ニューヨークへ来てから、二週間が過ぎる頃。
シャワーの支度をするために、クローゼットを開けると、顔を近づけたわけでもないのに、ほのかに馴染みのある香りがした。
テリィが使っている香水の匂い。もう慣れた香りなのに、途端に、甘く過ごした夜のことが蘇り、キャンディの頬は熱くなる。
「……もう」
誰もいないのに、小さく呟くと、慌てるようにクローゼットの扉を閉めた。その時。
「何が『もう』なんだ?」
背後から声がして、キャンディは飛び上がった。
「きゃっ!」
振り返ると寝室の入口に、テリィが立っていた。
「テリィ!」
「ただいま」
「いつ帰ってきたのよ!」
「今だよ」
ジャケットを脱ぎながら、面白そうにキャンディを見る。
「きみはクローゼットに向かって怒ってたな」
「怒ってません!」
「じゃあ何してたの?」
「シャワーの支度よ」
テリィは先ほどキャンディが閉めた隣の扉を開いた。
「荷物は全部入った?入らないなら、こっちも使っていいよ」
「そこはあなたのじゃない」
キャンディはテリィの衣類を見た。
「私が来たせいで、あなたの服を端に寄せちゃったんでしょう?」
「別に、そんなこといいよ」
「でも……」
キャンディは寝室を見回した。
少し前まで、この部屋にはなかったものが増えている。
鏡台にはキャンディの小さな化粧道具や洗面台には櫛。ベッド脇には読みかけの本に椅子の背にはカーディガン。
窓辺には、昨日キャンディが買ってきた小さな花も飾られている。リビングにもそうだった。
ほんのわずかの期間なのに、部屋のあちこちへキャンディのものが入り込んでいる。
「なんだか……あなたの家なのに、どんどん私のものが増えていくわね」
テリィがキャンディを見た。
「俺の家?」
「だって、そうでしょう?」
テリィはクローゼットを閉める。
「もう俺だけの家じゃないさ」
キャンディは黙った。
「きみ、ここで暮らすんだろ?だったら、きみの家でもある」
あまりにも簡単に言われて、キャンディは返事ができなかった。
テリィはそんな彼女を不思議そうに見る。
「何?」
「ううん……」
キャンディは小さく首を振った。ただ胸の奥へ、その言葉がゆっくり沈んでいった。
――きみの家でもある。
今まで何度かここへ来た。この寝室で眠ったこともある。テリィの帰りを待ったこともある。
朝食を作ったことも、ソファで一緒に本を読んだこともある。
それでも、ここはいつも「テリィの家」だった。
自分は訪ねてきた人間で、やがて帰っていく人間だった。けれど、もう違うのだ。
「……本当に?」
ぽつりと口から出た。テリィが眉を寄せる。
「ここ、私の家でもあるの?」
今度はテリィが黙った。そして、少し呆れたように笑った。
「今さら何言ってるんだよ」
「だって……」
「キャンディ」
テリィが彼女の前へ立つ。
「きみはもう、ここへ遊びに来てるんじゃない」
その言葉に、キャンディはテリィを見上げた。
「帰る日も決めなくていい。荷物だって全部出していい。服が足りなければ増やせばいいし、家具が気に入らなければ変えればいい」
「家具まで?」
「嫌気に入らないものある?」
キャンディは慌てて首を振った。
「ないわよ」
「じゃあ、そのままでいいな」
テリィは笑った。
「でもまだ慣れなくて。帰らなくていいことに。朝起きてもあなたがいて、夜になったらあなたが帰ってきて……また次の日もここにいることに……」
キャンディは照れたように笑った。
「まだ、実感なくて」
テリィは何も言わず、キャンディを静かに抱き寄せた。キャンディもその胸へ頬を寄せる。
馴染みのある香りがした。
「キャンディ」
「なあに?」
「俺だって、きみがここにずっといるんだと自分に言い聞かせてる」
小さな声だった。キャンディはテリィの背中へ腕を回した。
「……うん」
しばらく二人はそのままでいた。
そして翌朝。
劇団へ向かおうとしたテリィは、コートを取ろうとして、ふと手を止めた。
自分の黒いコートの隣に、キャンディのコートが掛かっている。その下には、二人分の靴。
以前なら、自分のものしかなかった場所だった。
リビングから声がする。
「テリィー! 手袋忘れないでね!」
「分かってる!」
テリィは思わず笑った。
手袋を取り、コートを羽織る。そしてもう一度部屋の中を振り返った。
キャンディのものがあり、その向こうからキャンディがパタパタと走ってくる。
「いってらっしゃい、テリィ」
「行ってくる。終わったら、すぐ帰るからいい子にしてて」
「もうっ……人を猫みたいに」
キャンディが頬を膨らますと、その膨らんだ頬を潰して、尖らせていた唇に口つけると、笑いながらテリィは玄関を出た。
それだけのことだが、ここは、テリィの家でもあり、キャンディの家でもあるのだり
少しずつ、ふたりの家になっていくのだ。