翌朝、テリィは病院の入口で足を止めた。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。目を閉じると、舞台の床に広がった血と、スザナの白い顔が浮かんだ。

ようやく眠りかけても、何かが落ちる音を聞いた気がして、目が覚めた。
スザナのいる階へ上がると、団長が廊下の椅子に座っていた。彼は昨夜と同じ服を着ていた。

「おはようございます……あの、スザナは」
「何度か目を覚まして、その度に鎮痛薬が投与された。今は、お母様と伯父様がついている」
「脚のことは」
団長はすぐには答えなかった。
「今日、医師が話すそうだ」

テリィは病室の扉を見た。その向こうにいる彼女は、まだ知らない。

自分たちが一晩かけても受け止められなかったことを、これから聞かされる。
「先に顔を見せてくるか」
テリィは頷いた。扉へ伸ばした手が冷たかった。

*

スザナの枕元には母親が座り、伯父が少し離れたところに立っていた。

テリィが入ると、夫人は話をやめた。
「……テリィ」
スザナの声を聞いた瞬間、喉が詰まった。昨日、何度呼びかけても返事がなかった。その彼女が、自分を見ている。

「おはよう」
ベッドへ近づくと、スザナは彼の頬へ目を向けた。
「あなたも怪我をしたのね」
「少し擦っただけだ」
「そこだけ?」
「ああ」
彼女はほっとしたように息を吐いた。
「よかった……」

テリィは唇を結んだ。その言葉を、自分はどう受け取ればいいのか分からなかった。
「座って。そこの椅子使って」
椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

スザナは寝具の上へ置いていた手を少し動かし、彼の袖へ触れた。

「昨日のこと、途中までしか覚えていないの」
テリィはその指を見た。
「あなたの頭上で照明がぐらついて……」
母親が顔を伏せた。
「あなたを突き飛ばしたことは覚えてる。でもそのあとは、痛い記憶しかなくて……」
「……今も、痛むか」
「ええ、時々」

スザナは眉を寄せ、寝具へ目を落とした。
「脚が痛いの。足先まで、変に痛くて……姿勢を変えたいんだけど、うまく動かせないのよ」
伯父が窓のほうへ顔を向けた。
「母さんに聞いても、動いては駄目だって、そればかり」
夫人は娘の髪へ手を伸ばした。
「先生が、あとでお話ししてくださるから」
「そんなにひどい怪我だったの?」

スザナは母親を見た。
「ねえ、舞台は、どのくらい休むことになるの?」
夫人の手が止まった。返事がないことを不思議に思ったのか、スザナがもう一度呼びかけようとしたとき、扉が叩かれた。
医師と看護婦が入り、そのあとから団長が静かに入ってきた。

テリィが立ち上がろうとすると、袖をつかまれた。

「テリィ、ここにいて」
彼女の指に力がこもった。
「お願い」
テリィは座り直した。

*

医師はベッドのそばへ椅子を寄せた。昨日の事故で脚に重い損傷を負ったこと、出血が多く、命に関わる状態だったことを、一つずつ話した。


スザナは黙って聞いていた。その顔を見て、テリィは逃げ出したくなった。話を止めてほしかった。けれど、止めたところで何一つ変わらないことも分かっていた。

「傷ついた部分を残すことはできませんでした。あなたの命を守るために、片脚を切断しました」
スザナは医師を見たまま、動かなかった。少しして、眉を寄せた。
「……脚を?」
「はい」
「切断、したんですか」
医師は頷いた。スザナの目が寝具へ落ちた。
「でも、ここにあります」
誰も答えなかった。
「ここに、あるんです。今も痛いんです。足の先も……」

医師は彼女の言葉を聞いてから、静かに口を開いた。
「失った脚が、そこにあるように感じられたり、痛んだりすることがあります」
「違います」
スザナはすぐに首を振った。
「感じるんじゃなくて、あるの。だって、今、痛いんですから!」

語気が強くなる。彼女は母親を見た。
「母さん」
夫人の唇が震えた。娘へ伸ばしかけた手を握り締め、顔を伏せた。スザナは伯父へ目を向けた。
伯父は何か言おうと口を開いたが、言葉を出せず、俯いた。団長の目も、彼女から外れた。

「……テリィ?」
袖をつかむ指が強くなった。テリィは彼女を見た。何か言わなければならなかった。

だが、唇を開いても息しか出なかった。耐えられず、その手へ目を落とした。
「本当に……?」
誰に尋ねたのか分からなかった。

彼女はゆっくりと手を動かし、寝具の上から、自分の脚を確かめるように触れた。
スザナの手が止まった。
あるはずのところで、寝具が手の下へ沈んだ。
彼女はその場所を見つめた。指を広げ、もう一度押さえた。それから、寝具の端をつかんだ。

