『そんな彼なら捨てちゃえば?』 | やりすぎ限界映画入門

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ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『そんな彼なら捨てちゃえば?』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

2009年/アメリカ映画/129分
監督:ケン・クワピス
出演:ジニファー・グッドウィン/ジェニファー・コネリー/ジェニファー・アニストン/スカーレット・ヨハンソン/ドリュー・バリモア/ベン・アフレック/ブラッドリー・クーパー/ジャスティン・ロング

2009年 第25回 やりすぎ限界映画祭
2009年 ベスト10 第6位:『そんな彼なら捨てちゃえば?』
やりすぎ限界女優賞/やりすぎ限界監督賞/やりすぎ限界脚本賞:『そんな彼なら捨てちゃえば?』


[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界女優賞:ジェニファー・コネリー


やりすぎ限界女優賞:ジニファー・グッドウィン


やりすぎ限界女優賞:ジェニファー・アニストン


やりすぎ限界女優賞:ドリュー・バリモア


やりすぎ限界女優賞:スカーレット・ヨハンソン


■第4稿 2019年 5月16日 版

[男の「セックスしたい」と女の「子供がほしい」]



ある時僕は、男の「セックスしたい」本能と、女の「子供がほしい」本能が、「同等」「互角」なことに気づいた。男が「セックスしたい」のは女が「子供がほしい」からだ。だが女性が望まないのに、男は「セックスしたい」を強要して犯罪を犯しては絶対いけない。



思春期の頃、セックスのことしか考えられない自分を、何て「ど助平」、何て「やらしい」、「最低の男」と自虐的に考えてたが、女の「子供がほしい」本能と「対」で、男の「セックスしたい」本能があることに気づき、自虐的な考えは消えた。自分を「ど助平」「やらしい」と思わなくなった。男の「ど助平」「やらしい」本能を、今は「普通」「当然」と考えてる。女が男に「何でそんなにセックスしたいんだ?」と思うのが、男が女に「何でそんなに子供がほしいんだ?」と思うのと同じように思えるようになった。「男」「女」が持って生まれた本能でしかないことに気づいた。



自分を「ど助平」「やらしい」と思う自虐的な考えが消えると、僕が「女のことで頭がいっぱい」になるくらい、女も「男のことで頭がいっぱいになる」ことが理解できた。『そんな彼なら捨てちゃえば?』に登場する女性達が「苦悩」「葛藤」する姿に、極限のくそリアリズムがあることを思い知った。

[「アンナ」について「僕の私見」]



「アンナ」(スカーレット・ヨハンソン)が「好み」の男と出逢えないから、「君を想ってる」と言ってくれるコナーと何となくつき合うのは理解できた。「ぼっち」は誰でも苦しい。



だが既婚者ベンとの「不倫」は良くないと思う。「自分が他人にしたことは、いずれ全部自分に返ってくる」。もし「不倫」の「略奪愛」で結婚したとしよう。僕は「略奪愛」での結婚後、「自分も略奪愛される」ように思えてならない。「二度あることは三度ある」。「妻」を裏切って「略奪」される男は、また誰か現れたらあっさり「略奪」されるように思える。「アンナ」について「僕の私見」は、自分が不倫したら不倫されるという、仏様の「裁き」が下る「不安」が僕は消えない。

[「メアリー」について「僕の私見」]



『そんな彼なら捨てちゃえば?』には殆ど「ろくな男」がいない。出逢いのない「メアリー」(ドリュー・バリモア)が、出逢い系サイトで浮気されたのはかわいそうだった。



だが「ろくな男」がいない中コナーは「いい男」に見えた。真面目なコナーと「不倫」できるアンナがつり合わないのは、極限のくそリアリズムに見えた。真面目な人は真面目な人同士、きっと相応しい出逢いがある。「メアリー」について「僕の私見」は、「類は友を呼ぶ」という仏様のお導きがあること。

[「ベス」について「僕の私見」]



「ベス」(ジェニファー・アニストン)と「7年間」もつき合って「結婚しない」ニールは、「絶対」「ろくな男」じゃない。「人間の言葉を絶対簡単に信じてはいけない」。そして「人間の思考は全て行動に現れる」。どんなにニールが「いい男」に見えても、「結婚しない」という「行動」から、「絶対目を背けてはならない」。



