地下鉄記念日/地下鉄開業の日。
1927(昭和2)年12月30日、日本初の地下鉄が、東京の浅草駅 - 上野駅間(路線距離2.2km)で開業したことに由来する。これは、現在の東京地下鉄(東京メトロ)銀座線の一部に当たる。開業当時のポスターでは、「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチコピーが使われ、アジア・オセアニア地域では初めての地下鉄路線である。但し、これ以前にも、貨物線では、1915(大正4)年に内閣鉄道院(後の鉄道省から運輸省で、現在の国土交通省の前身の1つ)東京駅と東京中央郵便局(現在の、東京都千代田区丸の内にある超高層ビル、JPタワー)との間、約0.2km(地下駅:2駅)に開通した、逓信省(現在の総務省、日本郵政[JP]、及び日本電信電話[NTT]の前身となる、通信事務を管轄する中央官庁)の郵便物搬送用地下軌道(正式名称は不明)が最初で、地下トンネルは、幅員4m、高さ2.25mで、上下2線の軌道が敷設され、電気機関車が貨車を牽引した。1927(昭和2)年12月30日に開通した東京地下鉄道(現在の東京地下鉄[東京メトロ]銀座線浅草駅 - 新橋駅間に当たる路線を建設しており、現在の東京地下鉄[東京メトロ]のルーツとも言える)の浅草駅 - 上野駅間は、4つの地下駅を擁した。これを、社団法人日本地下鉄協会(東京都千代田区内神田に事務局を置く、日本の地下鉄事業者が構成する社団法人で、現在は一般社団法人となっている)は、「日本初の"本格的"な地下鉄」とし、東京地下鉄(東京メトロ)は「東洋初の地下鉄」としている。2017(平成29)年3月10日、文部科学省の外局(特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織)、文化庁への答申で、地下鉄用として日本で初めて設計された車両、「東京地下鉄道1001号電車」を重要文化財とすべきとされ、その説明文において、東京地下鉄道の浅草駅 - 上野駅間は、「東洋初の地下鉄開業」とされた。同2017(平成29)年9月15日、答申通りに官報(国としての作用に関わる事柄の広報、及び公告をその使命とする日本国の機関紙)で、指定が公表された。トンネル断面が小さい故に車両自体も小さく(東京地下鉄[東京メトロ]の車体の規格の中で最も小さく、1両の車両長が16m×6両で、1編成の長さは96mしかない)、そのため、1両当たりの乗車定員は少ない、車内冷房装置の屋外機が屋根に取付けられない、等の制約が生じている。これは、建設費の節約のためである。初めての地下鉄建設とあって、将来的な輸送の見込みを立てるのは困難であり、実際に開業当時は十分な輸送力を持っていたが、現代に至っては、輸送力不足を招く結果になってしまった。冷房装置については、1990(平成2)年頃になって薄型装置が開発されたことで屋根上に搭載できるようになったため、現在運用されている車両には、全編成に冷房装置が取付けられている。浅草・上野・日本橋・銀座・新橋・赤坂・青山・渋谷といった、東京都心の殆どの繁華街やビジネス街を縫うように走る路線のため利用客が多く、日中でも3分に1本の割合で高頻度運転されている。この銀座線の混雑緩和のために建設された路線が、東京地下鉄(東京メトロ)半蔵門線である。また、銀座線は、開削工法(オープンカット工法とも呼ばれる、地表面を掘り下げてトンネルの構造物を構築し、後で埋め戻す工法で、地表面に近い部分や、駅のように大規模になる施設の構築に用いられる)で建設されたため、後発の他路線に比べて乗り場が浅く、田原町や末広町、虎ノ門、外苑前等、多数の駅で、階段を降りるとすぐに改札口があり、改札口の先にすぐホームがあるという、利用し易い形態になっている。相対式ホームの駅では、その殆どで線路間の支柱がリベット(頭部とねじ部のない胴部からなり、穴を開けた部材に差込んで、専用の工具でかしめる[器具等の継ぎ目を工具で固く 密着させる]ことで、反対側の端部を塑性変形[物体に外力を加えて変形させ、その後、外力を取去っても残る変形]させ、接合させる部品)組みの鉄骨となっており、日本最初の地下鉄の歴史を偲ぶことができる。