12月9日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

国際腐敗防止デー(International Anti-Corruption Day)。 
2003(平成15)年12月9日、「腐敗の防止に関する国際連合条約(国際連合腐敗防止条約)」が調印されたことを記念し、制定された国際デーの1つ。「国際連合腐敗防止条約」は、腐敗(公務員、外国公務員、及び国際公務員による汚職を含む)賄賂、横領、資金洗浄を含む経済犯罪を防止するための条約である。組織的な犯罪集団への参加・共謀や犯罪収益の洗浄(マネー・ローンダリング)・司法妨害・腐敗(公務員による汚職)等の処罰、及びそれらへの対処措置等について定める国際条約、「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約(国際組織犯罪防止条約)」を補完する役割を担っており、国際連合グローバル・コンパクト(1999[平成11]年の世界経済フォーラムにおいて、当時国際連合事務総長であったコフィー・アナンが企業に対して提唱したイニシアチブ[物事を率先して行なうこと]で、企業に対し、人権・労働権・環境・腐敗防止に関する10原則を順守し実践するよう要請している)の原則にも組込まれている。日本では、条約の締結が承認された後、批准(既に全権代表によって署名がなされた条約に拘束されることを、国家が最終的に決定する手続)に向けた審議が行なわれ、2017(平成29)年6月15日には、「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律(組織的犯罪処罰法、平成11年8月18日法律第136号)」の改正案が成立した。日本国政府は、改正「組織犯罪処罰法」が施行された2017(平成29)年7月11日、「国際連合腐敗防止条約」の受諾について、閣議に於いて決定した。国際連合本部に受諾書を寄託して正式に条約を締結し、2017(平成29)年8月10日に発効。日本は188番目の締約国となった。改正「組織犯罪処罰法」は、「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律(平成29年6月21日法律第67号)」によるもので、「テロ等準備罪」を創設している。組織的な犯罪の共謀罪は、「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律」案第6条の2所定の、一定の重大な犯罪の共謀を構成要件とする犯罪をいう。日本の「刑法(明治40年4月24日法律第45号)」は、未遂罪は「犯罪の実行に着手」することを構成要件としており、共同正犯(共謀共同正犯)も、「犯罪を実行」することを構成要件としているために、組織的、かつ重大な犯罪が計画段階で発覚しても、内乱陰謀(「刑法」第78条)等の個別の構成要件に該当しない限り処罰することができず、従って、強制捜査をすることはできない。日本国政府は小泉政権当時、「テロ等準備罪」導入のための法案を国会に3度提出したが、いずれも廃案となった。2017(平成29)年の通常国会、第193回国会への「テロ等準備罪」法案提出に際し日本国政府は、「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約(国際組織犯罪防止条約)」の締結のために必要であると主張し、犯罪の主体を組織的犯罪集団に限定し、計画行為に加えて、実行準備行為が行なわれた時に初めて処罰される等の点が、かつての「組織的な犯罪の共謀罪」との違いであると主張している。
漱石忌。
日本を代表する文豪の1人である作家・評論家・英文学者・俳人、夏目漱石の1916(大正5)年の忌日。夏目漱石は、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。本名は夏目金之助で、俳号は愚陀仏。大学時代に明治時代を代表する文学者の1人である俳人・歌人の正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学の前身)英文科卒業後、現在の愛媛県松山市で愛媛県尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)教師、現在の熊本市で第五高等学校(旧制、現在の熊本大学の前身校の1つ)教授等を務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、長編小説『吾輩は猫である』を総合文芸雑誌(後に俳句雑誌)『ホトトギス』に発表。