12月26日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2023年 令和5年 平成35年  
昭和98年 大正112年 明治156年 皇紀2683年 干支 癸卯(みずのと う)
第4火曜日 旧暦 11月14日、赤口(戊午)、月齢 13.1 
グレゴリオ暦で年始から360日目、年末まであと5日。
誕生花 ブバルディア・クリスマスローズ。

プロ野球誕生の日/ジャイアンツの日。
1934(昭和9)年12月26日、アメリカのメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)選抜軍との対戦のため、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)の前身である、現在のプロ野球リーグでは最古のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」が結成された。日本のプロ野球の歴史は、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)の歴史と言っても過言ではない。当時、人気の東京六大学野球(東京を所在地とした6校の大学の硬式野球部で構成された、現存している中では最も長い歴史がある大学野球リーグ)に対して、「職業野球」と蔑視されながら、ノーヒットノーランを3回達成した豪腕・沢村栄治、初の三冠王・中島治康らを擁し、高い技術を見せ付けて、次第にファンを獲得していった。1931(昭和6)年、読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)選抜軍を日本に招待し、全日本軍や東京六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行ない、興行は成功を収めた。これを受けて、正力松太郎は再度のメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)選抜軍の招待、特に、前回叶わなかった「野球の神様」と言われた大スター選手、ニューヨーク・ヤンキースのベーブ・ルースの招聘を目論んだが、1932(昭和7)年に文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)が学生野球の統制と健全化を目的として発令した「野球ノ統制並施行ニ関スル件(野球統制訓令、昭和7年3月28日文部省訓令第4号)」によって、メジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)選抜軍を招聘したとしても、大学チームを対戦相手とすることはできなくなった。早稲田大学野球部監督から読売新聞社社員となった市岡忠男、東京六大学野球リーグ戦で審判を務めていた早稲田大学出身の浅沼誉夫、慶應義塾大学出身でクラブチームでプレーしていた三宅大輔、プロ野球誕生の機運の中、裏方として様々な交渉を行なっていた鈴木惣太郎の4名は、その対策として、職業野球チームを結成することを正力松太郎に働き掛ける。その結果、1934(昭和9)年6月9日、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)にある日本工業倶楽部会館で「職業野球団発起人会」が開かれ、6月11日には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行なわれ、プロ契約第1号選手として6月6日付で、早稲田大学を中退してクラブチームでプレーしていた三原脩、第2号選手として6月15日付で、法政大学出身でクラブチームでプレーしていた苅田久徳を獲得する等、チームが形作られていった。この時、日米野球の期間中のみ契約するという選手と、日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった。1934(昭和9)年10月15日、千葉県習志野市谷津の谷津海岸に新設された谷津球場(1982[昭和57]年12月21日に閉園した遊園地、谷津遊園内に所在)に30名の選手が集まりチームは結成された。11月2日、横浜にメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)選抜軍が来日し、全日本軍と全国で親善試合興行を行なった。試合は、全日本軍の15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合)で、試合内容も圧倒的であったものの、ニューヨーク・ヤンキースのベーブ・ルースや、そのチームメイトで「アイアン・フォース」「静かなる英雄」と呼ばれたルー・ゲーリッグらを擁したメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)選抜軍は、読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が、静岡市駿河区の静岡県草薙総合運動場内に所在する静岡県草薙総合運動場硬式野球場(草薙球場)にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村栄治が1失点完投した試合である。三重県宇治山田市(現在の三重県伊勢市)生まれの沢村栄治は、京都商業学校(現在の京都先端科学大学付属高等学校)の投手として1933(昭和8)年春、1934(昭和9)年春・夏の高校野球全国大会(当時は中等野球)に出場。1試合23奪三振を記録する等、才能の片鱗を見せた。1934(昭和9)年の夏の大会終了後に京都商業学校を中退(現在の高校3年生に相当する年齢)。その年の11月に開催された読売新聞社主催の日米野球の全日本チームに参戦する。5試合に登板(4先発)したが、中でも11月20日、草薙球場で開催された試合では、7回裏にルー・ゲーリックにソロ本塁打を浴びたのみで、メジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)選抜軍を8回5安打1失点と好投した(スコアは0対1)。これ以外の4試合では滅多打ちにあって、沢村栄治自身0勝4敗に終わったが、この年の日本選抜対メジャーリーグ選抜の試合が日本の0勝16敗に終わったため、この快投は、現在でも日本で語り草となっている。尤も、ベーブ・ルースは、沢村栄治を賞賛する一方で、「丁度バッターボックスに入って投手に面すると、太陽の光源が真正面に見えるのでまぶしくて仕方がなかった」とコメントしている。なお、この試合でメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)選抜軍の先発は、アール・ホワイトヒル(35歳の左腕投手。その年のメジャーリーグベースボール[MLB、大リーグ]での成績は14勝11敗、防御率4.52)で9回3安打完封であった。因みに、沢村栄治が学校を中退してプロ入りしたのは、野球部員による下級生への暴行事件が明るみに出て、連帯責任で甲子園出場が絶望的になったためであった。等持院(現在の京都市北区等持院北町に所在する寺院で、足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる)住職の栂道節が、大日本東京野球倶楽部専務取締役の市岡忠男に沢村栄治を紹介した。沢村栄治は、1934(昭和9)年の年末近くになって、大日本東京野球倶楽部の結成に参加する。そして、12月26日に、全日本軍の選手を中心にした選手19名で大日本東京野球倶楽部が結成された。翌1935(昭和10)年、大日本東京野球倶楽部は、第1次アメリカ遠征を行なった。その際当初は、「大日本東京野球倶楽部」と名乗る予定であったが、メジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)選手を引退したばかりで、現地マネジャーを務めたフランク・オドールから「『大日本東京野球倶楽部』は分かりにくい」という指摘を受けることになる。ニューヨーク・ジャイアンツ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツ)の元選手であったフランク・オドールは、「トーキョージャイアンツ」という名前を薦め、結局、その名称が使われることになった。1935(昭和10)年1月14日から2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日には、第1次アメリカ遠征に出発する。選手ら総勢18名で、当時の日本に数少ない本格的客船で、当時の日本における最大級の客船でもあり、「太平洋の女王」と称された日本郵船(三菱財閥[三菱グループ]の中核企業で、日本最大の機械メーカー三菱重工と共に、三菱グループの源流企業であって、日本の三大海運会社の1つでもある)保有の貨客船『秩父丸』(満載排水量22,560t)に乗船し、横浜港からアメリカに向けて出発、選手達は船上でも、試合に向けての練習をこなした。