1月8日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

平成スタートの日、平成はじまりの日、平成改元の日。
1989(昭和64)年1月7日午前6時33分の第124代天皇、昭和天皇の崩御(天皇の死亡を表わす敬語)を受けて、皇太子明仁親王が即位した(天皇明仁、現在の上皇明仁)。1月7日午後の臨時閣議で次の元号を「平成」と決定し、翌日1月8日0時の到来と共に、自動的に「平成元年1月8日」と改元がなされた。「元号法(昭和54年6月12日法律43号)」に基づく政令(「元号を改める政令[昭和64年1月7日政令第1号]」)により定められた初の元号であり、日本最初の元号「大化」以来、247番目となる。また、「元号の読み方に関する件(昭和64年1月7日内閣告示第6号)」が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示された。政府は、昭和天皇崩御の当日の午後、8名の有識者で構成された「元号に関する懇談会」と衆参両院正副議長に「平成」「修文」「正化」の3つの候補を示し、意見を求めた。その際、委員の間から、「修文(しゅうぶん)」「正化(せいか)」の2候補は、ローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になるので不都合ではないか、という意見が出て、全員一致で「平成」に決まったと伝えられる。同日14時10分から開かれた臨時閣議において新元号を正式に決定し、14時36分、内閣官房長官の小渕恵三が記者会見で発表した。小渕恵三が新元号「平成」を墨書した台紙を示す姿は、新時代の象徴とされた。新元号の発表時に小渕恵三が述べた「平成」の名前の由来は、前漢時代の歴史家、司馬遷によって編纂された正史の第一に数えられる中国の歴史書『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、政治史・政教を記した中国最古の歴史書『書経』大禹謨の「地平天成(地平かに天成る)」からで、「内外、天地とも平和が達成される」という意味となる。日本において、元号に「成」が付くのはこれが初めてであるが、「大成」(中国北周)や「成化」(中国明朝)等、外国の年号や第13代天皇、成務天皇の諡号にも使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号と言える。江戸時代最末期、「慶応」と改元された際の別案に「平成」が有り、出典も同じ『史記』と『書経』からとされている。なお、最終案である「平成」「修文」「正化」の他に「文思」「天章」「光昭」等の案も存在したと言われる。平成は、2014(平成26)年に延暦(25年)を追抜いて以来、日本の元号では、昭和(64年)・明治(45年)・応永(35年)に次いで、4番目に長く続く元号になっている。1868年10月23日(慶応4年9月8日)、第122代天皇、明治天皇の即位により、慶応が明治と改元された。この時は、1868年1月25日(慶応4年1月1日)に遡って適用された。また、天皇一代に元号は1つという詔書(天皇の命令を直接に伝える文書)「今後年号ハ御一代一号ニ定メ慶応四年ヲ改テ明治元年ト為ス及詔書(一世一元の詔、明治元年9月8日行政官布告)」も併せて出され、天皇在位中の改元は行なわないものとした。1912(明治45)7月30日、明治天皇の崩御と第123代天皇、大正天皇の即位(践祚[天皇の位を受継ぐこと])により、改元の詔書「明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス(明治45年7月30日官報)」を公布、即日施行して、同日は大正元年7月30日となった。1926(大正15)年12月25日、大正天皇が崩御して、摂政宮裕仁親王(後の第124代天皇、昭和天皇)が践祚したため、改元の詔書「大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ、昭和元年ト為ス(大正15年12月25日官報)」によって昭和に改元され、同日は昭和元年12月25日となった。皇太子裕仁親王は、1921(大正10)年11月25日に、病が篤くなった大正天皇の摂政(君主が幼少、女性、病弱、不在等の理由でその任務[政務や儀式]を行なうことができない時、君主に代わってそれを行なう[政を摂ること、又はその役職)に就き、以来天皇の名代としての務めを行なっていた。同日に改元されていた大正と昭和の際と異なり、平成改元の際に翌日から施行された背景として、当時は、文書事務の煩雑化や、ワードプロセッサを初めとするOAに伴なうコンピュータプログラムの変更等を行なうためと報道された。当時の内閣官房長官であった小渕恵三が、総理大臣官邸での記者会見で使用した台紙に『平成』と文字を揮毫(毛筆で言葉を書くこと)したのは、内閣総理大臣官房(当時、中央省庁再編後は内閣府大臣官房)人事課辞令専門職の河東純一である。記者発表の20分程前、「平成」と鉛筆で書かれた紙片を渡され、新元号名を知る。その後、河東純一自らが用意した4枚の奉書紙(和紙の原料として使われているクワ科の植物、楮[コウゾ]を原料とした厚手の紙)にそれぞれに平成と書き、4枚目を額に入れ、ダンボールと風呂敷で梱包したものが、内閣官房長官小渕恵三の元へと運ばれた。河東純一本人の談によれば、初めて平成と知った時、「画数の少ない字は形が取りにくく、書きにくい」と思ったそうである。また、4枚目を選んだのは、上手い下手に関係なく、初めから4枚目を提出するつもりであったとも語っている。新元号を墨書する場所は、予め同官房内政審議室の会議室と決められていた。入室した際の同室では、数人が別の作業を行なっていたので、頼んで作業机の片隅を空けてもらい、「平成」を書上げた。作業机は比較的高く、椅子はパイプ椅子で、周囲もやや喧騒であったため、非常に書きにくかったそうである。河東純一は、2005(平成17)年12月に職務(20万枚以上に及ぶ官記・位記・辞令、及び表彰状等の作成)の功績を認められ、第18回「人事院総裁賞」個人部門を受賞した。その「平成」の奉書紙は、平成改元時の内閣総理大臣であった竹下登に贈呈され、竹下登元首相私邸に飾られていたが、現在は、国立公文書館(東京都千代田区北の丸公園に所在する、公文書を保存し、研究者も含め一般に公開する機関)に寄贈されている。なお、1987(昭和62)年11月6日から 1989(平成元)年6月3日まで、竹下登内閣で第49代内閣官房長官を務めた小渕恵三は、政界に甚大な影響力を誇った竹下登の側近として地歩を築き、敵を作らない性格から、「人柄の小渕」の異名をとった。平成への元号変更に当たり、総理大臣官邸(内閣総理大臣の執務の拠点で、移動[建築物をそのままの状態で移動する建築工法、曳家]して改装され、2005[平成17]年からは、内閣総理大臣の官舎、総理大臣公邸となっている)での記者会見で、「新しい元号は『平成』であります」と、平成を公表した。新元号の発表は、国民的な注目を集めていたこともあり、小渕恵三は、通称「平成おじさん」として、広く知られるようになった。小渕恵三が「平成」と書かれた色紙の収められた額を掲げるシーンは、昭和から平成への時代変遷を象徴する映像・写真として、その後も多く利用されている。また、2019(平成31/令和元)年の平成終了を控え、再び話題になった。1998(平成10)年7月30日、小渕恵三は第84代内閣総理大臣に任命され、小渕恵三内閣が発足した。低空飛行の支持率からスタートした小渕恵三内閣であるが、政権基盤は安定し、小渕恵三による長期政権も視野に入っていた。しかし、2000(平成12)年4月2日、小渕恵三は、脳梗塞(脳を栄養する動脈の血行不良により、酸素や栄養を受けている神経細胞が死ぬことで、さまざまな症状をきたす病気)を発症した。