【今日の1枚】Mauro Pagani/Mauro Pagani(地中海の伝説) | 古今東西プログレレビュー垂れ流し

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Mauro Pagani/Mauro Pagani
マウロ・パガーニ/地中海の伝説
1978年リリース

西洋の音楽と地中海の民族音楽が
結びついたワールドミュージックの傑作

 世界的に成功したイタリアのプログレッシヴロックグループであるP.F.M.(プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ)を脱退した後にリリースした、マウロ・パガーニのソロデビューアルバム。ヴァイオリンやフルート、ギターをはじめ、多彩な楽器を操るパガーニが、中東から北アフリカのアラブ音楽圏で使われる弦楽器であるウードやブズーキ、サズといった楽器を駆使し、地中海民族音楽をベースとした独自のサウンドを構築したアルバムとなっている。未だ「ワールドミュージック」という言葉が出る前の土着の民族音楽に目を向けた画期的な作品であり、今なお元祖ワールドミュージックと讃えられる傑作でもある。

 マウロ・パガーニは1946年2月5日にイタリアのロンバルディア州ブレシアのキアーリで生まれている。10歳でヴァイオリンを習いはじめ、すぐに父親の影響でフルートも習いはじめたことで、ヴァイオリンとフルートの両方をたしなむようになる。1960年代に入ると、ロックやブルースの洗礼を受け、ジョルジョ・コルディーニのグループであるフォルネリア・マルコーニを含む様々なグループに参加したという。ミュージシャンとして活動し始めた1970年にはイタリアのシンガーソングライターであるヴァブリッツィオ・デ・アンドレのアルバム『ラ・ブオナ・ノヴェッラ』のレコーディングに参加。その時にパガーニは、同じくレコーディングに参加していたビート系ロックグループであるイ・クエッリのメンバーと出会い、積極的にアプローチしたと言われている。そのイ・クエッリは1965年にデビューし、シングルでヒットを飛ばしていたグループで、1970年にルーチョ・バッティスティのアルバムレコーディングに参加する際、バッティスティからグループを再編成する事をアドバイスされ、確執のあったギタリストのアルベルト・ラディウスと袂を分かち合ったばかりだったという。マウロ・パガーニはそんな再編時のイ・クエッリの正式なメンバーとなり、パガーニが加わったことでグループ名をP.F.M.(プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ)と変えている。このグループ名はかつてパガーニが初めてミュージシャンとして演奏し始めたジョルジョ・コルディーニのグループであるフォルネリア・マルコーニにちなんで付けられたと言われている。P.F.M.は1972年3月にルーチョ・バッティスティのレーベルであるヌメロ・ウーノから、アルバム『幻想物語』でデビューし、イタリア国内チャートで最高4位まで上昇。さらに同年暮れにはセカンドアルバム『友よ』をリリースし、エマーソン・レイク&パーマーのイタリア公演の前座として出演することになる。これがきっかけとなってグレッグ・レイクの目に留まり、イギリスに招かれて『友よ』をベースとした英語歌詞のアルバム『幻の映像』を制作することになる。P.F.M.のメンバーとなってからパガーニは全曲の歌詞を担当し、英語版の『幻の映像』ではピーター・シンフィールドと共同で歌詞を書いたという。また、パガーニはアルバムでヴァイオリンやフルート、ヴォーカルを担当し、1973年3月にロンドンのABCフラム劇場でイギリス国内での初ステージを実現。さらに8月にはレディングのロックフェスティバルにも出演し、聴衆から高い評価を得ている。そして9月にマンティコア・レーベルからリリースされた『幻の映像』で国際デビューを果たした彼らは、多くのマスコミに注目され、イタリアで最も成功したロックグループとして賞賛されることになる。また、1975年には東京や名古屋、大阪の日本ツアーが実現し、パガーニは日本の批評家によって世界のベスト10人のミュージシャンに選ばれたという。

