【J】Jupiter(遠くで光る星のように)
ニューヨークの秋は、夏の熱を少しずつ手放しながら、静かに夜を長くしていく。
窓を開ければ、遠くからクラクションの音が微かに届く。けれど高層階にあるこのペントハウスまで来るころには、それもどこか別世界の響きのようにやわらいでいた。
結婚して、まだ二ヶ月と少し。部屋には、キャンディのものが少しずつ増えていた。洗面台に並ぶもう一つの歯ブラシ、ソファへ置かれた薄いカーディガン。どれも小さな変化なのに、それを見るたびに、テリィは不思議な感覚になる。
バルコニーでは、テリィが欄干へ腕を乗せたまま夜空を見上げていた。秋の空気は少し冷たい。だが、その冷たさが心地いい。背後でガラス戸が静かに開く音がした。振り返らなくてもわかる。
「こんなところにいたのね」
キャンディの声。やわらかな足音が近づき、隣へ並ぶ。キャンディは少し笑う。
「月でも見てるの?」
「いや」
テリィは空を見上げたまま言った。
「木星を見てた」
「木星?」
キャンディも同じように夜空を見上げる。無数の星の中で、ひとつだけ静かに強く光る星があった。
「どれが木星?」
「あそこ。南の少し高いところ」
テリィが指をさす。キャンディは目を細めた。
「ああ……あれかしら?」
「そう」
しばらく見つめてから、キャンディが小さく首を傾げる。
「でも、どうして木星なの?」
その問いに、テリィは少しだけ笑った。
「月もいいけど、月って近すぎるんだよ」
「近すぎる?」
「ああ」
欄干へ腕を乗せたまま、静かな声で続ける。
「月ってのは、人間が勝手に意味を重ねるだろ。寂しいとか、綺麗だとか、恋しいとか」
「……うん」
「でも木星は違うんだ」
夜空に浮かぶその星を見つめる。
「あれは、ただそこにある、という感じ」
静かな声だった。
「寂しいとか、恋しいとか、そういうことはなく……でも月と同じようにずっと空にいる」
キャンディは黙って聞きながら、テリィの横顔を見上げた。その横顔は、どこか遠い時間を見ているようだった。そっと彼の袖を掴む。
結婚してまだ二ヶ月。こうして並んでいても、ときどき彼がふいに遠くへ行ってしまいそうに見える瞬間がある。するとテリィは、その小さな手の感触に気づいたように視線を落とした。
「ん?どうした?」
「ううん」
キャンディは少し笑う。
「そうね……なんだか、木星ってテリィみたい」
キャンディがそう言うと、テリィは少し目を丸くした。
「……比較対象がでかすぎるだろ」
「なんとなくそう感じたの」
キャンディは空を見上げながら笑う。
「静かに見てる感じ。テリィって、あんまり騒がないのに、ちゃんとそこにいるっていうか」
テリィはしばらく何も言わなかった。それから、ふっと小さく笑う。
「だったら、きみは太陽だな」
「え?」
今度はキャンディが目を丸くする。テリィは欄干へ腕を乗せたまま、夜景の向こうを見ていた。
「いつも明るくて、周りを照らしてる。診療所でも、村でも……きみがいるだけで安心する人間がいる」
キャンディは、少し照れたように笑った。
「そんな大げさよ」
「大げさじゃないさ」
テリィはさらりと言う。
「きみ、自分で思ってる以上に人を照らしてるからな」
そのあと、ほんの小さな声で付け加える。
「……俺には、眩しいくらいだ」
風に紛れるほどの声。キャンディには届いていない。
「え? なに?」
「いや、別に」
テリィは照れ臭くてそっぽを向く。キャンディは少し不思議そうにしながらも、すぐにまた楽しそうに笑った。
夜風がやわらかく吹き抜ける。ニューヨークの夜景の向こうで、木星は静かに光っている。
その下で、結婚してまだ二ヶ月ほどの新しい夫婦は、肩を寄せ合いながら、まるで子どものように星の話を続けていた。
「じゃあ、アルバートさんが惑星なら?」
「アルバートさん?」
テリィは少し考える。
「……土星かな」
「土星?どうして?」
「あの人、穏やかに見えて、周りにものすごい重力持ってるだろ」
キャンディが吹き出す。
「ああ、なんかわかるかも」
「気づくと、みんなあの人の周りに集まってる」
「ふふっ、そうね」
「しかも本人は無自覚だ」
キャンディは肩を震わせながら笑った。
「じゃあアーチーは?」
「アーチーか……」
テリィは夜空を見上げたまま少し考える。
「火星かな」
「えっ、なんで?」
「妙に負けず嫌いだろ」
「ふふっ。それは否定できないわね」
「そして、熱い男だ」
テリィが言うと、キャンディはとうとう声を立てて笑った。
「もう、ちゃんと見てるのね」
「彼は特にわかりやすい」
その言葉に、キャンディはまたくすくす笑う。その笑い声を聞きながら、テリィはふっと目を細める。そして自然に、彼女の肩を引き寄せた。
キャンディは驚いたように彼を見上げる。まだ、こういう距離に少しだけ照れてしまう。結婚して、毎日一緒にいるのに。それでも、触れられるたびに胸が少し熱くなる。テリィはそんな彼女を見て、わずかに笑った。
夜空の高い場所で、木星は静かに輝いている。
遠く、揺るがず、まるでずっと前からそこにあったように。