1月3日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

元始祭。
元始祭は、宮中祭祀(天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的に行なう祭祀)の1つで、天皇が宮中三殿(皇居内にあり、神道の神を祀っている賢所と皇霊殿、そして神殿の3つが連結された建造物の総称)において自ら主宰する「親祭」であり、皇位の元始を祝ぐ儀式である。元始祭は、1870(明治3)年1月3日 (旧暦)、神祇官(神事を司る中枢とされた国家機関)八神殿に八神(天皇守護の8神)、天神地祇(「天つ神」と「国つ神」の総称で、全ての神々の意)、歴代の皇霊を鎮祭したのに始まる。1873(明治6)年1月3日から、現在の三殿親祭の形式となった。1908(明治41)年9月19日制定の「皇室祭祀令(明治41年9月19日皇室令第1号)」では、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭に指定された。1年で最初の大祭である。「皇室祭祀令」は1947(昭和22)年5月2日に廃止されたが、1948(昭和23)年以降も宮中では、従来通りの元始祭が行なわれている。また、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年10月14日太政官布告第344号)」や「休日ニ関スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)」により、1874(明治7)年から1948(昭和23)年まで実施され、祝祭日(国家の定める休日の総称)であった。なお、皇室の祭祀に関する法令である「皇室祭祀令」は、「皇室令及附属法令廃止ノ件(昭和22年5月1日皇室令第12号)」により廃止されているが、元始祭の他の宮中祭祀も、今なお「皇室祭祀令」に基づいて行なわれている。
かけおち(駆落ち)の日。
1938(昭和13)年1月3日、女優の岡田嘉子と、共産主義者である演出家の杉本良吉が、樺太(オホーツク海の南西部にある、現在のロシア連邦サハリン州の島)にあった国境を越えて、ソビエト連邦へ亡命したことによる。ソビエト連邦での2人は、スパイ容疑で国家警察に逮捕され、岡田嘉子は、禁錮10年、強制収用所送りとなり、杉本良吉は国家反逆罪で銃殺された。岡田嘉子は、大正から昭和初期にかけて、サイレント映画(音声・音響、特に、俳優の語るセリフが入っていない映画のこと)時代のトップ映画女優で、奔放な恋愛遍歴やソビエト連邦への亡命等、波乱の生涯を送ったことでも知られる。1902(明治35)年に新聞記者の娘として広島で生まれ、優秀な教育を受けて育った岡田嘉子は、母方の祖母がオランダ人の血を引くため、エキゾチックな美貌を受継いだ。新聞社の記者として就職したが、父が新劇運動(ヨーロッパ流の近代的な演劇[芸術志向的な演劇]を目指す日本の演劇)の先駆けの1人として知られる劇作家・作家・詩人、島村抱月や、島村抱月らが結成した劇団、芸術座に参加した劇作家の中村吉蔵と知合いであったこともあり、岡田嘉子は上京して、1919(大正8)年に中村吉蔵の内弟子となる。1921(大正10)年には、舞台公演で息を呑むようなラブシーンを見せ、一躍新劇のスター女優となった。そして1923(大正12)年になると、大作映画で町娘を演じ、映画でも一躍スターとなっている。岡田嘉子が演じたモダンなタイプのヒロイン像は、それまでの日本の女優にないタイプのもので、新しい時代の息吹きとして大きな評判を獲得した。しかし、多額の借金を抱えたり、失踪したりといったスキャンダルが騒ぎとなり、苦闘の時代を送ることとなる。1936(昭和11)年は、岡田嘉子は、自身の舞台を演出したロシア式演技メソッド指導者で、共産主義者の演出家、杉本良吉と激しい恋に落ちる。岡田嘉子は当時、俳優の竹内良一と結婚していたが、別居状態になっていた一方で、杉本良吉にも病身の妻がいた。過去に、社会主義思想や共産主義思想と結び付いたプロレタリア運動に関わっていた杉本良吉は執行猶予中で、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろうことを恐れ、ソビエト連邦への亡命を決意する。1937(昭和12)年暮れの12月27日、2人は上野駅を出発し、北海道を経て、1938(昭和13)年1月3日に国境を超えて、ソビエト連邦に越境する。この事件は、連日新聞に報じられ、日本中を驚かせ、また、この事件を機に、日本では1939(昭和14)年に、特別な理由なく樺太国境に近付くこと等を禁じた「国境取締法(昭和14年3月31日法律第52号)」が制定された。