1月6日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0741年 - 第45代天皇、聖武天皇が、都を平城京から恭仁京(山背国相楽郡の地、現在の京都府木津川市加茂地区)へ遷都する。恭仁京は、都としては完成しないまま、743年の末には造営が中止され、短期間の間に遷都が繰返された後、745年に都は平城京に戻される。恭仁宮は、平城宮を簡略化した程度で、南北約750m、東西約560mの南北に長い長方形とされ、西側は狭い谷間、東側は木津川の氾濫原によって、宮や京の造営が制約され、全体的に小規模であったとみられており、条坊制を示す遺構も確認されていない。
1066年 - イングランドのエドワード懺悔王が死去し、ハロルド2世が即位する。 
1355年 - 神聖ローマ皇帝カール4世がローマで戴冠(国王が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位への就任を宣明する儀式を行なうこと)。カール4世は、文人皇帝として知られ、最初の「近代的」君主と称されることもある。皇帝の命令が記され、黄金製の印章が付された公文書、金印勅書(その後約400年に亘り、神聖ローマ帝国の基本的な体制を規定した)の発布や、プラハ大学(カレル大学と改名されているが、現在のチェコの首都、プラハに所在する同国屈指の最高学府であり、中央ヨーロッパにおいて最も歴史を有する大学で、設立者が神聖ローマ皇帝であるため、「ドイツ語圏最古の大学」ともなっている)の創設、教皇のローマ帰還への尽力等で知られる。 
1449年 - 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセスが即位する。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国(イタリア半島中部に位置した、多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国となった国家)東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は、4世紀以降断続的に存在したが、一般的には、最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は、旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降は、ヨーロッパの南東部に位置するバルカン半島、アナトリア半島(アジア大陸最西部で、西アジアの一部をなす地域であり、現在はトルコ共和国のアジア部分となっている)を中心とした国家となる。首都は、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープルとも呼ばれる、西アジアのアナトリア半島[小アジア]と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する現在のトルコ共和国西部に所在するイスタンブール)で、この地は古来より、アジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また、天然の良港である金角湾を擁しており、東ローマ帝国の隆盛と共に、約30万から約40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれ、古代の建造物が残る大都市としてその偉容を誇っている。強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇ったが、1453年にオスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身)により陥落し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街はオスマン帝国の首都となる。東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスで生まれたコンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセスは、オスマン帝国の第6代皇帝ムラト2世と平和条約を結んだが、1451年2月にムラト2世が没し、後を継いだメフメト2世は、当初は友好的な態度を取っていたものの、コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセスが、帝国を維持するために採ったオスマン帝国撹乱作戦(亡命オスマン朝王子オルハンの擁立)に対して怒り、1453年4月、メフメト2世率いる約10万のオスマン帝国軍がコンスタンティノポリスを包囲する。コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス率いる東ローマ帝国軍は約2ヶ月にも亘って抵抗を続けたが、オスマン帝国軍に城壁を突破され、敗北する。ここにローマ皇帝の継承者は絶え、紀元前753年に起源を発するローマ帝国は滅亡することとなる。コンスタンティノポリス陥落当初、包囲に抵抗した都市に対する伝統的な処罰として、メフメト2世は、兵士達に都市を3日間略奪するように命じたが、古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったため、数時間後に一転して、軍の行動を阻止するように命じ、街の状況が落着いてからコンスタンティノポリスに入っている。メフメト2世は、この都市1つの征服によって「征服王」と呼ばれるようになり、コンスタンティノポリスは「コスタンティニエ」の名で、オスマン帝国の新しい首都となる。この影響により、ジェノヴァ、ヴェネツィア等の地中海貿易で栄えていた都市国家は、その権益をオスマン帝国に奪われることになり、イタリアの一地方都市へと転落する。これら、地中海貿易で栄えていた都市国家の航海士達の多くは、後にスペインやポルトガル等のイベリア半島(ヨーロッパ南西部の半島)の新興国家に移り、大航海時代(15世紀中ば頃から17世紀中ば頃まで続いた、主にポルトガルとスペインによる、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行なわれた時代)に大活躍をする。また、キリスト教徒にとって、コンスタンティノポリスは重要な聖地であり、それをイスラム教国家であるオスマン帝国に奪われたということは、結果として教皇の権威失墜を意味し、後の宗教改革(キリスト教世界における教会体制上の革新運動)への胎動の1つとなる。また、コンスタンティノポリス陥落前後には、多くのギリシャ人の学者・知識人が、東ローマ帝国で保存・研究されてきた古代ギリシャ・古代ローマ時代の文献を携えて西ヨーロッパへと亡命し、これがルネサンス(古典古代[ギリシャ、ローマ]の文化を復興しようとする文化運動)に多大な影響を与える。これらのこと等から、コンスタンティノポリスの陥落は、単に一帝国の滅亡に留まらず、世界史が中世から近世へと代わった重要な転換点となった、とされる。
1610年 - キリシタン大名で肥前国日野江藩(後の肥前国島原藩)藩主の有馬晴信が、ポルトガル船『マードレ・デ・デウス号』を焼討ちし、岡本大八事件の発端の1つとなる。岡本大八事件とは、1612年に江戸幕府の要職にあった本多正純の家臣で、キリシタンの岡本大八が、有馬晴信から多額の賄賂を得て、肥前国(現在の長崎県)の他家領加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であったことが判明し、岡本大八は火刑に処され、有馬晴信は流刑となり、後に自害へと追込まれた事件である。岡本大八がキリシタンであったため、これが江戸幕府の禁教政策のきっかけとなる。  
1649年 - イングランド内戦: ランプ議会(残部議会、国王批判の場となった議会)が、国王チャールズ1世の裁判を行なうことを議決する。 
1838年 - アメリカの画家で発明家のサミュエル・モールスや、アメリカの電信技術者、アルフレッド・ヴェイルらが、初めて電信の実験に成功する。 
1842年 - 第一次アフガン戦争: イギリスのカーブル撤退。中東・中央アジアに位置するアフガニスタンに侵攻したインドのイギリス軍(イギリス東インド会社の軍隊)が、アフガニスタン人の頑強な抵抗に遭って撤退を開始する。しかし、途中で攻撃を受け、約4,500名のイギリス軍は全滅する。イギリス東インド会社は、アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社(国王女王の勅許、又は国家行政の特別許可状を受けて設立された、貿易を主とする会社)である。アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行から貸付を受けながら、17世紀から19世紀半ばにかけて、アジア各地の植民地経営や交易に従事する。当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行ない、法律を作成して施行し、軍隊を保有して、反乱鎮圧や他国との戦争を行なう、インドの植民地統治機関へと変貌する。同1842年秋、イギリスは、報復のために再び派兵したが、この作戦を最後に戦争の継続を断念し、ロシア帝国の南下政策に対抗するために、イギリスがアフガニスタンに対し宣戦を布告した、第一次アフガン戦争は終結する。