12月9日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

皇后誕生日(地久節)。
地久節は、昭和時代の第二次世界大戦までの祝日の1つで、皇后の誕生日を祝う日とされる。天皇誕生日(天長節)と異なり、国の祝祭日として勅令(天皇が発した法的効力のある命令)で定められることはなかったが、女子校等において、天長節に準じた扱いで祝いの儀式が行なわれた。1931(昭和6)年の大日本連合婦人会(文部省[現在の文部科学省の前身の1つ]の後押しを受けた全国的組織を持つ婦人会)の結成と共に、地久節が母の日に定められ、第二次世界大戦前昭和期を通じて祝われた。1948(昭和23)年7月、地久節は皇后誕生日に改称された。第126代天皇、今上天皇の皇后、皇后雅子の誕生日は、1963(昭和38)年12月9日であることから、現在の皇后誕生日は12月9日となる。なお、第125代天皇、上皇明仁の皇后、上皇后美智子の誕生日は1934(昭和9)年10月20日であったことから、平成時代の皇后誕生日は10月20日で、第124代天皇、昭和天皇の皇后、香淳皇后の誕生日は1903(明治36)年3月6日であったことから、昭和時代の皇后誕生日は3月6日となっていた。1963(昭和38)年12月9日、外務省職員であった小和田恆、優美子夫妻の長女として東京都で生まれた小和田雅子は、父の小和田恆が在ソビエト連邦日本大使館一等書記官に就任したため、1歳数ヶ月からは、ソビエト連邦の首都モスクワ市で過ごす。1966(昭和41)年7月、スイス西部のジュネーブで、妹として礼子と節子の双子が誕生。後年、母の優美子と生後直後の両者は、スイス中西部にある同国の首都、ベルンのスイス大使公邸に滞在したため、小和田恒と雅子だけモスクワに戻り、家政婦と3人での生活を送った。1968(昭和43)年5月から、父が国際連合日本政府代表部一等書記官に就任したため、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨーク市に一家で渡る。1971(昭和46)年3月、父が外務大臣秘書官事務取扱(前任は、第87代内閣総理大臣小泉純一郎)に就任したため、一家は日本に帰国し、東京都新宿区大久保の国家公務員官舎に居住を移転する。目黒区立原町小学校第1学年に編入し、5月には、新宿区立富久小学校第2学年に編入する。その後、東京都世田谷区玉川田園調布に所在する、幼稚園(若しくは、小学校)から高等学校まで一貫教育を行なう女子校、田園調布雙葉学園の田園調布雙葉小学校に編入学し、中学校、高等学校へと進学する。1979(昭和54)年7月から、父が在米日本大使館公使に就任したため、1985(昭和60)年6月までの約6年間、アメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州ボストン市へ移住する。1981(昭和56)年、アメリカ最古の大学であり、各種の大学ランキングでは常に最上位に位置する名門校で、政財界から学術分野まで、幅広い分野で指導的な人材を輩出し続けているハーバード大学(アメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州ボストン市近郊のケンブリッジに所在)経済学部に入学し、国際経済学を専攻する。1985(昭和60)年にハーバード大学を卒業し、成績優秀な学生に贈られる「優等賞(Magna Cum Laude)」を受賞した。翌1986(昭和61)年には、東京大学法学部第3類(政治コース)の3学年に外部学士入学しているが、100名中3名の合格であった。そして、外交官を志し、1987(昭和62)年に東京大学を中途退学して、外務省に入省。「経済局国際機関第二課」に配属された。外務省での職歴は、約5年10ヶ月(留学期間を省くと約4年)で、語学力を生かして幅広く活躍した。1986(昭和61)年10月18日に来日した、スペイン国王カルロス1世の長女、エレナ王女の歓迎レセプションに出席した際、徳仁親王(現在の第126代天皇、今上天皇)と知合う。数度の再会の後、1992(平成4)年8月16日、既に皇太子になっていた徳仁親王と、約5年振りに再会する。同1992(平成4)年12月12日、皇太子徳仁親王からの求婚を受諾し、1993(平成5)年1月19日、皇室会議(皇室に関する重要な事項を合議する国の機関)で「皇太子徳仁親王妃」に内定し、記者会見を行なう。「ハーバード大卒で外交官」という、いわゆる「キャリアウーマン」であること等が世間の注目を受けた。同1993(平成5)年6月9日、「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」が執り行なわれた。2001(平成13)年12月1日には、第一女子となる、敬宮愛子内親王が誕生した。2019(平成31)年)4月30日、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(退位特例法、平成29年6月16日法律第63号)」に基づく代替わりで、義父の第125代天皇、明仁が退位(譲位)する。翌日の2019(令和元)年5月1日、夫の皇太子徳仁親王が皇位継承して、第126代天皇に即位した。これに伴ない、義母の皇后美智子が上皇后となるのに代わり、自身は立后して新たな皇后となり、同日の皇居・松の間での「即位後朝見の儀」に、第126代皇后として公の場に表した。
マウスの誕生日。
「IT25・50」シンポジウム実行委員会が制定。1968(昭和43)年12月9日、「ITの父」と呼ばれるアメリカの電気工学者、ダグラス・エンゲルバートにより、マウスやウィンドウ(アプリケーション[コンピュータを「応用」する、目的に応じたコンピュータ・プログラム]に与えられる領域)、ハイパーテキスト(複数の文書[テキスト]を相互に関連付け、結び付ける仕組み)等、パーソナルコンピュータ、インターネットの歴史の出発点ともなるデモンストレーション(「The Demo」)が行なわれた。中でも、マウスは、それまで専門家しか操作できなかったコンピュータを、誰もが操作できるようになる画期的なもので、その後のIT文化の基盤ともなっていることから、その誕生日として「The Demo 50周年」を祝い、「ITの過去・現在・未来」について考える日、とすることが目的。日付は、「The Demo」が行なわれた日から。因みに、「IT25・50」とは、インターネット商用化25周年と、ダグラス・エンゲルバートThe Demo 50周年の意味である。主に、画面上に表示されるポインタやアイコンを操作するために用いるポインティングデバイスの一種類、マウスは、本体を手に持って、机等の平面上を移動させ、接触式、或いは、非接触式のセンサで移動を検知し、二次元の縦横それぞれの移動をコンピュータへ伝える。マウスという呼称は、形状がネズミに似ていたことから名付けられた。近年は、無線による「コードレスマウス(ワイヤレスマウス、無線マウス)」も多い。業務用の高性能なコンピュータ、ワークステーションを始め、1980年代から1990年代以降は、パーソナルコンピュータのグラフィック性能も強化され、コンピューターの操作の対象が、絵で表現されるユーザーインターフェース(ユーザーとコンピュータとの間での、情報のやり取りの方法)、グラフィカルユーザインタフェース(GUI)が一般的になると、グラフィカルユーザインタフェース(GUI)における標準のポインティングデバイスとして普及した。マウスの移動の単位は、ミッキーで表わされるが、これはミッキーマウスに由来する、とされる。定義は、「1ミッキー = マウスの1/100インチ分移動させた距離」である。マウスの1ミッキーの移動に対し、マウスカーソルが何ドット移動するかを、ミッキー/ドット比といい、グラフィカルユーザインタフェース(GUI)の操作における、マウスの感度等を表わす。