1月3日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

戊辰戦争開戦の日(続き)。
1868(慶応4)年1月3日、京都の南郊外にある鳥羽、及び伏見において、新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。新政府軍と旧幕府軍、両軍の兵力は、新政府軍が約5,000名、旧幕府軍が約15,000名と言われている。新政府軍は、武器では旧幕府軍と大差なく、逆に、旧幕府軍の方が最新型小銃等を装備していたが、初日は緒戦の混乱、及び指揮戦略の不備等により、旧幕府軍が苦戦した。また、新政府が危惧していた、旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、皇族の仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し、錦旗(天皇の軍[官軍]の旗)と節刀(天皇が出征する将軍に持たせた任命の印としての刀)を与え、出馬する朝命が下った。新政府軍(薩長軍)は正式に官軍とされ、以後、土佐藩も迅衝隊・胡蝶隊・断金隊等を編成し、錦旗を賜って官軍に任ぜられた。これに対し、旧幕府の中の反乱勢力は賊軍(天皇の意思にそぐわないとされた側の軍)と認知されるに及び、佐幕派(江戸幕府支持派)諸藩は大いに動揺した。この背景により1月5日、藩主である江戸幕府老中稲葉正邦の留守を守っていた山城国淀藩は、賊軍となった旧幕府軍の入城を受入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火し、さらに、南西にある八幡方向へ後退した。1月6日、旧幕府軍は京都と大坂の境界となる八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた伊勢国津藩が、旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は、山崎以東の京坂地域から敗北撤退し、大坂に戻った。この時点では、未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、徳川慶喜は自軍を捨てて、大坂城から少数の側近を連れ、海路で江戸へ退却した。徳川慶喜の退却により、旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また、戦力の一部は江戸方面へと撤退した。江戸幕府、及び旧幕府勢力は近畿を失ない、薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また、旧幕府は。国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。さらに、新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ、2月初旬には東進を開始した。西日本では、新政府軍と佐幕派諸藩との間では、備後国福山藩を除いて殆ど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申出た。東海地方、及び北陸地方では、尾張国/美濃国/三河国尾張藩が勤皇誘引使を諸藩代官へ送り、勤皇証書を出させて、日和見的立場から中立化に成功した。江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物であった勘定奉行の小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、徳川慶喜は江戸城を出て上野の寛永寺(現在の東京都台東区上野桜木にある天台宗関東総本山の寺院)に謹慎し、第122代天皇、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。新政府は、明治天皇の信任や長州藩等からの人望が篤い皇族、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍を編成し、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ、江戸へ向けて進軍した。駿府に進軍した新政府は、江戸城総攻撃を企画した。しかし、条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使ハリー・パークスは、新政府に江戸攻撃の中止を求めた。新政府の維持には、諸外国との良好な関係が必要であった。また、武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知され、恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝安芳(勝海舟)は、幕臣の山岡高歩(山岡鉄舟)を東征大総督府下参謀の西郷隆盛に使者として差向けて会談し、西郷隆盛より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。そして、勝海舟と西郷隆盛の間で江戸開城の交渉が行なわれ、江戸城は無血開城されて、有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城し、江戸城は新政府の支配下に入った。江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部は、千葉方面に逃亡して、現在の千葉県北西部に相当する市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で、新政府軍と旧幕府軍は衝突した。この戦いは、最初は数に勝る旧幕府軍が有利であったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。この戦いは、江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘であり、新政府側にとっては、旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点で、意義は大きいものがあった。徳川慶喜が謹慎していた寛永寺(現在の東京都台東区上野桜木にある天台宗関東総本山の寺院)には、江戸無血開城によって江戸の治安を統括する組織として認定されていた旧幕府勢力、彰義隊があった。この存在は、幕府主戦派から「裏切り者」呼ばわりをされていた勝海舟にとって、一定の成果ではあった。しかし、実際の彰義隊は、新政府への対抗姿勢を示し、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰返した。勝海舟との江戸城会談で当事者となった西郷隆盛は、彰義隊をどうにか懐柔しようとしていた幕府恭順派である勝海舟との関係の手前、対応が手緩いとの批判を受けた。東征大総督府(旧江戸幕府軍勢力制圧のために明治新政府によって設置された、臨時の軍司令官の司令部)は、西郷隆盛を司令官から解任し、長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった、長州藩藩士の大村益次郎を新司令官に任命する。大村益次郎は、薩摩藩藩士の海江田信義ら慎重派を制して、武力による殲滅を主張した。新政府側は、5月1日に彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告し、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。これにより、彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発した。東北地方・北海道・新潟で仙台藩藩主、伊達慶邦らにより奥羽越列藩同盟が樹立された2週間後の5月15日、新政府軍は彰義隊を攻撃し、上野戦争が始まった。肥前国佐賀藩が製造した新兵器、アームストロング砲(イギリスの機械技術者・発明家・実業家、ウィリアム・アームストロングが、1855[安政2]年に開発した、後装式[銃砲の装填方式を2つに大別した1つで、銃砲身の尾部から砲弾と装薬を装填する方式]ライフル砲[銃砲の銃砲身内に施された螺旋状の溝、ライフリングにより砲弾に回転を加えることで、弾道線を安定させ命中率を高める砲])を活用し、彰義隊を狙い撃ちにした。彰義隊は、なす術もなく崩壊し、上野戦争は僅か1日で新政府軍の圧勝となり、彰義隊はほぼ全滅した。上野戦争の結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。戊辰戦争の前線は、関東の北の要塞であった宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。なお、戦闘の際生じた火災で、寛永寺は根本中堂等の主要な伽藍を焼失し、壊滅的な打撃を受けている。1868(慶応4)年5月、皇族の輪王寺宮北白川宮能久親王を盟主とし、現在の東北地方と新潟県に所在した計31藩による反維新政府的攻守同盟、奥羽越列藩同盟が成立した。なお、第122代天皇、明治天皇の義理の叔父に当たる輪王寺宮北白川宮能久親王には、東武皇帝、或いは東武天皇として、皇位に推戴されたという説がある。ただ、この「東北朝廷」が成立したかどうかは不明で、1868(慶応4)年11月には、輪王寺宮北白川宮能久親王も京都に帰着している。その後の輪王寺宮北白川宮能久親王は、ヨーロッパへの海外留学を経て、陸軍軍人として、1894(明治27)年7月から1895(明治28)年3月にかけて行なわれた、主に朝鮮半島(李氏朝鮮)を巡る日本と清国(中国清朝)の戦争、日清戦争によって日本に割譲された台湾の平定に赴き、台湾全土平定直前に病死している。1868(慶応4)年7月以降、新政府軍の攻勢を受けた、奥羽越列藩同盟を構成する諸藩は続々と降伏し、主力となっていた会津藩も新政府に降伏した。1868(慶応4)年9月には、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊する。そして、江戸時代末期に江戸幕府により、蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に建造された稜堡式(星形要塞とも呼ばれる、火砲に対応するため15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式)の城郭、五稜郭を中心に、江戸幕府軍艦頭であった榎本武揚ら、旧幕臣が「事実上の政権」である蝦夷島政府を樹立し、官軍(新政府軍)に抵抗した戦いである箱館戦争が、1869(明治2)年5月に終結し、新政府軍と旧幕府軍との戦いが終わっている。