「スザナ」
母親が呼んだが、彼女は聞いていなかった。
上掛けを持ち上げ、その下を覗く。包帯に覆われた脚は、途中で終わっていた。
スザナは息を吸ったまま、止まった。
「……うそよ」
かすかな声だった。寝具を持つ手が震え始めた。
「こんなの、うそよ……」

母親が手を伸ばした瞬間、スザナは上掛けを払いのけた。
「いやああっ――!」
悲鳴が病室に響いた。テリィは立ち上がった。椅子が背後で倒れたが、その音さえ遠くに聞こえた。

「いや! いやよ! こんなの……!」
スザナは身体を起こし、脚へ手を伸ばした。看護婦がその手を支え、母親が肩を抱いた。
「触らないで、スザナ。傷があるから」
「離して!」
母親の腕を振りほどこうとした。
「うそよ、そんなことない! 先生、うそなんでしょう!?」

医師へ顔を向ける。その頬を、涙が次々に流れた。
「間違えたんでしょう? 私じゃないわよね? だって、ここにあるのよ! ここが、痛いのよ!」
自分の脚があった場所を指そうとして、手が宙をさまよった。
「どうして……どうしてないの!」
息を吸い込み、また叫んだ。
「ここは病院でしょう!? 治すところでしょう!? なのに、どうして脚がないの!」

母親の顔が崩れた。
「スザナ……」
「返して!」
スザナは医師へ手を伸ばした。
「私の脚を返して! お願い、先生、元に戻して!」
医師がそばへ寄った。
「スザナさん――」
「嫌よ! こんなの嫌!」

彼女は後ろへ身を引き、母親の腕の中でもがいた。寝具を蹴ろうとしたのか、身体が大きくねじれた。
その途端、鋭い悲鳴が上がった。
「ああっ……!」
傷のある脚が寝具に引かれ、彼女は身体を硬くした。起こしていた上体が崩れ、看護婦が支えた。

「動かないで。今、支えますから」
「痛い……っ、痛い!」
今度は叫びきることもできず、声にならない声が漏れた。

母親の袖をつかみ、全身を震わせる。
「母さん、痛い……!」
「ええ、ええ……ここにいるわ」
夫人は娘を抱きながら、医師を見た。
「先生、痛みを……早く、何とかしてください!」

医師が看護婦へ指示を出した。ス

ザナは母親へ顔を押しつけたまま、首を振り続けた。
「いや……いやよ……」
夫人の肩をつかむ指に、力がこもった。
「母さん、どうして……どうしてなの……」

夫人は答えられなかった。娘の背へ手を添え、ただ一緒に泣いていた。
伯父がベッドへ近づいた。妹の肩へ手を置こうとして、その手を止めた。二人を前に立ち尽くし、顔を覆った。 


テリィはベッドの脇から動けなかった。手を差し出すことができなかった。看護婦と母親がスザナを支え、医師が処置をする。そのすぐそばにいながら、自分だけが何もしていなかった。

スザナが顔を上げた。涙に濡れた目が、彼を捉えた。
「テリィ……」
彼は一歩近づいた。
「……スザナ」
「私、もう……」
言葉が続かなかった。彼女は息を詰まらせ、もう一度、寝具の下へ目を向けた。
「歩けないの……?」
テリィの唇が震えた。
「舞台は……私のジュリエットは、どうなるの……?」

何か答えようとした。けれど、彼女の脚を見た瞬間、言おうとしていた言葉がすべて嘘に思えた。
背後にいる団長も、黙っていた。今はスザナの問いに一言も答えられずにいた。

「……どうして、誰も何も言わないの」
スザナの声が震えた。
「ねえ……」
テリィは握り締めた手を開いた。
「俺……」
その声を聞くと、彼女は顔を歪めた。
「見ないで」

テリィの手が止まった。スザナは母親へ縋り、必死に寝具を引き上げようとした。
「見ないで……お願い、見ないで!」
看護婦がそっと上掛けを戻した。
「テリュースさん、少し外へ」
言われても、すぐには足が動かなかった。

スザナは母親の胸元へ顔を隠し、しゃくり上げながら何度も言った。
「嫌よ……こんなの、嫌……」
団長がテリィの腕へ触れた。今度は、その手に促されて歩いた。

*

病室を出ても、スザナの声は聞こえていた。
「母さん……私の脚……」
扉が閉まった。テリィはその前へ立ち尽くした。中から泣き声が漏れ、看護婦の声が重なった。
団長が何か言ったが、聞き取れなかった。

テリィは立っていられず壁へ手をついたが、その場へしゃがみ込んだ。団長が屈み、肩を支えた。
「……俺を」
声を出すと、息がひきつった。
「俺を、助けなければ……」
団長の手に力が入った。けれど、返事はなかった。

扉の向こうで、スザナがまだ泣いた。
テリィは両手で耳を塞ぎかけ、途中で止めた。

その声を、自分が聞かずにいてはいけないと思った。
震える手を膝へ下ろし、扉の前で、彼女の泣き声を聞いていた。