1月2日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)。
例年1月2日と翌1月3日の2日間に亘って行なわれる大学駅伝の競技会(地方大会)で、学生長距離界最大の駅伝競走であり、東京都千代田区大手町にある読売新聞東京本社ビル前から、神奈川県足柄下郡箱根町にある芦ノ湖(神奈川県内最大の湖)までの往路5区間、復路5区間の合計10区間、214.7kmで争われる。1月2日に東京から箱根への往路を、1月3日に箱根から東京への復路を走る。関東学生陸上競技連盟(関東陸連)に加盟している関東の大学の内、前年の大会で10位までに入った大学と、予選会で勝ち上がった9校、及び、学連選抜1チームの計20校(2002[平成14]年までは15校)が出場する。1920(大正9)年に第1回大会が開催され、1956(昭和31)年からは、1月2日に往路、1月3日に復路を走るようになった。箱根駅伝は、関東地方では従前から人気があったが、1987(昭和62)年に日本テレビが全国放送で全区間の生中継(電波を途切れさせることなく完全中継実施は1989[昭和64]年から)を開始して以降、正月の風物詩(国民的スポーツ大会)として関東地方以外でも知名度・注目度が格段に向上した。また、箱根駅伝出場者からオリンピックや世界陸上等に出場を果たした選手も少なくない。現在開催されている駅伝の中で2番目に長い(最長は、毎年11月中旬に開催される長野県縦断駅伝競走)距離を持ち、国内の学生スポーツ競技会の中でも極めて高い人気も誇る。箱根駅伝は、関東学生陸上競技連盟(関東陸連)が主催する地方大会であり、10位以内に入ると、同じ年の全国大会で駅伝シーズンの開幕を告げる出雲全日本大学選抜駅伝競走(出雲駅伝、同年体育の日開催)に関東代表として出場できる。一般に、出雲駅伝、秩父宮賜杯全日本大学駅伝対校選手権大会(全日本大学駅伝、例年秋に開催)、箱根駅伝の3大会が「大学三大駅伝」と呼ばれており、同じ年度の全大会に優勝すると「三冠」と称され、大東文化大学(1990[平成2]年度)、順天堂大学(2000[平成12]年度)、早稲田大学(2010[平成22]年度)の3校が達成している。但し、箱根駅伝は全国大会ではないため、関東学生陸上競技連盟(関東陸連)加盟校以外の大学は三冠を達成することはない。また、大東文化大学は復路優勝を、順天堂大学と早稲田大学は往路優勝を逃しており、箱根駅伝を完全優勝しての三冠を達成した大学は、今の所1校もない。箱根駅伝のコース(競走路)は、東京都千代田区大手町にある読売新聞社前から、神奈川県箱根足柄下郡箱根町にある芦ノ湖駐車場入口間の往復217.1kmである。東京大手町読売新聞社前、日比谷、西新橋、三田、品川、六郷橋、鶴見、横浜駅、保土ケ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、二宮、小田原、箱根町芦ノ湖駐車場入口の各点が、コース上の通過点として設定されている。また、日本橋については、復路のみ通過点とされている。全区間で最長の小田原から芦ノ湖駐車場入口までの5区(23.2km)は、俗に「山上り」と呼ばれ、標高差約864mを駆け上がる非常に特異な区間である。小田原中継所から箱根湯本駅前までの約5kmは若干の上り勾配はあるものの、比較的平坦ではあるが故に、序盤の平坦な区間では力を温存し、箱根湯本駅前から始まる本格的な上り坂で、いかに力を発揮できるかがポイントとなる。相当な脚力とスタミナが要求され、コース適性が最も必要とされる。その為、スペシャリストが担当することが多く、「4年連続同一区間走行選手数」が全区間中最多(36名)となっている。特殊な区間故に、個人成績で大差が付き易く、4区終了までに付いた数分の大差を、5区のみで挽回する大逆転も頻繁に発生している。山上りが注目される区間ではあるが、反対に、最高点を過ぎた残り約4kmの下りが勝負という言われ方もされる。事実、上りと下りでは使用する筋肉が異なるので向き不向きがあり、また、いきなり筋肉に掛かる負荷が極端に変わることから、寒さも災いして、中には下りで痙攣を起こして立止まる選手もいる。第81回(2005[平成17]年)で5区を担当した順天堂大学の今井正人が、山上りで11人抜きを達成した際に、実況で「山の神が降臨しました」と言われた。これは、当時同じ5区を担当した日本体育大学の北村聡が、「今井さんは神様のような存在です」と言ったことに由来する。今井正人は3年間、山上りの5区を担当し2年目以降は「山の神・今井」という言葉で常に紹介された。その後、第85回(2009[平成21]年)で5区を担当した東洋大学の柏原竜二が、今井正人の記録を破る区間新を達成した際には、実況で「山の神を越える山の神童がここに誕生」と言われた。