1月3日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

ジョン万次郎帰国の日。 
出漁中に嵐に遭い、伊豆諸島南部の無人島、鳥島(伊豆鳥島)に漂着した後、アメリカの捕鯨船に救われた土佐国(現在の高知県)の漁師、中濱萬次郎が、1851(嘉永4)年1月3日(旧暦)、アメリカの商船に送られて、琉球国の摩文仁間切小渡浜(現在の沖縄県糸満市に所在)に上陸した。1841(天保12)年、中濱萬次郎が14歳の頃、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4名と共に遭難する。5日半の漂流後、奇跡的に鳥島に漂着して143日間生活した。そこで、アメリカの捕鯨船『ジョン・ハウランド号』に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者の内の年配の者達は、寄港先の太平洋中央中央部の洋上に位置するハワイで降ろされるが、『ジョン・ハウランド号』船長のウイリアム・ヘンリー・ホイットフィールドに頭の良さを気に入られた中濱萬次郎は、本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。中濱萬次郎は、生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いた。アメリカ本土に渡った中濱萬次郎は、ウイリアム・ヘンリー・ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、英語・数学・測量・航海術・造船技術等を学ぶ。中濱萬次郎は、寝る間を惜しんで熱心に勉強し、民主主義や男女平等等、日本人には新鮮な概念に触れる一方、人種差別も経験した。1846(弘化3)年)からは、近代捕鯨の捕鯨船員として生活し、1850(嘉永3)年には、日本に帰ることを決意。帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くアメリカ西海岸で数ヶ月間、金鉱で金を採掘する職に就く。そこで得た600ドルの資金を持ってハワイに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。そして、中国東部にある上海行きのアメリカの商船に漁師仲間と共に乗込み、購入した小舟『アドベンチャー号』も載せて、日本へ向け出航した。中濱萬次郎一行は、薩摩国/大隅国薩摩藩に服属していた当時の琉球に『アドベンチャー号』で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土(現在の鹿児島県)に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した中濱萬次郎一行は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では中濱萬次郎一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩第11代藩主島津斉彬は、自ら中濱萬次郎に海外の情勢や文化等について質問した。島津斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に、和洋折衷船の「越通船」を建造した。島津斉彬は、中濱萬次郎の英語知識や造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。薩摩藩での取調べの後、中濱萬次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問を受ける。長崎奉行所で、踏み絵によりキリスト教徒でないことを証明させられ、外国から持帰った文物を没収された後、土佐国土佐藩から迎えに来た役人に引取られ、土佐に向った。高知城下において、藩政改革を主導した吉田正秋(吉田東洋)らにより、藩の取調べを受けた。なお、その際に、中濱萬次郎を同居させて聞取りに当たった日本画家の河田小龍は、中濱萬次郎の話を記録し、後に地図や風物等の挿絵を加えて、中濱萬次郎の体験記『漂巽紀略』を記した。約2ヶ月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の1852(嘉永5)年、中濱萬次郎は漂流から11年目にして、ようやく故郷に帰ることができた。「ジョン・マン」とも呼ばれた「ジョン万次郎」こと中濱萬次郎は、日米和親条約の締結に尽力し、その後通訳・教師等として活躍した。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、1938(昭和13)年に第6回直木三十五賞(大衆性を押さえた長編小説作品、或いは短編集に与えられる文学賞で、通称は直木賞)を受賞した、作家の井伏鱒二による短編小説『ジョン萬次郎漂流記』で用いられたため広まったもので、それ以前には使用されていない。アメリカ人達からは「ジョン・マン」の愛称で親しまれたが、これは、中濱萬次郎が救われたアメリカの捕鯨船の船名『ジョン・ハウランド号』に因んだものである。ジョン万次郎は、奢ることなく謙虚で、晩年は貧しい人には積極的に施しを行ない、役人に咎められても続けていたという。また、甘いものや、鰻の蒲焼が好物であった、という逸話が残っている。外国の文物を説明する際、鉄道等、言葉に置換えて説明することが難しいものは、絵を描いて図解を試みたものの、絵が不得意で幼児並の絵を描くことしかできず、随分苦労したとされる。アメリカの様々な文物を紹介し、西洋知識を貪欲に吸収しようとしていた幕末の志士や知識人達に多大な影響を与えたとされ、土佐国土佐藩脱藩の浪士で、薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力する等、倒幕、及び明治維新に影響を与えた坂本龍馬も、ジョン万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われており、激動の幕末における影の重要人物であった、ともされる。ジョン万次郎には、英語で使われるアルファベット(ラテン文字)を学習するための歌『ABCの歌』を日本に初めて紹介した、日本で初めてネクタイをした、日本で初めて鉄道・蒸気船に乗った、日本人で初めて近代式捕鯨に携わった、日本人で初めてアメリカのゴールドラッシュと言われる金の採掘に携わった、等の日本初と言われることが多数あり、また、日本にいるジョン万次郎の子孫は、ジョン万次郎の恩人である『ジョン・ハウランド号』船長ウイリアム・ヘンリー・ホイットフィールドの子孫と代々交流を続けている。明治維新後の1869(明治2)年、明治政府により、東京府(現在の東京都の前身)に設立された文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)管轄の洋学研究・教育機関、開成学校(現在の東京大学の直接の前身機関の1つとされる)の英語教授に任命される。1870(明治3)年には、普仏戦争(フランスとプロイセン王国[現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とした国]の間で行なわれた戦争)視察団として、旧薩摩国/大隅国薩摩藩藩士で、戊辰戦争では各地を転戦し、明治時代初期に相次いだ士族反乱を鎮圧した陸軍軍人、大山巌らと共にヨーロッパへ派遣されるが、発病のため戦場には赴けず、イギリスの首都ロンドンで待機した。帰国の途上、アメリカで恩人のウイリアム・ヘンリー・ホイットフィールドと再会し、身に着けていた日本刀を贈った(この刀は、後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていたが、さらにその後、何者かに盗難されて行方不明になり、現在はレプリカが展示されている)。更に、帰国途上にハワイにも立寄り、旧知の人々と再会を果たしている。帰国後に軽い脳溢血を起こし、数ヶ月後には日常生活に不自由しない程に回復するが、以後は静かに暮らす。時の政治家達とも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。そして、1898(明治31)年、72歳で死去した。中濱萬次郎は、武士階級ではなく漁民であり、少年期に漢文等の基本的な学識を身に付ける機会を得ずにアメリカに渡ったため、口語の通訳としては有能であったが、文章化された英語を日本語(文語)に訳することが不得手であった、とされる。そのため、西洋の体系的知識を日本に移入することが求められた明治以降は、能力を発揮する機会に恵まれなかったという。中濱萬次郎の初孫は、与謝野晶子(情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』や、日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名な歌人で作家・思想家)の夫、歌人・詩人の与謝野鉄幹が主宰となり創刊された、詩歌を中心とする月刊文芸誌『明星』等で活躍した、明治時代の女流歌人、中濱いと(中濱絲子)である。「白藤の君」と謳われた中濱いとは、幼い頃より書画に親しみ、与謝野晶子らと共に、初期の『明星』で活躍した。ただ、後に九州帝国大学総長となる法医学博士高山正雄との結婚等により、『明星』等の誌上での活躍は約10ヶ月余であった。