これが評判になり、中編小説『坊っちゃん』や短編小説『倫敦塔』等を書く。その後朝日新聞社に入社し、長編小説の『虞美人草』や『三四郎』等を掲載。当初は、人生に対して余裕を持って望み、高踏的な見方で物事を捉えるという、「低徊趣味的」(夏目漱石の造語)な要素を含む余裕派と呼ばれた。1910(明治43)年夏、病身の夏目漱石は、療養のため伊豆修善寺(現在の静岡県伊豆市修善寺)の菊屋旅館に滞在していたが、この地で更に病状が悪化し、約800gの血を吐き人事不省に陥った。これを修善寺の大患と呼ぶ。夏目漱石はかろうじて生死の縁から甦ったが、この大病はその後の人生観や作風に大きく影響を与えたと言われている。その後は、長編小説の『行人』や『こゝろ』、随筆『硝子戸の中』等を執筆。「則天去私(小さな私に捉われず、身を天地自然に委ねて生きること)」の境地に達したと言われる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、長編小説『明暗』が絶筆となった。夏目家は江戸時代には名主身分の町人であったが、祖先は武家で、三河松平氏(徳川氏)家臣の夏目吉信の曾孫に当たる夏目吉之を祖とする。夏目漱石の子孫には、著述や音楽で名を成した著名人が多数いる。長男はヴァイオリニストの夏目純一、その長男が漫画批評家・エッセイストの夏目房之介、長女は作家の夏目筆子で、その娘婿が作家の松岡譲、夏目筆子の四女はエッセイストの半藤末利子、次男は随筆家の夏目伸六である。門下生も作家の芥川龍之介、物理学者・随筆家・俳人の寺田寅彦、哲学者・倫理学者の和辻哲郎ら多士済々(多くの優秀な人材)で、中でも代表的なのは、哲学者・教育者・政治家の安倍能成、独文学者・文芸評論家・演劇評論家の小宮豊隆、日本の児童文化運動の父とされる作家・児童文学者の鈴木三重吉、作家・翻訳家の森田草平で、四天王と称せられる。それに加えて、夏目漱石と四天王が中心となって開いた木曜会(夏目漱石宅で、夏目漱石の教員時代の教え子や夏目漱石を慕う若手文学者が集まり、さまざまな議論をした会合のことで、毎週木曜日に開かれたのでこの名が付く)に馳せ参じた文士が、言わば夏目漱石門下とされ、後に浄土真宗の僧侶で英文学者・評論家・エッセイストの本多顕彰によって「漱石山脈」と命名されている。望まれぬ末子として江戸の町方名主の家に生まれ、薄幸な少年時代を過した夏目漱石が、反官的(国家に反抗する姿勢)な態度を貫いたことに対して、石見国津和野藩典医の長男として早くから家族中の期待と愛情により育てられた作家・評論家・翻訳家の森鴎外は、死ぬまで国家官僚の職を歴任し、官側の人間で在り続けた、という対照が在る(夏目漱石は「低徊派」、森鴎外は「高踏派」と呼ばれた)。しかし、その一方では2人共、「自然主義文学の姿勢」とははっきりした距離を保ちながら、洋の東西を問わぬ広い知識を以て文学活動を進め、歪んで行く近代化に於ける価値観の主流に於いても、自分達の認識をしっかりと見据え、後続の文学世代に相応の影響を与えた。なお、「新陳代謝」「反射」「無意識」「価値」「電力」「肩が凝る」等は、夏目漱石の造語であると言われているが、実際には夏目漱石よりも古い用例がある。また、夏目漱石の作品には、順序の入替え、当て字等言葉遊びの多用が見られ、「兎に角」(とにかく)のように、一般的な用法として定着したものもある、と言われている。1984(昭和59)年から2004(平成16)年まで発行された日本銀行券D千円券は文化人を選ぶこととされ、国民的な人気があって知名度も高い上、世界の通貨「YEN」にふさわしく、国際性のある人物として、イギリスの首都ロンドンに留学した経験のある、夏目漱石の肖像が採用された。  
開高忌/悠々忌。
作家、開高健の1989(平成元)年の忌日。 開高健が生前、よく口に出していた言葉「悠々として急げ」から、「悠々忌」とも呼ばれる。短編小説『裸の王様』で、1957(昭和32)年の第38回下半期芥川龍之介賞(純文学の新人に与えられる文学賞で、通称は芥川賞)を受賞した開高健の作品には、組織と人間の問題を扱った短編小説『パニック』や、ベトナム戦争取材の体験を元にした長編小説『輝ける闇』等がある。また、趣味の釣りについて世界各地での体験を綴ったエッセイ『フィッシュ・オン』や『オーパ!』等でも知られる。