不法入国した2人に、ソビエト連邦の現実は厳しく、入国後僅か3日目で、岡田嘉子は杉本良吉と離され、反政府的な運動・思想を弾圧した秘密警察で、後に、ソビエト連邦の情報機関・秘密警察で、軍の監視や国境警備も担当していた、ソビエト連邦国家保安委員会(KGB)の前身となったロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部附属国家政治局(GPU)の取調べを経て、別々の独房に入れられ、2人はその後二度と会うことは無かった。日本を潜在的脅威と見ていた当時のソビエト連邦当局は、思想信条に関わらず、2人にスパイの疑いを着せたのである。起訴事実を全面的に認めた岡田嘉子は、収容所に送られ、ソビエト連邦当局に再審を要求する嘆願書を書き続けたが、悉く無視されていた。岡田嘉子は、第二次世界大戦後の1947(昭和22)年に釈放され、翌1948(昭和23)年、モスクワ放送に日本向け番組のアナウンサーとして採用される。日本語放送のアナウンサーを務め、11歳下の日本人の同僚で、第二次世界大戦前に人気俳優であった滝口新太郎と結婚し、穏やかに暮らす。また、現地の演劇学校に通い、演劇者として舞台に再び立ってもいた。更に1952(昭和27)年、50歳にして、ルナチャルスキー国立演劇大学(現在のロシアの首都モスクワにあるロシア舞台芸術アカデミー)に入学。卒業公演に、フランスの作家ギ・ド・モーパッサンの長編小説『女の一生』を原作とした劇を演出して、ソビエト連邦演劇界から高い評価を受けたという。1967(昭和42)年4月、岡田嘉子は、日本のテレビ番組のモスクワからの中継に登場する。往年と変わらない矍鑠とした口調で話し、又も日本中を驚かせた。1972(昭和47)年、亡くなった夫の滝口新太郎の遺骨を抱いて、35年振りに日本への帰国を果たす。気丈な岡田嘉子も、さすがに涙々の帰国記者会見となった。その後は、山田洋次監督・渥美清主演の映画『男はつらいよ』シリーズの第17作『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』に出演した他、トーク・バラエティ番組にも出演した。1986(昭和61)年、日本の芸能界を再び引退し、ソビエト連邦へ戻る。以降、岡田嘉子は死去まで、日本へは2度と帰国しなかったが、日本のテレビ番組の取材には応じ、モスクワのアパートの自宅内も公開していた。日本からの取材クルーが来ると、とても喜んでいたという。1992(平成4)年、モスクワの病院で死去。89歳没。
瞳(ひとみ)の日。
眼鏡やコンタクトレンズの業界が制定。瞳(ひとみ)をいつまでも美しくという意味で、1月3日の「1」と「3」を、「ひ(1)」と「み(3)」と語呂合わせした。 瞳孔(どうこう)、又は瞳(ひとみ)は、眼の虹彩(瞳孔の大きさを調節して、網膜[視覚細胞が面状に並んだ部分]に入る光の量を調節する役割を持つ薄い膜)によって囲まれた孔である。瞳孔は光量に応じて、その径を変化させる。瞳孔径の変化は、網膜に投射する光量の調整に寄与する。ヒトの瞳孔はほぼ正円形である。正常なヒトでは、両眼の瞳孔の大きさは、ほぼ等しい。ヒトを含む哺乳類、及び両生類では、虹彩は平滑筋(消化器や呼吸器、泌尿器、生殖器、血管等の壁にあって、緊張の保持と収縮を司る筋肉で、意志とは無関係に働くため、不随意筋の一種とされる)である。他方、爬虫類の大部分と鳥類では、虹彩は横紋筋(筋組織の1つで、骨格に連なるものが多いため、骨格筋とも呼ばれ、細長い筋線維の集りであり、特有の横紋を有し、随意運動に関与する点で、筋組織の他の2種である平滑筋や心筋と区別される)である。肉食性で水中生活に適応した爬虫類、ワニは、双方の種類の虹彩を持つ。ヒトの場合、虹彩の模様が個体によって違い、これを「虹彩認証」という個人認証として利用する技術がある。虹彩認証の認識力は、眼鏡やコンタクトレンズをしていても殆ど落ちないとされ、多くの個人に適用可能な生体認証技術で、双子でも正確な認証を行なえることから、高い認証精度を有している。網膜と同様に、従来は大掛かりな装置が必要で、指紋や静脈等の認証方法と比べると、登録運用コストが高くなる傾向にあったが、眼球の奥に位置する網膜とは異なり、虹彩は眼球の表面側に位置する情報であることから、網膜に比べると撮影が容易であり、近年では、スマートフォンに搭載されるカメラでも認証が可能となってきた。瞳孔の形状は、動物種によって異なる。ヒト等は円形の瞳孔を持ち、ネコやワニ等は、垂直のスリット(細い隙間)型瞳孔を持つ。また、ヤギ等は水平のスリット型瞳孔を持つ。さまざまな動物種が、異なる形状の瞳孔を持つことは、進化的な意義があると考えられる。スリット状の瞳孔は、夜行性動物に多いとされる。また、スリット状の瞳孔は、円形の瞳孔よりも短時間で閉じることができる、とされる。