さらに、第86回(2010[平成22]年)で柏原竜二は7位で襷を受けた後、自己記録を10秒縮め、2位に3分38秒差を付ける快走を見せ「新・山の神」と言われ、紙面等ではその名前と箱根芦ノ湖に因み、「竜神」とも表わされた。今井正人と柏原竜二は、共に福島県の浜通り地方(今井正人は南相馬市、柏原竜二はいわき市)の出身である。第91回(2015[平成27]年)から函嶺洞門が崩落の恐れで通行禁止となり、従来のコースの記録は参考記録となった。函嶺洞門は、神奈川県足柄下郡箱根町の国道1号線にある落石防止の為に造られた洞門である。1931(昭和6)年に竣工した建築物で、当時としては珍しい鉄筋コンクリート製のシェルターで、王宮をイメージして造られた。建設から80年が経過しても、強度的には問題ないとされるが、幅員が狭く、大型観光バスのすれ違いが困難なことから、バイパスとなる迂回ルートの建設が進められ、2014(平成26)年2月に完成した。函嶺洞門は、東京箱根間大学駅伝競走(箱根駅伝)のコースであったが、バイパスの完成で2014(平成26)年2月7日から通行止めになったことに伴ない、第91回(2015[平成27]年)からは、函嶺洞門バイパスを通るコースに変更されている。新コースで、青山学院大学の神野大地が柏原竜二の記録を24秒上回るタイムで走り切り、3代目「山の神」と呼ばれるようになった。ラジオ解説をしていた柏原竜二も、「これで御役御免です」と発言した。ラグビー、水泳、卓球、駅伝等のスポーツの取材・執筆活動を精力的に行なっているスポーツライターの生島淳は、『元祖・山の神』を、1974(昭和49)年から4年連続で5区の区間賞を獲得した大久保初男(大東文化大学)であるとし、今井正人以前の「山の神」に、山登りのスペシャリストとして活躍した上田誠仁(順天堂大学)や、「山登りの木下」の異名をとった木下哲彦(早稲田大学、大学卒業時に金哲彦と改名)を挙げている。1920(大正9)年の第1回大会には、明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京高等師範学校(現在の筑波大学の前身となる、日本初の教員養成機関)の4校が出場し、東京高等師範学校が総合優勝を果たした。第1回大会への参加を呼掛けられた多くの大学や旧制専門学校(第二次世界大戦前、専門教育を行なっていた高等教育機関で、現在の単科大学に近いものとされ、その多くは現在の大学の前身でもある)、師範学校(教員養成機関)は選手を10名揃えられず、参加を断念している。午前中は授業を行ない、午後にスタートしたため、ゴールした時には夜になっていた。翌1921(大正10)年の第2回大会で明治大学、さらにその翌年、1922(大正11)年の第3回大会で早稲田大学が、それぞれ総合優勝し、1932(昭和7)年の第13回大会で慶應義塾大学が総合優勝しており、第1回大会に参加した4校は、いずれも総合優勝の経験をもつことになった。関東学生陸上競技連盟(関東陸連)は、第100回の記念大会となる2024(令和6)年1月の箱根駅伝で、全国化を検討し、予選会に全国の大学の出場を認めたが、予選会を通過した大学は全て、関東地区の大学であった。なお、関東学生陸上競技連盟(関東陸連)には加盟していないが、1928(昭和3)年の第9回大会、1931(昭和6)年の第12回大会、1932(昭和7)年の第13回大会には、大阪府三島郡吹田町(現在の大阪府吹田市)に本部を置く関西大学が特別招待され、1964(昭和39]年の第40回大会には、第40回記念として、京都市中京区西ノ京朱雀町に本部を置く立命館大学と、福岡市七隈(現在の福岡市城南区七隈)に本部を置く福岡大学が招待(オープン参加によるもの)されている。 
夾竹桃忌。
「最後の無頼派」作家・文士とも言われ、私小説や歴史小説、料理の本等で知られる檀一雄の1976(昭和51)年の忌日。「夾竹桃忌」という名称は、檀一雄が生前、夾竹桃の花を好んだことに因む。インド原産で、中国を経て江戸時代に日本へ伝来したとされる、夾竹桃の和名は、葉が竹に似ていること、花が桃に似ていることに由来する。代表作は、律子夫人の没後に描いた長編小説『リツ子 その愛』『リツ子 その死』や、長編小説『真説石川五右衛門』(第24回直木三十五賞[直木賞]受賞)、長編小説『夕日と拳銃』等。また、20年以上に亘って書き継がれ、ライフワークとなった遺作の長編小説『火宅の人』は、全集を含めると150万部を超す、檀一雄の最大のヒット作である。女優の檀ふみは長女、エッセイストの檀太郎は長男。1977(昭和52)年、終の住家となった福岡市西区に所属する博多湾の島、能古島に文学碑が建てられ、その文面には、檀一雄の辞世の句となった「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」と刻まれ、毎年5月の第3日曜日には、檀一雄を偲ぶ「花逢忌」が、文学碑の前で営まれる。