12月30日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

地下鉄記念日/地下鉄開業の日(続き)。
帝都高速度交通営団は、東京都特別区(東京23区)の地下鉄を経営するため、1941(昭和16)年から2004(平成16)年まで日本に存在していた、日本国政府・東京都出資の鉄道事業者で、通称は交通営団、又は、単に営団であり、資産等は東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。「帝都」とは、大日本帝国の首都、即ち、現在の東京都の前身に当たる東京府のことであり、「高速度」とは、新幹線のような高速鉄道の意味ではなく、かつて市内交通の主役であった路面電車に対して「高速」の『都市高速鉄道』の意味である。東京地下鉄道と東京高速鉄道によって行なわれていた、東京府東京市(最終的な市域は、現在の東京都特別区[東京23区]に相当する)の地下鉄建設・運営事業を統合し、一元的に東京の地下鉄を建設・経営する公共事業体として発足した。鉄道・バス会社の整理統合の政策的促進を図るための法律「陸上交通事業調整法(昭和13年4月2日法律第71号)」に大きく関係している。言わば戦時統合であったが、第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により、帝都高速度交通営団を除く営団は、解散、若しくは公団へ移行した。地下鉄を運営していた帝都高速度交通営団はそのまま維持され、大日本帝国時代の「帝都」を名称に含む組織は、第二次世界大戦後60年近くという長期に亘って存続した。他方、「営団」という組織形態は、官民による共同出資を大きな特徴としており、帝都高速度交通営団もまた、設立当初は、民間鉄道による出資が含まれていたが、こうした民間資本は1951(昭和26)年の法改正により排除され、以降は国鉄(日本国有鉄道、現在のJRグループ)と東京都の出資による純粋な公法人に変容した。従って、帝都高速度交通営団は、名称として「営団」の名をなお残しながらも、その組織実態としては、公団や公社と似通ったものとなっていた。2004(平成16)年3月31日、翌4月1日の東京地下鉄(東京メトロ)発足により、帝都高速度交通営団は廃止・解散された。ただ、営団としては廃止・解散であるが、社員・社屋・駅・車両等は東京地下鉄(東京メトロ)にそのまま引継がれている。地下を通る路線は地下を走行するため、景色が存在せず観光用途には向かないが、高架橋の上を通る路線と同様に、踏切や交通信号等の存在を介した道路等、他の輸送システムとの相互干渉がないため、市街地が密集している大都市の中心部等の本来、定時運行が難しい場所でも定時運行が可能であり、踏切事故等の交通事故の危険性も、地上の鉄道路線に比べて低い。また、地上を走る路線と異なり、強風、或いは雨・雪・霧等による影響も受けることがなく、この点も定時性確保に寄与している。運転時の視認性が悪いため、信号等の保安装置もより安全なものが採用されていることが多く、衝突事故の危険性も低い。しかし、低所を走るため、排水設備に不備があると水害の危険があり、近年はテロリズムの脅威が認識されている。また、欧米では、防火設備の不十分な古い地下鉄も多く、木製の車両やエレベーターが存在しているところもある。郊外電車網が発達した日本と、その技術協力で地下鉄を開業させた韓国では、地下鉄の軌道や電気方式等、システムを接続する一般鉄道のものと共通にして、相互に車両が乗入れて直通運転し、一体の路線を形成する例がある。空港連絡鉄道としても重宝されており、世界の主要な都市の空港では、地下鉄が乗入れを行なっているケースが多い。地下鉄の歴史は、19世紀のイギリスの首都ロンドンから始まった。1863(文久2)年1月10日、メトロポリタン鉄道(1933[昭和8]年まで運行されていた旅客・貨物鉄道で、メトロポリタン鉄道の略称である「Metro」は、多くの国の言葉で「地下鉄」の意味として定着している)のパディントン駅からファリンドン駅の間、約6kmが開通した(現在のサークル線の一部)。当時のイギリスは、鉄道の建設が盛んであったが、ロンドン市内は建物が密集しており、地上に鉄道を建設できなかったためである。車両は、開業当初から1905(明治38)年に電化されるまでは蒸気機関車を使用していた。