『グラディエーター』 | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『グラディエーター』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

2000年/アメリカ映画/155分
監督:リドリー・スコット
出演:ラッセル・クロウ/ホアキン・フェニックス/コニー・ニールセン

D.B.G.生涯の映画ベスト10
第11位:『グラディエーター』


[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界男優賞:ホアキン・フェニックス


やりすぎ限界男優賞:ラッセル・クロウ


■第3稿 2018年 5月11日 版

[「君主となる四徳」僕自身の解釈]



軍隊や会社、スポーツの団体競技でも、組織が一つの目標に向かって何かをやり遂げるにはチームワークが必要だ。「人を使う」「人に仕事をさせる」ためのリーダーに必要なのは「部下に信頼される人間」であること。何においてもある知識や技術を人に教えるためには、教える人間が当然その知識と技術を身につけてなければならない。「ダメな人間の真似をしたら自分もダメな人間になる」ように、できない人間の真似をしても人間はできるようにならない。



組織でのリーダーが「当然その知識と技術を身につけてなければならないこと」を、僕は「嘘を吐かないこと」と表現する。「自分が言ったことが本当にできる姿」を部下に見せられるかどうかが、人にものを教える人間、人の上に立つ人間が信頼される条件だ。マキシマス(ラッセル・クロウ)がアウレリウス皇帝にローマの全権を委ねられたのは「君主となる四徳」= “知恵” “正義” “忍耐” “自制心” の全部を持つ人間だったからだ。



「君主となる四徳」とは、「人に殺されない」「人に恨まれない」「人に信頼される」「人に尊敬される」ための「知識」の “知恵”、「他人のことを考える人間」である “正義”、「欠点を克服し続ける」「犠牲心の行動を貫く」 “忍耐”、「目的を最期まであきらめず成し遂げる精神力」「感情を抑えて冷静になれる精神力」の “自制心”、と考えてる。マキシマスは全部を克服した人間だった。あまりに壮絶で、僕にはこれが正しいことだと目標にしかできない。だが努力はしたいと思ってる。

[「自分の欠点を克服すること」]



東大に合格すること。オリンピックで金メダルを獲ること。全て「今までできなかったことができるようになること」=「欠点を克服すること」の意味の具体だ。僕は東大にも入れないし金メダルも獲れない。マキシマスのような無敵の強さもない。これらの例は人間世界での最も極限の克服に位置する。また「自分さえ良ければいいと考えないこと」こそ、人間社会では極限の克服かもしれない。



ここまで到達することは世の99.9999……%の人間が無理だ。だがここまで究極でなくても、実際に一つでも多く100個、1000個と「自分の欠点を克服すること」を積み上げてけば、自分の中に人から信頼される要素を増やすことは確実に可能だ。マキシマスは10000個ぐらい克服したかもしれない。殆どの人間に真似できない偉業だ。だからマキシマスは数千人の部下とアウレリウス皇帝に信頼された。

[「自分さえ良ければいい」]



父親を殺したコモドゥス(ホアキン・フェニックス)の残虐さは壮絶極まる。「自分だけの幸福」「自分だけの得」=「自分さえ良ければいい」という “野心”、「ずるして楽することの知恵」を “機略の才”、「はったりの虚勢」を “勇気” と勘違いし、「肉親、家族にだけ “献身” すること」が人間の優しさ、正義だと信じてる。視点を変えれば「家族、恋人、友達だけに優しくする」という行動が、優しさでなく「自分さえ良ければいい」行動にしかならない例をコモドゥスが証明した。コモドゥスの全ての行動には「自分さえ良ければいい」という思想が一貫してる。



「他人のことを考える人間」に犯罪はできない。「自分さえ良ければいい」と考えなければ犯罪は実行できない。「自分さえ良ければいい」という要素は多かれ少なかれ全ての人間の中にある。当然僕にもある。社会の秩序を保つため、人間関係を保つため、自分の中の「自分さえ良ければいい」要素をどこまで「抑制」できるかが「正義」なのかもしれない。極限まで「解放」したのがコモドゥス、極限まで「抑制」したのがマキシマスだろう。

[「人間は正しいことをすると殺される」]



人間には「楽して得したい」本能がある。「人間は正しいことをすると殺される」理由の核心だ。コモドゥスとは、「ここまでできなければ信頼されない現実」を知り、努力するのを投げ出した人間だ。



「ここまで努力しなければ信頼されない現実」の存在は、「楽して得したい人間」にとってこれほど迷惑で邪魔なものはない。「ここまで努力しなければ信頼されない現実」が死ねば、「ここまで努力しなければ信頼されない現実」と自分が比較されなくなる。だから「人間は正しいことをすると殺される」可能性が高くなる。それでも「正しく生きる」ことができるのか? 自分がどう生きるかを人間は問われるのだと思う。

[「正義に挑む覚悟」]



最期まで生き残ったのはクイントゥスだ。マキシマスもコモドゥスも死んだ。「人に殺されない」 ための “知恵” のはず、殺されたら結果はバカじゃないのか? マキシマスの死が「バカ」か「利口」かの判断は観客に委ねられる。だがマキシマスの死はルシアスの命を救い、ローマに共和制を復活させた。これが仮に史実であれば、マキシマスの名は英雄として永遠に歴史に刻まれるだろう。



正しいことをした人間の結末は、本当に「死」しかないのだろうか? 殺されたマキシマスの勝利に震撼する以外なす術がなかった。正義を貫くには、死を覚悟しなければならないのかもしれない。だが僕は正直に死ぬのが怖い。「正しく生きる」とは何か? 人間は常に対峙しなければならないのだろう。



だがコモドゥスを倒した平和は、「次のコモドゥスが現れるまで」の束の間の平和にすぎない。全ての人間がクイントゥスになって逃げ切ることはできないだろう。マキシマスがいなければ、コモドゥスに殺される時間が少し延びるだけでしかない。「ローマに尽くす覚悟」=「正義に挑む覚悟」を『グラディエーター』は観客に問い掛けてる。




画像 2018年 5月