このブログは一応、音楽というジャンルに区別されているのですが、
今まで一個も音楽に関する記事を書いていなかったので、
今回は音楽の話を書きます。
私は今まで結構意図的に、様々な音楽を聴いてきたり、感じてきたつもりでしたが、
それでも全然、音楽については知らないというレベルなのです。
そもそも自分は音楽について全く向いていないのでは無いかとすら、
最近思うようになりました。
音楽の基礎且つ、構成する要素として重要なものが最小限から最大限詰まっているのは、
クラシック音楽であると思います。
J.Sバッハの音楽や楽譜の音列は、もはや芸術的としか思えないもので、
合理的且つ効率的に、最初から洗練されているかのような完成度でもって、
そのインターバルラインを示してくれています。
こういった素晴らしき古典を演奏という行動で再現するにあたっては、
楽譜を読む力、解釈、演奏能力や運動能力、その場に対応する即興力、
音楽に対する幅広い知識と経験、技術、能力が要求されます。
その古典を演奏する、という目的の為に、全ての時間をそれに費やして、
狭小的に詰め込み、(まるで日本教育の受験勉強のように)
それはある程度完成したとしても、演奏者は非人間的となってしまいます。
クラシック音楽演奏者にマシーンのような人が多々見受けられてしまうのは、
英才教育という名の拷問的行為によって得られた恩恵になりがちで、
その人が人間として育むべき大切な感覚や瞬間を、失ってしまうことになりかねないのです。
では、そういった非常に難易度の高いプロジェクトを遂行していくにあたって必要なものとは何なのか。
運動で、楽器を演奏するのは間違いありません。
それも、脱力というものを伴った、アスリートのような必要最小限筋肉弛緩運動によって、
入念なリハーサルを何度も繰り返し、本番で間違わずに演奏できれば万万歳です。
これは主にクラシック音楽的なのですが、
ポピュラー音楽の方ではどうでしょうか。
バンド等の形態の場合は、個々の分業によって音楽が形成されていくので、(オケもそうですが)
個人の負担が減ります。
さらに音楽の様相によっては、複雑な技術を必要としないものもあるので、
音を間違えまくっていたとしても、成り立つ音楽もあります。(一概には言えません、が)
人の数だけ、音楽の楽しみ方があり、音楽が存在するのが基本です。
良い、悪いというものは、人それぞれの感性が異なるので変わるのも必然的です。
ですが、同じ食材を使っていても調理方法が異なれば味が変わってしまうのと同じことで、
「良質」な音楽が存在する上で、必要最小限の条件、というものは確かに存在しています。
それが、この世で様々な音楽がある中で、最も不透明な部分です。
「良質」な音楽と書きましたが、大雑把に申し上げますと、
「100人同じ瞬間に聴かせて、100人が感動する」ものと定義します。
つまり命中率100%です。打席に立てば必ずヒットを打ちます。
これを表現するにあたって、必要なものを、
今、ここに書いてみてよいのでしょうか。
というのも、
これらは音楽教室の高等科以上にならないと教えてもらえなかったりする企業秘密のようなものなので、
それも、教えてもらったからといって、すぐに実行は出来ません。
即効的なものとは違って、曖昧で、時間を掛けてゆっくりと熟成していかなければならない性質です。
それがすぐに可能であったら、音楽はもっと変わっているだろうし、
思い立った人みんながプロデビューしてしまいます。
ましてや、わけの分からない私のような文章を読んでいる人が、
私の話を信じてくれるでしょうか。
この文章を読む機会を得た人に貴重な時間を遣わせてしまい申し訳ないと思うので、
私の知り得る限りで、音楽について書いていこうと思います。
本質的なことです。至ってものすごくシンプルなものです。
1回聴いただけで、すっと覚えられてしまう様な感覚は、人の耳に残ります。
それはやがて、また繰り返して聴きたい、という欲望を産みます。
それに応えてあげることで、人に幸せを与えます。
その人は幸せになり、もっと幸せになろうと思うので、その音楽を聴き続けていきます。
やがて、その音楽がその人にとって大切なものになったりするかもしれません。
極めて音楽的に、格好良く、美しく、音をつなげていく行為は、
音楽を行っていく上では非常に有利です。
演奏者の雰囲気やルックス等はあるに越したことはありませんが、プラスアルファ的な要素です。
人が何を求めているか、それをリサーチして応えてあげるのも有効です。
これは誤解されて欲しくはないのですが、
別に聴く人に媚びる事では無いのです。
人は絶対本能的に、良いものを求めている傾向があります。
あとはそれに応えてあげられるように、毎日の修業の日々です。
思えば私の作風は、極めてシンプルなものです。
とてもシンプルなメロディーを、繰り返して繋げていく曲が多いような気がします。
巷で溢れている音楽を注意深く聴いてみると、一つの曲に対してモチーフは一つかそれくらいしか無いと思います。
それが、我々の耳を惹き付けて、生活の一部となっていくのです。
楽器を演奏するのは非常に難しいです。
ただ、音を出すものとは違います。
少なくとも演奏しなければ、人は聴く耳を持ってくれませんよね。
それに対して必要なのは、
音楽知識、演奏能力、音楽力、などなど。
良い音楽とは何か、を常に志す心をもつこと。
