1月3日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1水曜日 旧暦 11月22日、友引(丙寅)、月齢 21.1  
グレゴリオ暦で年始から3日目、年末まであと363日。
誕生花 水仙(白)・クロッカス・松・福寿草・サフラン・スプレーカーネーション・梅。

戊辰戦争開戦の日。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は、大坂(現在の大阪)の各国公使に対し、薩摩国/大隅国薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜には大坂の薩摩藩邸を襲撃させた。これが、戊辰戦争における戦闘の勃発となった。なお、前日の夕方には江戸幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃しており、この時に事実上の戦争は開始されていた。戊辰戦争は、王政復古(江戸幕府を廃絶し、同時に摂政・関白等の廃止と三職[最高官職の総裁、議事を決する議定、下級廷臣や藩士によって構成された維新政府の実質的な指導部と言える参与]の設置による新政府の樹立を宣言した政変)を経て明治政府を樹立した、薩摩国/大隅国薩摩藩や周防国/長門国長州藩等を中核とした新政府軍と、旧幕府勢力、及び奥羽越列藩同盟(陸奥国[奥州]、出羽国[羽州]、越後国[越州]の諸藩が、輪王寺宮[江戸時代に存在した、皇族が住職を務める寺院である門跡の1つ]の皇族、北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された同盟)が戦った内戦であり、名称は、1868(慶応4/明治元)年の干支が戊辰(干支の組合わせの5番目で、西暦年を60で割って8が余る年)であることに由来する。明治新政府が戊辰戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、明治新政府が日本を統治する政府として、国際的に認められることとなった。戊辰戦争は、大正時代終盤に生まれた、日本近代史を専攻とする歴史学者、原口清により、「日本の統一を巡る個別所有権の連合方式と、その否定、及び天皇への統合を必然化する方式との戦争」と規定されている他、大正時代終盤に生まれた、幕末維新期対外関係を専門とする日本史学者、石井孝(原口清とは、「維新の十傑(倒幕・明治維新に尽力した志士の内、幕臣以外の10名)」の1人とされる公家・政治家で、明治維新最初期の政府では実質的な首班となっていた、岩倉具視による第121代天皇、孝明天皇毒殺説を唱えて論争したことがある)により、「将来の政権を目指す天皇政権と徳川政権との戦争」とも規定されている。薩摩藩等の新政府側は、イギリスとの好意的な関係を望み、イギリスの貿易商で、貿易商社「グラバー商会」を設立する等、幕末の日本で活躍したトーマス・ブレーク・グラバー等の武器商人と取引をしていた。また、徳川幕府はフランスから、奥羽越列藩同盟はプロイセン(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけての地域を領土とした国)から、軍事教練や武器供与等の援助を受けていた。また、戊辰戦争が早期に終結したため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。江戸時代の日本は、江戸幕府と諸大名による封建国家であったが、戊辰戦争を経て権力を確立した明治新政府によって行なわれた諸改革(明治維新)により、近代的な国民国家の建設が進んだ。1853(嘉永6)年にアメリカ海軍東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが来航して以来、国内の不安定化が進む中、薩摩藩は有力諸侯による合議態勢を模索するが、江戸幕府や関係諸藩との見解の一致は困難であった。西国においては、洋学に明るい者が幕藩体制の変革を訴え始めたが、幕府はこれを弾圧した(安政の大獄)。しかし、弾圧を主導した大老井伊直弼が大獄の反動で暗殺され(桜田門外の変)、幕府の権威は失墜した。やがて、国内の不安を背景に朝廷は政争の舞台となり、京都では、攘夷派による天誅と称する幕府関係者への暗殺が横行するようになる。幕府は、徳川系の親藩で大きな武力を持つ陸奥国会津藩や伊勢国桑名藩等に命じて、これを厳しく取締まったが、安政の大獄と同じく、対症療法に過ぎなかった。当初、過激な尊王攘夷論を背景に、幕府と鋭く対立していた長州藩は、1864(元治元)年に勃発した禁門の変(前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰広げた事件)と下関戦争(長州藩が、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強4ヶ国連合艦隊と戦った事件)での完敗と、幕府による第一次長州征討を経て、それまで失脚していた俗論派(佐幕派)に藩の実権が渡った。しかし、挙兵した正義派(倒幕派)が翌1865(慶応元)年の元治の内乱で俗論派を打倒し、藩論を尊王倒幕の方向で一致させる。それを見た幕府は、1866(慶応2)年に第二次長州征討を行なうも、敗北を重ねて失敗に終わった。この長州征討の失敗は、幕藩体制の限界と弱体化を白日の下に晒し、幕府の威信を大きく低下させた。一方、1863(文治3)年に薩英戦争(イギリスと薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘)で挙藩一致を見た薩摩藩は、四侯会議(雄藩諸侯による一連の会議)が失敗すると、幕藩体制下での主導権獲得策を見限り、徳川家を排除した新政権の樹立へと方針を転換するようになる。対して、幕府の主要な構成層には未だに情勢に明るいものが殆どおらず、意思統一は困難であった。大半の幕臣にとって、大政奉還こそが初めて自身に降掛かった火の粉となった。1867(慶応3)年10月14日に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は、日本の統治権返上を第122代天皇、明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。しかし、将軍職は暫時従来通りとされ、実質的に徳川慶喜による政権掌握が続いたため、雄藩5藩(薩摩国/大隅国薩摩藩、越前国越前藩、尾張国/美濃国/三河国尾張藩、土佐国土佐藩、安芸国/備後国安芸藩)は、12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、王政復古の大号令により、幕府廃止と新体制樹立を宣言した。新体制による朝議では、薩摩藩の主導により徳川慶喜に対し、内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。徳川慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため二条城から大坂城に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において江戸幕府側に優位に働いた。12月16日、徳川慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても、土佐国土佐藩第15代藩主山内容堂や越前国越前藩第16代藩主松平慶永ら、公議政体派が盛返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には徳川慶喜が再上洛の上、議定へ就任することが確定する等、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。しかし、江戸城西ノ丸の焼失事件や、江戸市中の警備に当たっていた出羽国庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件、江戸薩摩藩邸襲撃事件等が立続けに発生し、大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢い付く会津藩らの諸藩兵を、徳川慶喜は制止することができなかった。徳川慶喜は、朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊や会津藩、桑名藩を主力とした軍勢を京都へ向け行軍させた。