 1974年にパガーニは翻訳家のアダラウラ・クインクと結婚し、グレッグ・レイクから結婚祝いとしてヴァイオリンを受け取っている。順風満帆と思われたマウロ・パガーニだったが、彼は自らのルーツを探るべく、特にアラブ起源の民族音楽を研究するようになる。世界的に成功したグループの活動と並行して研究活動を行うことは無理な話だったのだろう。1976年のアルバム『チョコレート・キングス』のリリース後にグループからの脱退を表明することになる。脱退したパガーニは2年をかけて学術的な研究を行い、西洋音楽やアフリカ、アラブ、アジアといった地域の民族音楽を奏でたという。レコーディングは曲ごとに異なり、主にデメトリオ・ストラトス(ヴォーカル)をはじめとしたアレアのメンバーやP.F.M.のメンバー、そしてロベルト・コロンボ(モーグ)、パトリツィオ・ファリセッリ(ピアノ)、フランコ・ムシダ(ギター)、アレス・タヴォラッツィ(ベース、コントラバス)、パスクワーレ・ミニエーリ(パーカッション)など、クラシック界やロック界から多くのミュージシャンが参加。マウロ・パガーニ本人はヴァイオリン、フルート、ヴィオラ、マンドリン、ブズーキなどを演奏し、1978年に満を持してデビューソロアルバム『マウロ・パガーニ~地中海の伝説~』をリリースすることになる。そのアルバムは地中海をテーマにそれぞれの場面に適したミュージシャンを配置し、変拍子ともなう高速ジャズナンバーや大地をイメージさせる芳醇な広がりを感じさせた美しい曲、そして鬼気迫るヴァイオリンソロなど、パガーニ自身が持っている手玉を全て出し切った傑作となっている。

★曲目★
01.Europa Minor(ヨーロッパの曙)
02.Argiento(アルジェント)
03.Violer D'Amores(悲しみのヴァイオリン)
04.La Città Aromatica(馨しき街)
05.L'Albero Di Canto~Part 1~(木々は歌う~パート1~)
06.Choron(コロン)
07.Il Blu Comincia Davvero(海の調べ)
08.L'Albero Di Canto~Part 2~(木々は歌う~パート2~)

 アルバムの1曲目の『ヨーロッパの曙』は、地中海の風味を持つクリアなヴァイオリンの演奏で始まり、アレアのメンバーが参加したジャジーなフォークスタイルを持った楽曲。オーボエや手拍子が合間に入り、多彩なパーカッションと勢いのあるヴァイオリンの演奏による民族風のサウンドはインパクト大である。2曲目の『アルジェント』は、パガーニが弾くブズーキをバックに悠々と歌うテレサ・デ・シオのヴォーカルが素晴らしい楽曲。後に雄大なオーボエとヴァイオリンの響きが、美しく広がる地中海を感じてしまう。3曲目の『悲しみのヴァイオリン』は、マウロ・パガーニの卓越したヴァイオリンの演奏が堪能できる楽曲。加工されたヴァイオリンの音色が鮮烈であり、プログレッシヴな側面を持っている。4曲目の『馨しき街』は、P.F.M.のメンバーが演奏に参加した楽曲であり、イタリアの街角を思わせるようなヴァイオリンとエレクトリックギターが美しくハーモナイズしている。5曲目の『木々は歌う~パート1~』は、最初にピアノ、次にヴァイオリン上でデメトリオ・ストラトスの奇妙で独特なヴォーカルスタイルが印象的な楽曲。やがてストラトスの声から緩急を極めたアンサンブル上で鳴り響く超絶なパガーニのヴァイオリンが堪能できる。高速ジャズロックナンバーと言っても過言ではない。6曲目の『コロン』は、パウロ・パガーニの幽玄なフルートソロ。フェードアウトした後、民族的なパーカッションをバックに即興的なヴァイオリンが鳴り響くワールドミュージックとなっている。7曲目の『海の調べ』は、柔らかなブズーキとアコースティックギターによるデュオ。複雑なブズーキのメロディがあり、その後、次第に美しいサウンドが構築されていくのが印象的である。8曲目の『木々は歌う~パート2~』は、パート1の続きになっており、デメトリオ・ストラトスの独特のヴォーカルとヴァイオリンのアンサンブルから始まり、黄昏に近い形でこの数奇な地中海民族音楽を締めている。こうしてアルバムを通して聴いてみると、ヴァイオリンやフルート、オーボエ、アコースティックギターを駆使しているにも関わらず、西洋のクラシカルな演奏に寄せ付けず、一貫して地中海をテーマにした民族音楽に徹しているのが印象深い。ブズーキを巧みに演奏し、彼が探求するアラブやアフリカ、アジアに思いを馳せた音楽は、やがて「ワールドミュージック」とする1つのジャンルを作り上げていくことになる。

