12月26日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

プロ野球誕生の日/ジャイアンツの日(続き)。
「トーキョージャイアンツ」は、全米各地で128日間109試合(ダブルヘッダー17日34試合含む)という日程を戦った。主な対戦相手は、メジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)のマイナークラスのチームで、最初は物珍しさもあって観客が集まったものの、徐々に減少する。その為、ダブルヘッダーを開催することでファン確保を狙ったが、選手達等からは、体力の負担を強いられるとして反対意見も相次いだという。結局、75勝33敗1引分けの好成績でアメリカ遠征は終了した。帰国後、大日本東京野球倶楽部の名称問題が再燃する。ジャイアンツという名前を使い続けるか、それとも、第二次世界大戦前において軍人軍属で武功ある者に与えられた勲章、金鵄勲章から名を取った「金鵄軍」に変えるかというもので、最終的に正力松太郎が「ジャイアンツ」という名前を使用することを決定し、1936(昭和11)年に「ジャイアンツ」を巨人と訳した「東京巨人軍」に正式改称する。7月16日に帰国した東京巨人軍は、9月6日からは国内各地を転戦する。これが、翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。なお、これより前の1920(大正9)年、東京府東京市芝区(現:東京都港区)の芝浦に日本初のプロ野球団である「日本運動協会」が設立されているが、1929(昭和4)年に解散しており、現在のプロ野球リーグとの繋がりはない。1936(昭和11)年2月5日、日本職業野球連盟が結成され、2月9日には、愛知県愛知郡鳴海町(現在の名古屋市緑区)に所在した鳴海球場(1958[昭和33]年限りで閉鎖)で開かれた名古屋金鯱軍(1943[昭和15]年に解散)との対戦は、現在の日本野球機構に当たる職業野球連盟に所属するチーム同士が行なった、初めての試合である。この試合は、東京巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と、名古屋金鯱軍の結成記念を兼ねたもので、第1試合は東京巨人軍が名古屋金鯱軍に3対10で敗れたが、翌日行なわれた第2戦、第3戦は東京巨人軍が連勝した。東京巨人軍は、この直後の2月14日に前年に続き、第2次アメリカ遠征に出発。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に、10州を巡回して89日間で76試合を行ない、対戦成績は42勝33敗1引分けであった。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、東京巨人軍はアメリカ遠征のため、春季大会を欠場し、夏季大会から参加。7月5日に大東京軍(1952[昭和27]年に大洋ホエールズと合併して大洋松竹ロビンスとなり消滅[大洋松竹ロビンスは現在の横浜DeNAベイスターズの母体の1つ])戦に勝利して、公式戦球団初勝利を挙げる。東京巨人軍は、この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市の分福球場(通称は茂林寺球場で、現在は群馬県太田市に本部を置く学校法人関東学園の分福総合グラウンドとなっている)で緊急キャンプを張った。その時の猛練習は、「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。1936(昭和11)年の秋季大会は、6回の小規模リーグ戦の勝ち点制で開催され、5回目のリーグ戦までリードしていたが、6回目のリーグ戦で大阪タイガース(現在の阪神タイガース)に並ばれる。9月25日には沢村栄治が対大阪タイガース戦において、日本プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成。洲崎球場(東京府東京市城東区[現在の東京都江東区新砂]に所在した球場で、1943[昭和18]年頃に解体される)で3戦制の優勝決定戦を行ない、12月11日に第3戦に勝利して2勝1敗で大阪タイガースを下し、公式戦初優勝球団に輝いた。1937(昭和12)年9月11日には後楽園球場(東京都文京区に所在した球場で、日本初の屋根付き球場、東京ドーム建設のため、1987[昭和62]年に解体される)が開場し、以来実質的な本拠地として使用する。春季戦は、7月11日に対東京セネタース(1940[昭和15]年に名古屋金鯱軍と対等合併して大洋軍となり、その後は西鉄軍となるが、1943[昭和15]年に解散[現在の埼玉西武ライオンズとの直接な関係はない])戦(後楽園球場)に勝利して、前年に続く2季連続優勝を達成。秋季戦は首位大阪タイガースに9ゲーム差の2位で、初めての優勝を逃す。第二次世界大戦前は、東京巨人軍と大阪タイガースの2球団で優勝を分合うことになった。1939(昭和14)年からは、年間通じてのリーグ戦となり、11月9日の対南海軍(現在の福岡ソフトバンクホークスの前身)戦(後楽園球場)に勝利して2季連続優勝。1940(昭和15)年9月13日には戦局悪化の影響で、連盟より英語禁止の通達が出て、ジャイアンツのニックネームを使わず、ユニフォームのマークが「G」から「巨」に改められている。1944(昭和19)年11月10日に野球試合不可能として、会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。11月13日には国の指導により、日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し、第二次世界大戦前のプロ野球は終わった。東京巨人軍は1946(昭和21)年のリーグ戦再開より参加し、翌1947(昭和22)年には読売新聞社が経営に当たることとなり、球団名を東京読売巨人軍に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとする。1965(昭和40)年から1973(昭和48)年までは、ペナントレース、及び日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的に「V9」と呼ばれる。この間、東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)は、カラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、当時の子どもが好きなものを表わした「巨人、大鵬、卵焼き」は流行語となった。東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)の優勝(レギュラーシーズン最高勝率) 46回は日本プロ野球記録、日本一22回も日本プロ野球記録となっており、最下位になったことは、1975(昭和50)年の1回しかない。主にマスコミ等で、対阪神タイガース戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。「西の景浦、東の沢村」「(職業野球は)沢村は投げて、景浦が打って始まった」とも呼ばれ、第二次世界大戦前の野球ファンの注目の的となった。1936(昭和11)年に日本プロ野球が始まって以来、11シーズン中8度の優勝を果たしていた東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)に対して、大阪タイガース(現在の阪神タイガース)は残り3シーズンで優勝を果たす等、プロ野球を代表する強豪同士であったと言える。実際、1949(昭和24)年までの1リーグ時代の対戦成績は、東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)の84勝85敗3分と拮抗していた。しかし、2リーグに分裂した際に、阪神タイガースの主力選手が大量に引抜かれたせいで戦力格差が生じてしまい、さらに、阪神タイガースの長い低迷もあり、2014(平成26)年までの通算成績は、東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)の999勝777敗67分で、81シーズン中の約7割に当たる56シーズンで東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)が勝越す等、戦績は一方的である。特に、2リーグ分裂以降は東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)がリードするシーズンが長く続き、1950(昭和25)年から2002(平成14)年までの53シーズンで東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)が阪神タイガースに負越したシーズンは僅か6シーズン、タイは1シーズンしかそれぞれなく、東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)は2リーグ初年度の1950(昭和25)年から1961(昭和36)年までは、1958(昭和33)年のタイを除いて全て勝越しており、また、1986(昭和61)年から2002(平成14)年までは、17年連続で東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)が勝越している。2021(令和3)年から20023(令和5)年までの3年間は、阪神タイガースが東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)に勝越した。なお、2016(平成28)年からは、東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)、阪神タイガースの両球団による相互展開を図るプロジェクト、「伝統の一戦 ~THE CLASSIC SERIES~」が開催されている。