『家族のかたち 第一章第38話』に登場する、ヴィクター・ラングフォードの視点から描いたお話です。
午後の稽古場には、ひと仕事終えたあとの緩やかな空気が漂っていた。
本稽古を終えた俳優たちは、それぞれの役割を終えて散っていく。
舞台に立つ者と、そうでない者。その差は、この場所でははっきりと存在していたが、だからといって誰もそれを言葉にすることはない。
ただ、流れの中で、それぞれが自分の位置に戻っていくだけだった。
ヴィクター・ラングフォードも、その流れの中にいた。
彼は二年目。ようやく端役がつき始めたばかりではあったが、その速度は決して遅いものではなく、むしろ周囲の評価の表れでもあった。
期待されているという感覚は、言葉にされずとも確かにあったし、それを受け止めるだけの自負もあった。
剣の手入れを終え、稽古場を出ようとしたそのときだった。
廊下の奥から、声が響いてきた。自然と視線が向く。そこでは、新入団生たちが集められ、発声練習を行っていた。
腹から声を出すよう指導する声が飛び、そのあとに若い声が続く。
基礎の時間。誰もが通る、最初の段階だ。
通りがかった俳優たちが、ちらりとその様子を覗いては、懐かしそうに笑いながら通り過ぎていく。
「やってるな」
「俺も最初はあれだった」
軽い笑いが交わされ、そのまま日常へと戻っていく。ヴィクターもまた、そのまま通り過ぎるつもりだった。だが――
ふと、耳に残る声があった。思わず足を止める。
理由は分からない。ただ、その声だけが、他と違って聞こえた。
無意識のうちに、視線を向ける。新入団生の中に、一人、目を引く男がいた。
品格のある立ち姿、整った顔立ち。確かに目立つ。だが、それだけなら珍しくもない。ブロードウェイには、そういう俳優はいくらでもいる。
それでも、ヴィクターの足を止めたのは、その見た目ではなく、声だった。
無理に張り上げているわけではないのに、自然に遠くまで届く。
それでいて、ただ通り抜けるのではなく、空間に残る。
他の声が流れていく中で、その声だけが確かにそこに留まり、耳の奥に引っかかる。
技術としてはまだ整っていない。粗さもある。
だが、それでもなお――目を離せない。
気づけば、ヴィクターは壁際に寄り、見えない位置からその様子を見ていた。
ただの新入りのはずだった。それなのに、なぜかそこに“いる”と分かる。
空気を支配しているわけでも、周囲を圧倒しているわけでもない。それでも、その存在だけが浮かび上がる。
そのとき、隣に人の気配を感じた。
視線を横に向けると、そこに立っていたのは、すでに劇団の主役を務めている俳優だった。
名前を知らぬ者はいない、その舞台の中心にいる男。
彼もまた、何も言わずに新入団生たちの稽古を見ていた。
視線の先は同じだった。ヴィクターがその場を離れようとしたときだった。背後から、低い声がかかる。
「おい」
振り返ると、先ほど隣に立っていた男が、わずかに顎を上げてこちらを見ていた。
舞台の中心に立つ男。その視線は鋭いが、どこか確かめるようでもあった。
「おまえの声も、他のやつらとは違っていた」
不意に向けられた言葉に、ヴィクターは一瞬だけ目を瞬かせる。だがすぐに、まっすぐに受け止めた。
「……ありがとうございます」
余計な飾りも、照れもない。ただ、そのままの言葉だった。
男は小さく鼻で笑う。そして、視線を再び稽古場へと向けると――
「今年は、とんでもないのが入ってきたって、ロバート団長が言ってたらしいが」
そう言いながら、顎で軽く一人を指す。
視線の先にいるのは、あの新入団生だった。
ヴィクターは思わず聞き返す。
「え? そんな噂があるんですか?」
男は肩をすくめる。
「いや、あくまでも噂だがな。こういう話は一人歩きもするし、勝手に大きくなる」
どこか投げやりで、それでいて現実をよく知っている声音だった。
「まあ、だいたい最初は、誰だって期待されてるもんだ。オーディションを通ってここにいるんだからな」
軽く言い切ると、男はふっと口元を緩める。
そして、視線をヴィクターへ戻した。
「ま、おまえも気を抜かないように」
それだけを残し、背を向ける。
呼び止める間もなく、彼はそのまま通路の奥へと消えていった。
残されたヴィクターは、もう一度だけ稽古場の方を見る。
さきほどと同じように、あの男は声を出していた。
無理のない呼吸。まっすぐに伸びる声。
――とんでもない、か。
胸の奥で、静かに何かが動く。
それが焦りなのか、期待なのかは分からない。
ただ一つだけ、確かだった。
ここは、そういう場所なのだ。
そして、自分もまた――その中にいる。