車両基地の上野検車区(東京都台東区東上野に所在)は地上と地下の2層構造になっており、地上車庫の入口箇所には日本の地下鉄では唯一となった踏切(しかも日本では珍しい、道路の通行が優先される軌道遮断式で、同種のものはイギリスに存在する)が存在する。1927(昭和2)年12月、東京地下鉄道によって上野電車庫として発足した上野検車区は、当初の計画では、一時的なものとされ、将来の郊外延伸時には、新たな車両基地を建設することを想定していた。このため、最初の開業時にはトラバーサー(重量物を水平方向に平行移動させるための装置)を使用して、1両ずつ留置するというものであった。若干の改良は加えられたが、昭和30年代まではこの状態で使用されていた。しかし、第二次世界大戦後は銀座線の乗客数が年々増加し、開設当初の状態では、度重なる輸送力増強への対応ができなくなっていた。このため、1963(昭和38)年5月に工場設備を廃止し、さらに、従来の車庫設備を撤去して全面的な改築を行なった。この設備は、1968(昭和43)年3月に完成し、地下に6両編成13本収容の留置線を設けた他、地上部は6両編成が留置可能な設備に一新した。この状態が、現在のものである。また、渋谷駅周辺が窪地となっていることから、同駅では東急百貨店東横店3階にあるホームから発着する。但し、基盤整備により、ホームを現在の渋谷駅東口バスターミナル付近に移設する計画がある。東京地下鉄(東京メトロ)銀座線の浅草駅 - 新橋駅間は、東京地下鉄道によって建設・運営された。本来は新橋から浅草まで一挙に開通させることを目指していたものの、1923(大正12)年の大正関東地震(関東大震災)による不況のため、資金調達が困難になってしまい、当時は日本一の繁華街で、高収益が見込める浅草から上野までの建設を先行させた。なお、建設は大正関東地震(関東大震災)後の1925(大正14)年に開始された。1927(昭和2)年の開業当初は物珍しさもあって、乗車時間が僅か5分の区間に乗車するため、約2時間待ちの行列ができたという。その後の経営も順調で、1934(昭和9)年までに全通した。一方、新橋駅 - 渋谷駅間は目黒蒲田電鉄(現在の東京急行電鉄[東急電鉄]の前身)系の東京高速鉄道により建設・運営され、1939(昭和14)年までに全通した。その後、東京地下鉄道との相互乗入れ運転が開始された。第二次世界大戦の戦時体制下であった1941(昭和16)年7月、東京地下鉄道と東京高速鉄道は国策で設立された特殊法人(営団)である帝都高速度交通営団(交通営団、営団地下鉄、現在の東京地下鉄[東京メトロ])に統合される。1941(昭和16)年12月の第二次世界大戦対米英戦開戦後も、日本本土は戦禍に見舞われなかった上に、経済活動も活発化したため、運行は通常通り行なわれた。しかし、第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年に、連合国軍機が東京を空襲できるようになり、さらに、空襲の目的が一般市民の殺傷となったことを受けて、東京の繁華街や住宅街が連合国軍機の空襲(東京大空襲)を受けるようになると、銀座線は土被りが薄く、爆弾等の被害を受け易いために、空襲を受ける度に運休となる等、イギリスの首都ロンドンやドイツの首都ベルリン、そして大阪(御堂筋線)の各地下鉄のように、防空壕代わりに活用されることはなかった。1945(昭和20)年1月27日に行なわれた空襲時には、爆弾の直撃により、銀座駅や京橋駅が被害を受けて乗客多数が死亡し、さらに、水道管の破裂により、日本橋駅 - 新橋駅間のトンネルが浸水したため、浅草駅 - 日本橋駅間、新橋駅 - 渋谷駅間で折返し運転を行なうと共に、三越前駅 - 日本橋駅間は単線運転となった。また、5月には、渋谷検車区に着弾して車輌5両が破損する等の被害を受けた。第二次世界大戦終戦翌年の1946(昭和21)年には、早くも修復が完了して全線の運行が再開され、さらに、1949(昭和24)年には新型車両が導入された。帝都高速度交通営団(交通営団、営団地下鉄、現在の東京地下鉄[東京メトロ])丸ノ内線が開業する前年の1953(昭和28)年には、当線に銀座線の名称が付与され、長く営団地下鉄の重要路線として機能することとなる。そして、2004(平成16)年4月1日の営団地下鉄の民営化に伴なう、東京地下鉄(東京メトロ)の発足に際しては、上野駅で発車式が行なわれた。