アレックス劇団『ハムレット』千穐楽の夜。
劇場の前には、惜しみない拍手と歓声がいつまでも残っていた。
テリィは汗の冷めぬまま、黒いコートの襟を立てて裏口から出た。
冬の夜気が火照った体に心地よい。
ケビンとアレックスは、まだ楽屋でスタッフと抱き合い、別れを惜しんでいた。
テリィだけが先に外へ出て、しばし静かな空気を吸い込んだ、その時だった。
「テリュース・グレアム様でいらっしゃいますね?」
霧の中から一人の紳士が歩み寄ってきた。
深い緑色の外套、白手袋、そして胸には小さな紋章が光る。
“SMTの人間だ”と一目でわかった。
「はい、そうですが……?」
紳士は胸に手を当て、深く一礼した。
「シェイクスピア・メモリアル・シアターからの正式な使者として参りました。ロンドンでのご活躍、ストラトフォードにも轟いております。本日をもって、グレアム様へ――」
短い間。
まるで言葉に重みを乗せるように、使者は静かに告げた。
「来年度シーズンより、SMTへの正式なご参加を招待いたします」
テリィは思わず息を止めた。
観客の笑い声が遠くでこだまし、ロンドンのガス灯が淡く揺れている。
「……私を? ストラトフォードで?」
「はい。SMT監督ローレンスが自らの名で、“今代最も鋭く、美しいハムレットだった”と評価しております。」
使者は封蝋されたクリーム色の手紙を差し出した。
「詳細は文書にございます。ご返答は急ぎません。ただ、ストラトフォードはあなたを歓迎する準備を進めております」
そして礼をして、霧の中へと消えた。
残されたテリィは、しばらくその手紙を見つめていた。
胸の奥で、まるで劇の幕がまた一枚上がるような音がした。
年末。ロンドンから汽車に揺られて二時間余り。
テリィはストラトフォード・アポン・エイヴォンの駅に降り立った。
真冬の冷たい風。
エイヴォン川の匂い。
町は静かに眠るようで、どこか懐かしささえ感じられた。
SMTの案内人が迎え、テリィは歴史あるシアターの重厚な扉をくぐった。
ロビ—には無数の肖像画。
過去の“主演俳優”が並び、その先にローレンス監督が立っていた。
「よく来られた、グレアム君」
白髪混じりの監督は、テリィを見てわずかに目を細めた。
「ロンドンでの舞台、拝見したよ。君は……英国の舞台を揺さぶった。若く、鋭く、それでいて深い。
我々の劇団が必要としているのは、まさにその魂だ」
テリィは静かに息を吸った。
「光栄です。ただ……私には共に働きたい仲間がいます」
ローレンスは微笑んだ。
「ケビン・マクグラス君のことだね。私は彼も評価しているよ。もちろん、二人を引き離すつもりはない。むしろ、同じ舞台に立つ姿を望んでいる」
胸の奥で、何かがほどけていく。
ロンドンで積み重ねた日々。
アレックス劇団での挑戦。
シェイクスピアの街での熱狂。
すべてが、ここへ繋がっていた。
ローレンスは軽く両手を広げた。
「検討してくれ。ストラトフォードの舞台は今も開かれている。君のための席もな」
テリィはゆっくりと頷いた。
「前向きに考えます」
監督は満足げに微笑む。
「期待しているよ。テリュース・グレアム、君がここに立つ日を」
窓の外に流れる田園風景を眺めながら、テリィは指先でシートの縫い目をなぞっていた。
ロンドン版『ハムレット』が生んだ熱狂。
SMTが差し伸べた手。
そして、自分の中で静かに芽吹いた未来への予感。
汽車の揺れが心地よいリズムになった頃、テリィはふっと笑みを漏らした。
「……まだ、旅は続くってわけか」
ロンドンに近づくにつれ、胸の奥で暖かな高揚が広がっていった。
新たな幕が開く……そんな確信とともに。