硫黄を含む煙が発生するため、駅構内は密閉された地下空間ではなく、換気性を確保した吹き抜け構造となっていた他、路線の一部も掘割であった。第一次世界大戦が開戦するまでには西ヨーロッパや北アメリカの大都市に、第一次世界大戦中から20世紀半ば頃までは、ヨーロッパ各地の中都市や日本を中心に建設が行なわれていたが、1970年代以降は、アジア等の発展途上国での建設が盛んになった。アジアで最初に地下鉄が走ったのは日本である。日本では、大都市部に人口が密集しており、地下鉄を建設するには都合の良い都市構造であるため、特に地下鉄路線が盛んに作られた。アジアの地下鉄は、20世紀後半以降に飛躍的に発展したが、これは交通渋滞緩和を目的とした地下鉄建設が主流であったためである。第二次世界大戦後の独立や経済成長等によって都市化が進み、地下鉄の需要が高まった。本格的な地下鉄としては、1927(昭和2)年12月30日、現在の東京地下鉄(東京メトロ)銀座線の浅草駅 - 上野駅間が開通したのが最初である。この地下鉄銀座線は、1913(大正2)年に世界で13番目に開業した、南アメリカ南部に位置するアルゼンチンの首都、ブエノスアイレス市内のブエノスアイレス地下鉄をモデルとしている。1933(昭和8)年5月20日には、初めての公営地下鉄として大阪市営地下鉄御堂筋線の梅田駅 - 心斎橋駅間が開通した。それら以前にも、1915(大正4)年には、東京中央郵便局と東京駅の間の地下を走行する郵便物輸送専用の地下鉄が存在していた。大阪市では、第二次世界大戦の戦時中も資材不足に苦しみながら、1942(昭和17)年まで路線の延伸が進められた。第二次世界大戦後は大阪市の他、1957(昭和32)年開業の名古屋市営地下鉄東山線を皮切りに、公営路面電車が走っていた政令指定都市での代替交通手段として、公営地下鉄の建設・拡充が進んだ。背景には、渋滞の深刻化に伴ない、路面電車の定時運行が難しくなったことがある、とされる。1980年代後半頃から、建設費圧縮のため、リニアモーター(軸のない電気モーター[電動機]で、一般的なモーターが回転運動をするのに対し、リニアモーターは基本的に直線運動をする)によるミニ地下鉄も、一部で建設されている。
横光忌、利一忌。
作家・俳人・評論家、横光利一の1947(昭和22)年の忌日。横光利一は、ジャーナリスト・作家・劇作家で、出版社の文藝春秋社を創設した実業家でもある菊池寛に師事し、近現代日本文学の頂点に立つ作家の1人である川端康成と共に、外部の現実を主観的に把握し、知的に再構成した新現実を感覚的に創造しようとした新感覚派として、大正期から昭和期にかけて活躍した。短編小説の『日輪』と『蝿』で鮮烈なデビューを果たし、短編小説『機械』は、日本のモダニズム文学(都市生活を背景にし、既成の手法を否定した前衛的な文学運動)の頂点とも絶賛され、また、形式主義文学論争(文学の形式と内容に関する論争)を展開し、『純粋小説論』を発表する等の評論活動も行ない、長編小説『旅愁』では、西洋と東洋の文明の対立について書く等、多彩な表現を行なった。1935(昭和10)年前後には「文学の神様」と呼ばれ、多くの日本人作家に影響を与えた作家、志賀直哉と共に「小説の神様」とも称された。その後、第二次世界大戦敗戦後の連合国軍占領下の日本で、戦時協力をした「文壇の戦犯」と名指しで非難を受ける。しかし、やがて改めて再認識され始め、1980(昭和55)年頃からは多面的な検討がなされるようになり、多くの作家らによる再評価が進んだ。三重県阿山郡柘植町(現:三重県阿山郡伊賀町)に記念碑が建立される等、文学碑が各地で建てられた他、横光利一の父の故郷である大分県宇佐市では、「横光利一俳句大会」が行なわれている。 
ホシヅル忌。
SF作家、星新一の1997(平成9)年の忌日。「ホシヅル(星鶴)」は、星新一が考案した架空の鳥のイラストで、サイン等の際にも使用していたものである。星新一の父は、星薬科大学の創立者で、星製薬の創業者、星一。星新一は父の死後、短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては稀有な、東証一部上場企業(当時)の社長経験者である。膨大な作品量でありながら、どの作品も質の高さを兼ね備えていたところから、「ショートショート(掌編小説)の神様」と呼ばれている。小松左京、筒井康隆と共に「SF御三家」と呼ばれる。作品に殆ど反映されていないため、看過され勝ちであるが、星新一は化学の修士号を持ち、その方面の著書もある。