【今日の1枚】Bixo Da Seda/Bixo Da Seda(ビクシオ・ダ・セダ) | 古今東西プログレレビュー垂れ流し

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Bixo Da Seda/Bixo Da Seda
ビクシオ・ダ・セダ/ファースト
1976年リリース

ハモンドオルガンと技巧的な演奏で聴かせた
南米屈指のプログレッシヴロックアルバム

 ザ・ビートルズに強い影響を受けて英国ロックを中心にカヴァーしたリバプール・サウンズが前身のブラジルのプログレッシヴロックグループ、ビクシオ・ダ・セダ(またはビクソ・ダ・セダ)の唯一のアルバム。そのサウンドは英国ロックをベースに抒情的なハモンドオルガンとギターを中心としたメロディアスな作風になっており、オランダのフォーカスやピンク・フロイド、イエスに影響を受けた独創的な構築美を持ったアルバムになっている。後にガウチョ・プログレッシヴロックと呼ばれ、解散した後でもブラジルではカルト的な人気を誇った伝説的なアルバムでもある。

 ビクシオ・ダ・セダは1967年にブラジルのリオグランデ・ド・スル州ポルト・アレグレで結成されたリバプールというグループがルーツとなっている。メンバーはフゲッティ・ルス(ヴォーカル)、ミミ・レッサ(リードギター)、ペコス・パサロ(リズムギター)、ウィルマー・イグナシオ・セアデ・サンタナ(ベース)、エドソン・エスピンドラ(ドラム)の5人編成で、グループ名の通りに地元のクラブでザ・ビートルズに影響された英国ロックを中心にザ・ローリング・ストーンズやザ・フーのカヴァーを演奏していたという。転機となったのはリオ・デ・ジャネイロにある音楽フェスティバル、インターナショナル・ダ・カンサオンの出場権を得るために開催された全国的な音楽祭だろう。地元のポルト・アレグレで行われたブラジレイラ・ポピュラー音楽大学のコンテストに出場した彼らは見事優勝。インターナショナル・ダ・カンサオンの出場権を得た彼らは、これをきっかけにリオ・デ・ジャネイロに移り住むことになる。決勝こそ残れなかったが、地元の小さなレーベルであるエキップと契約を結び、1969年にデビュー・アルバム『Por Favor, Sucesso』をリリースしている。そのアルバムは英国ロックにラテンのエッセンスを加えたサイケデリックなサウンドになっており、ブラジル草創期のロックアルバムとして高く評価されたという。1970年には彼らはザビエル・デ・オリベイラ監督の映画『マルセロ・ゾナ・スル』のサウンドトラックのレコーディングに招待されるなど、グループの知名度は上昇。1971年にレーベルとの契約が満了となったが、リバプール・サウンズという名でポリドールと契約して、ラジオで大ヒットした『ヘイ・メニナ』という曲を収録したシングルをリリースしている。同年、彼らはTV Globoのサウンドエクスポートで特集されるなど活躍を見せていたが、メンバー同士の音楽的な方向性の違いやフゲッティが結婚して海外に移ってしまったのを機にグループは解散している。残ったメンバーは地元のポルト・アレグレに戻り、ペコス・パサロは国中を旅して渡るミュージシャンとなっている。

 2年後の1973年にフゲッティ・ルスを除いたリバプールの元メンバーが集まり、クラウディオ・ベラ・クルス(キーボード)とゼ・ビセンテ・ブリゾラ(ギター)を新たに加えたビクシオ・ダ・セダというグループ名で活動を開始。同じ頃に地元のポルト・アレグレに帰郷し、ヴォーカリストとして複数のグループを渡り歩いていたフゲッティ・ルスを呼び戻している。1975年になると彼らは再びリオ・デ・ジャネイロに移り住み、そこでクラブを中心にギグを行い、その後はサンパウロやベロ・オリゾンテにも足を運んで演奏している。この頃にはザ・ビートルズをはじめ英国ロックのアイコンとなる存在が無くなり、進歩的だったイエスやピンク・フロイド、キング・クリムゾン、オランダのフォーカスといったプログレッシヴロックに影響された音楽を披露していたという。しかし、その過程でペコス・パサロとクラウディオ・ベラ・クルス、ゼ・ビセンテ・ブリゾラがポルト・アレグレに残るためにグループから離脱。ア・ボルハというグループの元メンバーであったキーボード奏者のレナト・ラデイラをはじめ、ベーシストにミミの弟であるマルコス・レッサを加入させている。彼らはリオでコンチネンタルと契約を結び、1976年にデビューアルバムである『ビクシオ・ダ・セダ』をリリースすることになる。そのアルバムはハモンドオルガンとギターを中心とした英国のプログレッシヴロックに影響されたサウンドになっており、何よりも彼らのルーツであるザ・ビートルズやローリング・ストーンズをベースにしたブリティッシュロックらしい抒情的なメロディを湛えた内容になっている。