それが間違ったベクトルにいたとしても、それを修正できる指導者に巡り合える環境。
上達発展途上のお互いを切磋琢磨刺激しあう仲間(ライバル)がいる環境。
私も、本当にまだまだ全然です。
昨日よりは今日、ほんの少しでも、上達が感じられるような日々を送っていたいです。
いつしか、何処かで私と巡り合えた時は宜しくお願い致します。
人が、そこにいることで、有意義だったり。
必要とされているのが感じていたり。
そこまではさすがに求めてはいけないのかもしれないけれど。
自分から、歩み寄らなければ、近づいていかなければならないのかもしれない。
人付き合いは、上手いに越したことは無いのだ。
でも、
私の居場所が無いと感じる。
それは自虐的な被害妄想やナルシズム、偏屈な自己愛の防衛本能によって、
自分の居場所を安定させることに対して恐怖を抱かせているものとは、
散々考えた結果、意は違う気がした。
私は、この世界に対しての希望や、居場所などが何処にも見当たらないままで、
かけがえない、有触れた幸せに満たされている時は、その状態をあえて遠ざけようとし、
逆に、今まで失うことに対して何の不安も抱かなかったものが突然無くなってしまうと、
ほんの少しでも、小さな幸せを得ようとし、
こんなちっぽけな暮らしの中で満足している、またはさせようとしている自分自身を、
謙虚で美しい存在だと、自覚させていくのである。
何て、身勝手でわがままな人間なのだろうか。
こんなんだから、みんな離れていってしまう。
私には、友達がいないような気がしてしまって仕方がなく。
本当に話せる人は僅か、でもそれはとっても希少で恵まれたこと。
私はいつしか他人に気を遣い過ぎて居てしまって、他人の顔色ばかり伺うように。
自分の100%に近い自然体で話せる人が欲しい様な気がしている。
それが都合の良い、毎日少しだけでも、色々な話を出来るだけで、
私は生きている喜びを実感できる。
でも、それが叶わないから、私は他人にそれを求めてはいけないと悟った。
だから、自分との対話をする。
自分とだったら、24時間、いつだって、話せるから。
私は黙っていよう。
別に、話すことが分からない訳では無いのだ、
ただ、話すことがつまらないことに思えてしまうのだ。
酩酊状態においては、脳の痛覚神経が麻痺し、痛みを感じないという。
身体の痛みと、心の痛みの違い。
身体の痛みとは、身体に対してこれ以上負荷が掛からないようにする為に与えている警告。
その痛みについて、真剣に考えることは割合的に少ない。
身体の大怪我をあまりしたことないせいかも。
心の痛みは、常に存在していて、
ある程度のものなら、時間が経てば完全に治ってしまう身体の治癒能力とは違っていて、
脳の中のメモリーに、消去したくても出来ないような、奥のところにずっと残っていて、
完全に無くなることは叶わない。
ピーク時には、心のペインの伝染が、日常生活に影響を及ぼすので、
非道徳的行為や不健康状態に近づいていき、
自殺願望や家出衝動に駆られてしまう。
思い出そうとできるのは、楽しい時、眩しい時。
反芻するのは、悲しい時、何も持っていない時。
私は、遠回りした。
早朝の、川沿いの道を歩く。
桜は完全に散ってしまっていて、道の所々にはゴミが散乱している。
夜に歩いていると、暗くて気付かないものだったり、どうでも良いものが、
朝になるとやけに目立ってきてしまう。
そして、また同じことを繰り返し続けていく。
意識は保っている。ただ、眠気だけが迫っていた。
誰かと話している時は、気が紛れているのに、
自分と話している時は、禍々しさや愚かさに戦慄する。
そして、今宵も後悔の嵐。
毎日毎日、悩み続けていくうちに、やがてどこへ辿り着くのか。
終わりの無いように思える道を歩き続けていく内に、方向を間違ってしまったのだろうか。
朝は、嫌いじゃない。
身体の痛みと、心の痛みの違い。
身体の痛みとは、身体に対してこれ以上負荷が掛からないようにする為に与えている警告。
その痛みについて、真剣に考えることは割合的に少ない。
身体の大怪我をあまりしたことないせいかも。
心の痛みは、常に存在していて、
ある程度のものなら、時間が経てば完全に治ってしまう身体の治癒能力とは違っていて、
脳の中のメモリーに、消去したくても出来ないような、奥のところにずっと残っていて、
完全に無くなることは叶わない。
ピーク時には、心のペインの伝染が、日常生活に影響を及ぼすので、
非道徳的行為や不健康状態に近づいていき、
自殺願望や家出衝動に駆られてしまう。
思い出そうとできるのは、楽しい時、眩しい時。
反芻するのは、悲しい時、何も持っていない時。
私は、遠回りした。
早朝の、川沿いの道を歩く。
桜は完全に散ってしまっていて、道の所々にはゴミが散乱している。
夜に歩いていると、暗くて気付かないものだったり、どうでも良いものが、
朝になるとやけに目立ってきてしまう。
そして、また同じことを繰り返し続けていく。
意識は保っている。ただ、眠気だけが迫っていた。
誰かと話している時は、気が紛れているのに、
自分と話している時は、禍々しさや愚かさに戦慄する。
そして、今宵も後悔の嵐。
毎日毎日、悩み続けていくうちに、やがてどこへ辿り着くのか。
終わりの無いように思える道を歩き続けていく内に、方向を間違ってしまったのだろうか。
朝は、嫌いじゃない。