春のニューヨークは、まだ冬の名残をわずかに残しながらも、確かに季節を進めていた。

やわらかな陽射しが街を包み、通りを行き交う人々の足取りもどこか軽い。公園には色とりどりの屋台が並び、フリーマーケットは朝から賑わっていた。

古いレコードや雑貨、手作りの焼き菓子。

どこからともなくコーヒーの香りが漂い、子どもたちの笑い声が風に乗る。

その喧騒の中に、ひときわ明るく弾む声があった。


「こちら、まだありますよ!温かいうちにどうぞ」

キャンディだった。

白いエプロンの上に赤十字の印。手際よくカップを並べながら、訪れる人に笑顔で声をかけている。頬はほんのり赤く、忙しさの中でもその表情はどこか楽しげだった。

結婚してもうすぐ一年。

ペントハウスでの穏やかな暮らしの中にあっても、彼女は変わらず“誰かのために動く場所”を持っていた。

「ありがとう、ミス」

「いいえ、どういたしまして」

そのやりとり一つひとつが、彼女らしかった。

人に囲まれていても、決して埋もれない。

そこにいるだけで、空気が少しだけ明るくなる。

――その声が、ふと風に乗って届いた。

「……ん?」

ケビンが足を止める。

三人は劇団へ戻る途中だった。コーヒーショップで短い休憩を終え、公園の横を通り抜けようとしていたところだった。

「今の声……」

ケビンは少し身を乗り出すようにして、公園の中を覗き込む。

「あれ、キャンディさんじゃない?」

その言葉に、マイケルも視線を向ける。

「本当だ」

そして、最後にテリィが目を上げた。一瞬だけ、時間が緩やかになる。

人混みの向こう。色とりどりの屋台の間。

そこに、見慣れた姿があった。

白いエプロン。忙しそうに動く手。笑いながら誰かに何かを手渡している。

その横顔。テリィの足が、わずかに止まる。

「おい、テリィ」

ケビンが軽く肘でつつく。

「声かけてやれよ」

テリィは、すぐには動かず、ただ、黙って見ていた。

キャンディは気づいていない。目の前の人に向き合い、次の人に声をかけ、また笑う。

その姿は、誰のものでもない彼女自身だった。

テリィの表情が、ゆっくりとやわらいでいく。

目を細める。ほんのわずかに、息をつく。

それは満足にも似ていて、どこか遠くから見守るようでもあった。

「いや……いい」

小さく、そう言った。ケビンが「え?」と振り向く。

「いいのか?」

「ああ」

テリィは視線を外さないまま答える。

「彼女は、仕事中だ」

その言葉に、茶化す余地はなかった。

ただ事実を言っているだけの、静かな声。

そして。わずかに口元が緩む。

触れずに大切にするような、そんな微笑みだった。


マイケルはその横顔を見て、何も言わずに視線を戻す。

ケビンも同じだった。

「……そっか」

それ以上、何も言わない。からかうことも、冷やかすこともしなかった。

あの表情は、ふざけていいものではないと、二人ともわかってしまったからだ。

テリィはもう一度だけ、公園の方を見る。

キャンディは相変わらず忙しそうに動き回っている。

笑って、呼ばれて、振り向いて、また笑う。

その姿をほんの一瞬、目に焼きつけるように見て――。

「行くぞ」

静かに言って、背を向けた。

三人は再び歩き出す。公園のざわめきは、少しずつ遠ざかっていく。

春の光の中に、キャンディの声がまだ残っている。

ケビンとマイケルは無言のまま、テリィの後ろを歩いた。

足音だけが、規則的に続く。

けれど、その間には確かな空気が流れていた。


――あんな顔をするんだな。

二人は口には出さなかったが、同じことを思っていた。

舞台の上でも、楽屋でも見たことのない表情。

ただ一人の男として、誰かを見ている顔だった。

春の風が、通りを抜けていく。

テリィはもう振り返らなかった。

けれどその歩みは、どこか穏やかだった。