 本アルバムは西洋音楽と地中海の民族音楽が見事に融合したサウンドとして高く評価され、後にワールドミュージックの元祖と呼ばれる作品となる。パガーニはアルバムのレコーディング後に、カルナシャリアやカンツォニエーレ・デル・ラツィオのアルバムの参加。1979年には元アレアのパオロ・トファーニやデメトリオ・ストラウスと共に、ライヴアルバム『ロックンロール・エキシビジョン』を作成するも、デメトリオ・ストラトスが白血病で入院してしまい、そのまま帰らぬ人となってしまう。パガーニはデメトリオの追悼コンサートライヴ盤のプロデュースを行うなど貢献している。1981年にはガブリエレ・サルヴァトーレス監督による劇場公演のサウンドトラックとして、2枚目のソロアルバム『夏の夜の夢』を発表。その後はイタリアのシンガーソングライターであるファブリツィオ・デ・アンドレのアルバムの全曲を制作し、さらにドン・ラファエのアルバムにも貢献し、1980年代から1990年代まで作曲家兼プロデューサーとしての地位を固めている。1998年に彼はミラノに「Officine Meccaniche」を設立し、ダニエレ・シルヴェストリやミューズ、フランツ・フェルディナンド、エリサ、マッシモ・ラニエリなど、多くのアーティストを迎えたレコーディングスタジオを運営し、後にレコードレーベルにに昇格。2000年にはサンレモ音楽祭の芸術音楽委員会の一員となり、2001年にはシエナ市街路で開催される夏の音楽祭「シエナ:芳香の街」の主催者として活動を開始している。2003年には未発表曲を集めた3枚目のアルバム『Domani』をリリースし、2007年にはイタリアの音楽家で民族音楽家でもあるアンブロージョ・スパーニャの後任として、毎年8月にメルピニャーノで開催されるサレントの偉大なポピュラー音楽イベント「ノッテ・デッラ・タランタ」のコンサートマスターとして招集されている。パガーニはイタリアにおける様々な音楽祭やイベントをプロデュースし、多くのアーティストとコラボレーションするなど、多岐に渡って活躍をしており、イタリアの音楽界の重鎮となっている。一方、パガーニは音楽家としてだけではなく、2009年に自伝的小説『Foto di gruppo con chitarrista』を出版しており、2022年2月には2冊目となる自伝『Nine Lives and Ten Blues』が発表されている。

 


 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回は地中海音楽をベースに独自の音楽を探求し、ワールドミュージックの元祖とも呼ばれたマウロ・パガーニのソロデビューアルバム『地中海の伝説』を紹介しました。日本におけるP.F.M.は1975年に来日したこともあって人気が高く、その中でもマルチプレイヤーだったマウロ・パガーニの人気はとりわけ大きかったと言われています。そんな絶頂期にあったP.F.Mから脱退して、ソロ活動のスタートを切ったのが本アルバムとなります。彼はグループ在籍時からアラブ起源の民族音楽を研究をしていたらしく、いずれは自分の手で西洋音楽と民族音楽を融合した新たなサウンドを作ろうと考えていたそうです。しかし、世界的な成功を収めたグループの活動と並行して研究することは無理な話で、マウロ・パガーニの脱退は日本でもニュースとして取り上げられるほどだったそうです。一方のP.F.M.はマルチ楽器奏者兼作詞担当が脱退してしまったことで、メンバーチェンジが度々起こり、1977年にリリースした『ジェット・ラグ』を最後に主軸となる歌詞をイタリア語に戻す羽目になっています。そう考えるとP.F.M.におけるマウロ・パガーニの存在は結構大きかったのではないかと言えます。

 さて、そんなマウロ・パガーニが2年をかけて民族音楽の学術的な研究を行い、リリースしたのが本アルバムとなります。アルバムのタイトルは『Mauro Pagani』と自身の名前を表記していますが、実は当初『ランゴバルトとサラセン』という案があったそうです。ランゴバルトとサラセンという言葉は、どちらも古代イタリア地域に勃興していた国家の名前です。彼は自らの音楽のルーツを探るべく、イタリアを中心とした地中海の周辺にあるアラブやアジア、アフリカといった地域の民族音楽に着目するようになります。そもそもパガーニはヴァイオリンやフルートにおいては卓越した演奏技術を持っていますが、そこにギターのルーツとされるギリシャの民族楽器のブズーキを演奏しています。アルバムはほぼ全編にわたってインストゥメンタルになっていますが、多くのミュージシャンが参加しており、楽曲に合わせて巧く配置していることが分かります。1曲目のテクニカルなジャズ的なアプローチから始まり、母なる大地や海を思わせる芳醇な女性のヴォーカル、鬼気迫るヴァイオリンソロやフルートソロを経て、最後はデメトリオ・ストラトスとの共演で締めるという、音楽家としてのマウロ・パガーニの持つ手玉を全て出し切ったアルバムとなっています。というより、パガーニが探求した地中海民族音楽の研究の成果とも言えるかもしれません。

 世界的に成功したP.F.M.から、自らの民族音楽を探求するために脱退して2年の研究をかけてリリースした稀有なアルバムです。ソロデビューにして集大成であり最高傑作と評された元祖ワールドミュージックの神髄をぜひ味わってほしいです。

それではまたっ!