1月6日 できごと その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1912年 - アメリカ合衆国議会が、南西部にあるニューメキシコを、アメリカ合衆国47番目の州として承認する。 
1912年 - ドイツの気象学者、アルフレート・ヴェーゲナーが、ドイツ地質学会で初めて大陸移動説(大陸は地球表面上を移動して、その位置や形状を変えるという学説)を発表する。大陸移動説の発想自体は古くからあり、様々な人物が述べているが、一般には、アルフレート・ヴェーゲナーが1912年に提唱した説を指す。アルフレート・ウェーゲナーの大陸移動説は、発表後長く受容されなかったが、現在では、プレートテクトニクス理論の帰結の1つとして実証され、受入れられている。アルフレート・ウェーゲナーは、大陸移動を思い付いたきっかけとして、大西洋両岸の大陸の形状(特に、アフリカと南アメリカ)が一致することを挙げているが、これについて言及している人物は、最も古くは、1596年に、フランドル(現在のオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域で、中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した)の地図製作者アブラハム・オルテリウスがいる。具体的に証拠を挙げて、かつて大陸同士が繋がり、超大陸を形成していたと述べたのは、1901年に、アルプス山脈の地理の専門家として知られたイギリス生まれの地質学者、エドアルト・ジュースで、ペルム紀(今から約2億9,900万年前から約2億5,100万年前までを指す地質時代)に栄えた裸子植物グロッソプテリスの化石の分布から、南アメリカ、アフリカ、インドが1つの大陸であったと考え、ゴンドワナ大陸と名付けた。また、アルプスの山から海底堆積物や海生生物の化石が見付かることから、かつてそこは海の底であったと考え、地中海よりも広かったそれをテチス海と名付けている。しかし、エドアルト・ジュースは大陸自体が動いたとは考えておらず、当時の地球収縮説(地球の冷却・収縮に伴なって、褶曲山脈の形成等の地殻変動が起こったとする説で、現在は支持されていない)を使って説明している。1912年1月6日、ドイツ中西部にあるフランクフルト・アム・マイン(一般にフランクフルトと通称される)で行なわれた地質学会の席上で、アルフレート・ウェーゲナーは、太古の時代に大西洋両岸の大陸が別々に漂流したとする「大陸移動説」を発表する。アルフレート・ウェーゲナーの大陸移動説は、測地学、地質学、古生物学、古気候学、地球物理学等、様々な当時最新の資料を元にして構築されたもので、アルフレート・ウェーゲナー以前の説とは、詳細度や学術的正確性等がはっきり異なったものである。また、明確に「大陸移動(continental drift)」という言葉を使ったのも、アルフレート・ウェーゲナーが最初となっている。さらに、1915年に出版された著書『大陸と海洋の起源』(アルフレート・ウェーゲナーの主著であると共に、大陸移動説について論じた古典的名著で、版を重ねる毎に全面的に書き直されており、最終改訂は1929年の第四版である)の中で、アルフレート・ウェーゲナーは、石炭紀(今から3億5,920万年前から2億9,900万年前までの時期)後期に存在していた巨大な陸塊(超大陸)が分裂して別々に漂流し、現在の位置・形状に至ったと発表する。『大陸と海洋の起源』が主張した大陸の移動は、現在では、人工衛星による精密な測地観測によって、大陸が実際に移動している状況が直接的に観測され、実証されている。現在は当時よりも研究が進んでおり、『大陸と海洋の起源』の内容には、少なからず誤りがあることが分かっているが、自然科学の真理を探究する過程を描写した点において、『大陸と海洋の起源』は、古典としての大きな意義を持っている。大陸移動説に対する評価は様々で、ヨーロッパやその南半球の植民地等では当初、好意的に評価する研究者も多かったが、それは、大褶曲山脈(地層の褶曲によってできた山脈)の形成の説明に使われていた地球収縮説が説得力を失いつつあった時代に、大陸移動説は、山脈を生み出す別の原動力を与えることができたからである。また、南半球では、距離的にごく近いのに生物相が全く異なるウォレス線(インドネシアのバリ島、ロンボク島間のロンボク海峡から、スラウェシ島の西側、マカッサル海峡を通り、フィリピンのミンダナオ島の南に至る、東に走る生物の分布境界線のことで、これより西の生物相は、生物地理区の内の東洋区に属し、東はオーストラリア区に属するというもの)のように大陸移動がなければどうしても説明が付かない事例が幾つか発見されている。