★曲目★ 
01.Vénus(ヴィーナス)
02.Já Brilhou(瞬く輝き)
03.É Como Teria Que Ser(あるべき姿)
04.Carrocel(キャロセル)
05.Bixo Da Seda(蚕)
06.Sete De Ouro(七つの黄金)
07.Gigante(巨人)
08.Um Abraço Em Brian Jones(ブライアン・ジョーンズからの抱擁)
09.Trem(列車)

 アルバムの1曲目の『ヴィーナス』は、ハモンドオルガンリリカルなギター、そして手数の多いドラミングを中心とした、まさにオランダのフォーカスを意識したようなバラード風の楽曲。オルガンと絡んだヤン・アッカーマン風の情感あふれるギターが素晴らしく、また変拍子を交えたリズムが心地よい彼らの美意識が詰まった内容になっている。2曲目の『瞬く輝き』は、オルガンをバックにしたハーモニーコーラスがいかにも1960年代のブリティッシュロックを意識したような楽曲。彼らのルーツが詰まった内容だが、ミミ・レッサのブルージーなギター、フゲッティ・ルスのフルートなどがあり、全体的に抒情性あふれるサウンドになっている。3曲目の『あるべき姿』は、リズムにラテン的なパーカッションを加えた1970年代初頭の英国にあるようなハードロック風の楽曲。ここでもミミ・レッサの伸びやかでテクニカルなギターが披露されている。4曲目の『キャロセル』は、ハモンドオルガンとギターによるリズミカルな楽曲になっており、意外にもキャッチーなメロディにあふれた内容になっている。ここでは変拍子を交えたリズムセクションが好印象的である。5曲目の『蚕』はそのまま自分たちグループを讃えた楽曲。ハーモニカを加えた懐古的なロックンロールとなっており、彼らのルーツである英国ロックを意識した楽曲となっている。6曲目の『七つの黄金』は、変拍子の多いリズムセクションにテクニカルなギターやオルガンを中心に展開されるシンフォニックロック。浮遊感のある楽曲になっており、手数の多いドラミングと饒舌なギターが耳に残る逸品になっている。7曲目の『巨人』は、キーボードが中心となったオルガンロックになっており、ハードな展開から緩急のあるバラード風に変貌する楽曲。中盤には1分を越えるドラムソロがあり、初期のイエスを彷彿とする構築性のあるサウンドが聴きどころである。8曲目の『ブライアン・ジョーンズからの抱擁』は、元ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズに敬意を表した楽曲。彼らが憧れていたローリング・ストーンズに近づきたかった思いを歌詞に載せている。9曲目の『列車』は、典型的なブリティッシュロックになっており、ミミ・レッサとレナト・ラディラのツインギターが映えた軽快な楽曲である。こうしてアルバムを通して聴いてみると、彼らのルーツであるザ・ビートルズやローリング・ストーンズ、ザ・フーといったグループのサウンドに、ハモンドオルガンやラテンのリズムを乗せたプログレッシヴなエッセンスを加味したアルバムになっていると思える。メンバーの演奏の力量は申し分なく、特筆すべきはブラジルの最高峰のギタリストとなるミミ・レッサのギターだろう。変拍子を交えたリズムセクションに抒情的なギター、そして聴きやすいメロディがあったからこそ、この作品がブラジルの国民的なロックアルバムとなった大きな要因となっている。