「結婚しない」という「行動」の「核心」は「責任から逃げる」こと。ニールは「どんなにうまいことを言って」「やさしくしても」、「法律上の誓約は絶対交わさない」。あらゆる法的な保護を受ける「婚姻届」は「絶対重要」。「もし僕が女だったら」、「絶対信用しない」。「これは私の男だ」と、「法律で絶対逃げられない契約」をするまで、僕なら「絶対信用しない」。



映画では最後結婚したが、「7年間」も、女に「不安」な思いをさせて平気だったことは目に余る。「僕にはできない」。「7年間」も平気でいられた「行動」を「絶対見逃してはならない」。「ベス」について「僕の私見」は、「結婚しない男」など絶対信用できない気持ちに「完全共感」だった。

[「ジャニーン」について「僕の私見」]



「ジャニーン」(ジェニファー・コネリー)が、僕は「5人」の中で一番「好み」だった。僕と「同い年」の恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「ジェニファー・コネリー」を、僕は高校生の頃から崇拝してきた。「ジャニーン」を泣かせたベンを、僕が許せる訳ない。



結婚がうまくいかなくなり、ベンが「浮気しかけた」までは他人事に見えなかった。「セックスさせてもらえない」なら、僕もどうなるか解からないと思った。



「セックスしたかった」のか「セックスしたくなかった」のか、映画では描かれない。真実は見る観客の想像に委ねられるが、「話し合う気はないの? お互い折り合える道を 探して- 乗り越えようとは?」とまで言ってる、ジャニーンの話さえベンが聞かないのは、「絶対納得できない」と思った。アンナがいくら恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” でも、「結婚」するほどの「絆」の「妻」と、これほどあっさり別れる気になれるだろうか?



僕は恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「ジェニファー・コネリー」を「えこ贔屓」するあまり、「冷静」ではないかもしれない。ならば「逆」の場合で想像してみる。もし「妻」がアンナで、「浮気相手」がジャニーンだったら?



やっぱり「ダメ」だろう。恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「スカーレット・ヨハンソン」の「極限の美」は、「ジェニファー・コネリー」に劣るのか? 外見の「好み」じゃないだろう。ものすごい「確率」の出逢いで結ばれた「縁」を軽く考えてはいけない。



「結婚を維持したくない?」と、「捨て身」の「ガーターベルト」で現れたジャニーンに「時間が止まった」。『やりすぎ限界映画』とは?[定義⑤]『恋愛映画における女優の私見』において、「捨て身」の「ガーターベルト」で現れたジャニーンと別れたベンを、僕は絶対許さない。「ジャニーン」について「僕の私見」は、僕なら「絶対復縁」だった。

[「ジジ」について「僕の私見」]



「ジジ」(ジニファー・グッドウィン)が他人に見えなかった。昔の僕にかなり似てる。「かなり同じこと」をしてきた。「ずっと否定され続けた人間」が「男を信用できなくなる」「苦しみ」に「完全共感」した。ジジを見て女の「苦しみ」も男と変わらないと感じた。



だがアレックスの「突然変化」は調子よすぎ。過去に散々してきた酷いことが全部チャラにはならない。突然目覚めたように改心するのも胡散臭い。「20年」そうしてきた人間が本当に変化するのに、僕はもう「20年」掛かると考える。頭が良くて、「その時間」を「10年」に縮められるか、「5年」で変われるか、というのが現実だと思う。人間は突然違う方向に変化できない。自分に置き換えて考えても、ジジは「絶対油断してはいけない」と思った。この映画には本当に「ろくな男」がいない。



アレックスを変えた「あなたより私の方がマシ」の台詞に心撃たれた。「ジジ」について「僕の私見」は、僕自身も同じだったが、「自分が女だったらどんな男を好きになるか?」「自分が男だったらどんな女を好きになるか?」を、どこまで “本気” で考えるか? そして「相手がどんな人間かを冷静に知る」。「解らない」という「不安」を消す努力の積み重ねで、自分に自信が生まれると思った。

[「男」も「女」も苦しい]



「5組」のカップルが「苦悩」「葛藤」するのを見て、「男」も「女」も苦しいことを理解した。




画像 2019年 5月