大陸移動説が全く見向きもされなくなった時代でも、南アフリカやオーストラリアの研究者に大陸移動を支持するものがいたのは、このためである。一方、否定的に評価したのはアメリカの研究者達で、当時知られていた物理学では、大陸移動を起こすような駆動力は説明ができなかったためである。アメリカの研究者達はしばしば、アルフレート・ウェーゲナーを専門外の学者として感情的に批判している。1950年代から1960年代にかけて、岩石等に残留磁化として記録されている過去の地球磁場(地磁気)を分析する地質学の一分野、古地磁気学や、大西洋の海底等の研究によって海洋底拡大説が提唱され、それがプレートテクトニクス理論へと発展する。そして、プレートの運動の結果として、大陸移動が導き出されることから、アルフレート・ウェーゲナーの説も見直されるようになる。但し、アルフレート・ヴェーゲナーの説は、海底面を構成する地層の上を大陸自らが滑り動くとするものであり、プレートがその表面に露出する大陸を伴なって動くとする、プレートテクトニクス理論とはメカニズムが異なる。
1926年 - ドイツ最大の航空会社で、ドイツのいわゆる「フラッグ・キャリア」(国を代表し、国際線を運航している航空会社)とされている、ルフトハンザドイツ航空が設立される。ルフトハンザドイツ航空は、ヨーロッパ第2位、世界第9位の大規模航空会社(メガ・キャリア)であり、世界初で世界最大の航空連合(航空会社間の連合組織)、スターアライアンスの創立メンバーでもある。創立後、ヨーロッパ域内に路線網を拡大したが、1945年5月の第二次世界大戦のドイツ敗戦以降は営業を停止され、その後、営業を再開したものの、1949年の東西ドイツ分断時には、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)側の航空会社となる。1990年の東西ドイツ再統一時に、東ドイツ(ドイツ民主共和国)側の国営航空部門であるインターフルークの事業を引継ぎ、1994年には、完全民営化を果たす。社名「Lufthansa」は「空のハンザ同盟(中世後期に北ドイツを中心にバルト海沿岸地域の貿易を独占し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配した都市同盟)」の意で、ドイツ・エアロ・ロイド(旧ドイツ・ルフト・レーデライ)とユンカース空輸の合併で誕生した会社として、中世ドイツの「商人組合」にかけて「旅商人組合(同盟)」の意味を込め「ドイツ・ルフト・ハンザ株式会社」とされている。綿密な機体整備は高く評価されており、ルフトハンザドイツ航空の中古機材を用いて就航している格安航空会社も多い。また、航空関連事業のグループ会社を多く有しており、その数は400を超える。ルフトハンザドイツ航空のサービスの質には定評があり、定時到着率の世界ランキングでも、ルフトハンザドイツ航空の定時到着率は、毎年80%を上回って上位を維持している。
1929年 - セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)国王アレクサンダル1世が、憲法を停止して議会を解散し、独裁制を敷く。 
1932年 - 春秋園事件。天竜三郎(最高位東関脇)や大ノ里萬助(最高位東大関)ら32名の力士が、力士としての地位向上や、大日本相撲協会(現在の日本相撲協会の前身)の体質を改善するよう要求して、協会を離脱したが、力士側の要求はほぼ受入れられず、結局、多くの離脱した力士が帰参する。事件名は、力士側が東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区大井)にある中華料理店「春秋園」に立籠もったことに由来する。
1941年 - アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが、年頭教書で「言論及び表現・信仰・欠乏・恐怖からの自由」(4つの自由)の演説を行なう。年頭教書は、アメリカ合衆国において、大統領が連邦議会両院の議員を対象に行なう演説で、国の現状についての大統領の見解を述べ、主要な政治課題を説明するもので、一般教書演説とも呼ばれる。  
1942年 - 丁貳百圓券告示上の発行開始(1945年4月16日から発行が開始されたが、市中での流通はせず、緊急時に備え日本銀行に死蔵)、い五圓券発行開始。