 アルバムは天才ギタリストと言われたミミ・レッサをはじめとしたミュージシャンの質だけではなく、当時としてロックグループにしては凝ったハーモニー、変拍子を交えたリズミカルなビートが全曲に見られたことで、ブラジルで高い人気を博することになる。その後、人気ディスコグループであるフレネチカのバックバンドを務めている。彼らは全国各地で公演を行うなど精力的にステージに立ったが、すでにディスコブームに押されて自分たちの音楽を披露する場が少なくなり、また、1973年から続くオイル・ショックにより先進国からの外国資本の流入が止まるという貧困化に陥り、文化的な活動が制限されたことによって、1980年に解散を余儀なくされる。ギタリストのミミ・レッサはその後、弟のマルコムと共にセッションミュージシャンだけではなく、ブラジルの作曲編曲を行うアーティストとなっている。また、ミミは後にInvalid Artistというロックグループのメンバーとなっている。ヴォーカルのフゲッティ・ルスは複数のグループのヴォーカリストを経たあと病気のために音楽活動から離脱している。キーボーディストのレナト・ラディラはシンガーソングライターに転身し、音楽プロデューサーとしても活躍している。しばらくグループはバラバラで活動をしていたが、1984年から1985年頃にイパネマFMとポルト・アレグレのロックラジオの登場によって、いわゆるガウチョロックのブームが起こり、一時的にビクシオ・ダ・セダが再結成している。メンバーはその後も何度か集まってはライヴを行っていたが、病気のフゲッティ・ルスの代わりにヴォーカルにマルセロ・ギマランイスが参加していたという。1980年代にはアルバムが何度もプレスされて、ビクシオ・ダ・セダのデビューアルバムはブラジルの国民的なロックグループに登りつめたという。しかし、再結成後もライヴを中心に活動していたため、新規のアルバム制作はついに無く、これは病気だったヴォーカリストのフゲッティ・ルスに配慮したためだと言われている。そのフゲッティ・ルスは長い病気と闘っていたが、2023年4月14日に76歳で亡くなっている。また、キーボード奏者のレナト・ラデイラも2015年8月12日、心肺停止のためリオの地で亡くなっている。たった1枚のアルバムを残したビクシオ・ダ・セダだが、ブラジルのロックの歴史の中でその地位を確実なものにしたグループとして現在でも多くの人に記憶されている。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回はブラジルの中でも英国的なセンスを散りばめたプログレッシヴロックグループ、ビクシオ・ダ・セダ(またはビクソ・ダ・セダ)のデビューアルバムを紹介しました。たった1枚のアルバムを残したグループですが、ブラジルのロック界では彼らの影響は大きく、国内に英国をはじめとするヨーロッパのロックを広めた最初期のグループとして認知されています。リバプール・サウンズと名乗っていた頃は、ザ・ビートルズをはじめとする英国のロックがブラジルでも人気が高かったらしく、それを下支えしていたのが彼らだったというわけです。彼らがデビューした当時は、一時的に陸海空三軍司令官による軍政が敷かれた後、エミリオ・ガラスタズ・メディシ将軍が大統領に就任したことで政治が不安定となり、1973年にオイルショックで貧困化による文化の停滞によってロックそのものが低迷していた時期でした。彼らはスペイン人やドイツ人、イタリア人の移民が多かったブラジルにおいて、異なる文化の中で英語歌詞のロックを広め、サンバやフォークが主流だった伝統的な音楽からいち早く抜け出しているのが面白いです。彼らの音楽は確かに英国のロックを模写していますが、良く言えば最もロックを理解していたグループだったとも言えます。

 さて、アルバムですがザ・ビートルズやローリング・ストーンズ、ザ・フーといったグループをルーツにしているためか、非常にブリティッシュロックを意識した作りになっていて、最初に聴くとブラジルのグループであることがホントに忘れるくらい英国ロックになっています。そこに荘厳なハモンドオルガンやリリカルなギター、手数の多いドラミングがあり、ややテクニカルなシンフォニック調になっているところが大きな特徴といったところでしょうか。楽曲では1曲目の『ヴィーナス』が、ハモンドオルガンとギターの絡みがオランダのフォーカスのようで、ギタースタイルがヤン・アッカーマンを彷彿とさせます。また、7曲目の『巨人』ではキーボードを中心にしたテクニカルな展開が、イエスの構築美に似た感じがします。それでもミミ・レッサのどんな曲でも絡めていくギターのセンスは素晴らしいものがあります。メロディもキャッチーであり、国民的なロックアルバムとなったというのも今では何となくわかる気がします。

 ブラジルには多くのプログレッシヴロックが存在しますが、ロックのダイナミズムをベースにラテン的なエッセンスを加味させた良質なアルバムになっています。ぜひ。この機に聴いてみてはいかがでしょうか?

それではまたっ!