1月9日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2火曜日 旧暦 11月28日、友引(壬申)、月齢 27.1  
グレゴリオ暦で年始から9日目、年末まであと357日。
誕生花 スミレ(紫)・ハコベ・ヒトリシズカ・雪の下。

とんちの日、クイズの日。
「とんち」で有名な一休さん(一休宗純)から、1月9日の「1」と「9」で、「一休(いっ[1]きゅう[9])」と語呂合せした日。「とんち」を「クイズ」の意味に捉えて、「クイズの日」ともされている。クイズとは、問題を出し、それに答えさせる遊びで、また、その問題のことをいう。日本では主に、「知識を問う問題」の意味で使われている。日本では当初、本来は隠してある物を言い当てる遊びを指す「当てもの(あてもの)」を、英語であるクイズの訳語として使用した時期もあり、1950(昭和25)年頃から「クイズ」という表記が定着している。頓智話は、頓智(とんち)を中心にした話の総称で、頓知話、とんち話等とも書く。日本における頓智話の代表的な類型は、「和尚と小僧」と呼ばれる、頓知のきく小僧が、俗気の抜けない和尚をやり込める形式の話である。この類型の説話は、古くは、鎌倉時代中期の1283(弘安6)年に成立した、話芸の祖ともされる僧侶、無住による仏教説話集『沙石集』や、同じく無住による仏教説話集『雑談集』に見ることができる。また、江戸時代初期の1623(元和9)年、又は1628(寛永5)年に成立した、茶人や文人としても知られ、落語の祖とも言われる僧侶、安楽庵策伝による、庶民の間に広く流行した話を集めた笑話集『醒睡笑』にも、この類型の説話が収録されている。「和尚と小僧」の類型の説話の一部は、中国や朝鮮半島にも見られることから、日本独自のものではなく、中国から日本や朝鮮半島に伝わったものと考えられている。 江戸時代に入ると、、元禄時代(17世紀終わり頃から18世紀初頭にかけての時代)以降、一休宗純の幼少期の逸話として纏められた「一休咄(一休話、一休ばなし)」が広く流布した。著名な頓智話には、他に、肥後国熊本藩八代(現在の熊本県八代市)の下級武士、彦一(ひこいち)を主人公とする「彦一話(彦一ばなし)」、豊後国野津院(現在の大分県臼杵市野津地区(旧大分県大野郡野津町))の庄屋、吉四六(きっちょむ)を主人公とする「吉四六話」(吉四六ばなし)等があり、これらは話の面白さ等から、児童文学として遍く紹介された。これらの頓智話の中にも、中国に類話があるものも存在する。また、同じような説話が、彦一や吉四六、その他、郷土の英雄で登場したりする。日本民俗学の開拓者とされる民俗学者、柳田邦男の民俗学を学んだ児童文学者、小山勝清は、頓智話の多くは実話ではなく、フィクション的な要素を持ち、そして、各々の地域で大人から子供達に語り伝えてきた、一種の文化啓蒙、情操教育活動とみている。そのため、それらは、各々の郷土に主人公が存在し、そしてそれらが実話である必然性もなく、また、時代の変遷を経て内容が改変された作品が登場しても、何ら不思議はないとしている。一休宗純は、室町時代中期の臨済宗(師から弟子への悟りの法嗣[はっす、伝達のこと]を重んじる日本の禅の宗派の1つ)大徳寺派の僧侶で、大徳寺(現在の京都市北区紫野大徳寺町に所在)の住持であったが、諸国を漫遊した。出生地は京都で、出自は第100代天皇、後小松天皇の落胤(父親に認知されない庶子、私生児のこと)とする説が有力視されている。6歳で京都の安国寺(現在の京都市中京区四条大宮付近に所在したと伝わるが、廃寺となっている)の僧侶、像外集鑑に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、1406(応永13)年、13歳の時に作った漢詩『長門春草』、1408(応永15)年、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となった。1410(応永17)年、17歳で臨済宗の僧侶、謙翁宗為の弟子となり、戒名を宗純と改める。ところが、謙翁宗為は1414(応永21)年に死去し、この頃に一休宗純も自殺未遂を起こしている。翌1415(応永22)年には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、華叟宗曇より一休の道号を授かる。なお「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指す。1420(応永27)年、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟(はっきりと理解すること)する。華叟宗曇は印可(師がその道に熟達した弟子に与える許可)状を与えようとするが、一休宗純は辞退した。華叟宗曇は、ばか者と笑いながら送り出したという。それ以後は、詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。1428(正長元)年、後小松天皇の譲位を受けて即位していたが、生来病気勝ちであった第101代天皇、称光天皇が男子を残さず崩御し、持明院統(第89代天皇、後深草天皇の子孫)の嫡流、伏見宮家より第102代天皇、後花園天皇が称光天皇の猶子(兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度)となって皇統を継ぎ、即位した(この系統が今日の皇室に連なっている)が、この即位には一休宗純の推挙があったという。1474(文明6)年、後花園天皇の第一皇子である第103代天皇、後土御門天皇の勅命(天皇の命令)により、大徳寺の住持(一寺を管領する最高位の僧職)に任ぜられた。一休宗純は、寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭(禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄添って建てた庵等の小院)の真珠庵は、一休宗純を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺(現在の京都府京田辺市に所在する、臨済宗大徳寺派の寺院)を中興し、草庵(出家した僧や隠遁者が人里離れて住む簡素な建物)の酬恩庵を結び、妙勝寺は後に、「一休寺」とも呼ばれるようになった。一休宗純は、天皇に親しく接せられ、さらに民衆にも慕われたという。一休宗純は、仏教の菩薩戒(自己の悪を抑え、善を勧めるだけでなく、利他を含む戒律)で禁じられていた飲酒や肉食、女犯を行なった。また、木製の刀身の朱鞘の大太刀を差す等、風変わりな格好をして街を歩き回った。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない、当時の世相を批判したものとされる。親交のあった本願寺第8世門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという。さらに、正月に杖の頭にドクロを設え、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧である普化等、中国唐朝時代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の顕われとされる。同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていた、と解釈されている。戒律や形式に捉われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼び、江戸時代に一休宗純をモデルとして、一休宗純の逸話集『一休咄』に代表される「頓知咄(とんちばなし)」を生み出す元となった。一休宗純は能筆で知られ、詩人でもあり、室町幕府第8代将軍足利義政の営んだ東山山荘 (慈照寺銀閣、現在の京都市左京区銀閣寺町に所在) に象徴される室町時代中期の文化、東山文化を代表する人物とされる。