大相撲史上屈指の強豪である。また、力量・人格の面で、後の横綱の模範とされた。1778(安永7)年3月場所初日から1782(天明2)年2月場所7日目まで、分(引分)・預(勝負結果を行司、若しくは、審判委員が「預かり置く」ことで、物言いの付いた際どい相撲等で、敢えて勝敗を決めない場合等に適用された預り)・休を挟みながら、江戸本場所で土付かずの63連勝、さらに、その後43連勝を記録した。この63連勝は、約150年後に第35代横綱、双葉山定次が69連勝を達成するまで、最多連勝記録保持者であった。しかし、この63連勝は、江戸本場所だけの連勝記録で、京都本場所や大坂本場所の成績も含めた場合は、1782(天明2)年2月場所8日目から1786(天明6)年3日目まで、98連勝を達成していることとなる。幕末までは、江戸・京都・大坂のレベルはそれ程差が無く、さらに、江戸 - 京都 - 大坂間の力士の往来と、各場所の交流は自由であったものの、一般的に連勝記録とは、「江戸本場所の63連勝」を指す。しかし、江戸・京都・大坂まで含めた98連勝は最多連勝記録で、現在でも未だに破られていない。この98連勝は間に「5分・5預・3無」を含んでいるため、第35代横綱、双葉山定次や第69代横綱、白鵬翔のように、完全に白星だけを連ねた連勝では無い。もし、「分・預でも連勝は中断される」とする解釈であれば、二代谷風梶之助の連勝は23に留まる。但し、当時は、現在のような取直しの制度がなかったためでもあり、江戸・京都・大坂を通じて、80連勝以上を2回記録している二代谷風梶之助は、連勝においては、他の追従を許さない圧倒的な記録を保持している。因みに、江戸本場所の連勝記録を63で止められた第5代横綱、小野川喜三郎との取組みに勝利していれば、江戸・京都・大坂を通じて183連勝になっていた。1789(寛政元)年、小野川喜三郎と共に、吉田司家(現在まで800年以上の歴史を持つ、公家の五条家に代わる相撲の司家[家元])の吉田追風から最初の横綱免許を授与される。この時が、実質の横綱制度の発祥とする見方が、現在では定説である。1791(寛政3)年には、第11代将軍徳川家斉の上覧相撲で、小野川喜三郎と取組みを行なう。この時に将軍家から弓を賜り、これを手に土俵上で舞ってみせたのが、現在の弓取式の始まりとされる。1795(寛政7)年1月9日(旧暦)、江戸全域で猛威を奮った風邪(インフルエンザ、流行性感冒[流感])によって、35連勝のまま現役死した。44歳没。このことから、風邪を「タニカゼ」と呼ぶようになった、と伝えられているが、正しくは、二代谷風梶之助が生前に「土俵上でワシを倒すことはできない。倒れているところを見たいのなら、ワシが風邪に罹った時に来い」と語った時に流行っていた風邪(インフルエンザ、流行性感冒[流感])を「タニカゼ」と呼んだものである。死因となった風邪(インフルエンザ、流行性感冒[流感])は「御猪狩風」と呼ばれたが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。なお、普通の風邪は1年を通してみられるが、インフルエンザ(流行性感冒[流感])は季節性を示し、日本では例年11月頃から12月頃に流行が始まり、1月頃から3月頃にピークを迎える。多くは上気道(呼吸器[気道]の内、鼻から鼻腔、鼻咽腔、咽頭[のど]、喉頭[咽頭と気管の狭間]までをいう)炎症状・呼吸器疾患を伴なうことで、流行性感冒、詰めて流感と言われる。季節性インフルエンザには、A型、B型、C型の3種類があり、全ての年齢層に対して感染し、世界中で繰返し流行している。全世界では、毎年約300万から約500万の人がインフルエンザに感染し、約25万から約50万の死者を出している。先進国における死者は、65歳以上人口が最も多く、病欠・生産性低下といった社会的コストも大きい。主に動物に感染するインフルエンザ感染症であるが、インフルエンザウイルスの変異によって動物からヒト、ヒトからヒトへ感染することも懸念されている。「ヒトからヒト」への伝染が確認されると、新型インフルエンザと呼ばれる。風邪の多くは、発症後の経過がゆるやかで、発熱も軽度であり、くしゃみやのどの痛み、鼻水・鼻づまり等の症状が主にみられる。これに対し、インフルエンザ(流行性感冒[流感])は高熱を伴なって急激に発症し、全身倦怠感、食欲不振等の「全身症状」が強く現れる。関節痛、筋肉痛、頭痛等も現れ、インフルエンザ(流行性感冒[流感])は、肺炎や脳炎(インフルエンザ脳炎)等を合併して重症化することがある。日本では、平安時代に近畿地方でインフルエンザらしき病気が流行した、との記述が残っており、江戸時代には幾度か全国的に流行し、「お七かぜ」「谷風」「琉球風」「お駒風」等、当時の世相を反映した名称で呼ばれた。古くから風邪、風疫とされる通り、悪い風が吹いて人々を病気にするという認識があった。幕末には、インフルエンザの名称が蘭学者より持込まれ、流行性感冒(略して流感)と訳された。インフルエンザと呼ばれる以前は、江戸の人気芝居「お染久松」の「染」に掛けて、俗に「お染かぜ」と称され、惚れた恋風に見立てた。民家の玄関に「お染御免」「久松留守」等の張り紙をしたという。因みに、二代谷風梶之助の出身地である宮城県仙台市では、昔から俚謡(民謡の古称の1つで、里は村里、俚は賤しい、鄙びた等の意で、在郷歌、風俗歌[ふぞくうた]等と同義となる)で「わしが国さで見せたいものは、むかしゃ谷風、いま伊達模様」と謡われ、現在でも伝わっている。二代谷風梶之助の墓は、1928(昭和3)年に参道設置や周辺整備が行なわれたが、航空機乗員養成所等が置かれた仙台飛行場(対戦車ヘリコプターによる戦闘、及び方面隷下の各部隊に対する航空偵察・空中機動・航空輸送・指揮連絡等を主任務とする、陸上自衛隊東北方面隊直轄の航空科部隊、東北方面航空隊等が駐屯する、現在の陸上自衛隊霞目駐屯地)の拡張に伴ない、1942(昭和17)年に宮城県仙台市若林区霞目の現在地へ移転した。2011(平成23)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で墓石が大きく移動したが、墓は背後の木に支えられて倒壊を免れた。なお、墓の東方には、霞目字谷風という地名が残る。また、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の際、陸上自衛隊霞目駐屯地がある場所は、海岸から約5km内陸に位置すると共に、海抜が若干高い地域であり、盛り土構造の仙台東部道路が堤防の役割を果たしたことも相まって、津波による被害は免れ、日本全国から陸上自衛隊や様々な機関のヘリコプターが飛来し、活動拠点や輸送・補給拠点等として機能した。宮城県仙台市の都心部、青葉区本町にある都市公園、勾当台公園には、二代谷風梶之助像が設置されている。新横綱が誕生した後、最初に行なわれる仙台巡業の際には、二代谷風梶之助像の前で、新横綱が土俵入りを奉納することが恒例とされている。また、仙台駅西口には、「谷風通」との愛称が付けられた道路がある。