【今日の1枚】Styx/Equinox(スティクス/分岐点) | 古今東西プログレレビュー垂れ流し

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Styx/Equinox
スティクス/分岐点
1975年リリース

アメリカンプログレッシヴハードの旗手である
スティクスが一躍注目を浴びた傑作アルバム

 カンサスと共にプログレッシヴロックをアメリカの地に根差したスティクスの5枚目のアルバム。そのサウンドはキーボード奏者兼ヴォーカリストのデニス・デ・ヤングが推し進めるプログレ&クラシック色とギタリストのジョン・クルリュウスキーのハードロック色が混同したアメリカン・プログレッシヴハードの典型的な作品となっている。1973年にリリースしたアルバムのシングル曲『Lady(邦題:憧れのレイディ)』が、1年以上経った1974年の11月に全米6位となる予期せぬ大ヒットとなり、それに伴い名門のA&Mレコードに移籍した第一弾のアルバムでもある。アルバムは全米58位まで上昇し、スティクスが一躍注目された傑作となっている。

 スティクスは元々、アメリカのシカゴで1963年にチャック・パノッツォ(ベース)とジョン・パノッツォ(ドラムス)の兄弟に、デニス・デ・ヤング(ヴォーカル、キーボード)が加入して結成したザ・トレイドウンズから始まる。12歳のパノッツォ兄弟と14歳のデ・ヤングという少年によるグループだったが、結婚式や誕生日パーティーなどのイベントを祝うカヴァーバンドとして活躍していたという。やがてローカルグループだった彼らに、ジョン・クルリュウスキー(ギター)が加入したことにより、1968年にグループ名をトレイドウインズ4と改めて、本格的にプロの活動を始めている。1970年にはジェイムス・ヤング(ギター)が加わってツインギター体制となり、その半年後に制作したデモテープが、RCA傘下のウッデンニッケル・レコードの代表を務めるビル・トラウトに認められて契約。グループ名をスティクスと改名して、1972年にデビューアルバム『スティクス』をリリースすることになる。アルバムはカヴァー曲や13分を越える楽曲が収録されており、一般受けしなかったがプログレファンに受け入れられた作品となっている。1973年にはセカンドアルバム『スティクスⅡ』では、デニス・デ・ヤングが温めていた曲を中心にした完全オリジナル曲のアルバムとなっている。これを機に1974年には『サーペント・イズ・ライジング』、『ミラクルズ』など、2枚のアルバムを立て続けにリリースするが、これといったヒットには結びつかないでいる。しかし、デニス・デ・ヤングのプログレッシヴな感性は息づいており、ハードな曲の中でバラード、クラシックといった様々なジャンルの曲を披露しており、確実にファンをつかんでいたという。4枚目のアルバム『ミラクルズ』をリリース後、スティクスのメンバーは当時もっとも影響力のあったシカゴのAMラジオ局WLSに足を運んでいる。ジム・スミスというラジオプログラムディレクターと出会い、スティクスの過去の数曲を流すことを約束している。1975年の2月からシカゴで頻繁に放送され、5月にはデニス・デ・ヤングの妻を歌った『Lady(邦題:憧れのレイディ)』の曲が全国的に流行し、8月には全米のビルボードチャートで6位を記録する快挙を成し遂げている。グループにとって予期せぬ大ヒット曲となり、収録していたアルバム『スティクスⅡ』が全米20位まで上昇することになる。これを受けて1975年秋にウッデンニッケル・レコードから大手レーベルであるA&Mレコードに移籍。移籍後第一弾となる5枚目のアルバム『分岐点』を1975年11月にリリースすることになる。シングルカットされて全米ビルボードチャートで27位を記録した『ローレライ』やプログレッシヴスタイルを追求した『マザー・ディア』、12弦ギターを駆使したバラード曲『ロンリー・チャイルド』を収録しており、スティクスが一躍有名となった傑作アルバムとなっている。

★曲目★
01.Light Up(ライト・アップ)
02.Lorelei(ローレライ)
03.Mother Dear(マザー・ディア)
04.Lonely Child(ロンリー・チャイルド)
05.Midnight Ride(ミッドナイト・ライド)
06.Born For Adventure(アドベンチャー野郎)
07.Prelude 12(プレリュード12)
08.Suite Madame Blue(スイート・マダム・ブルー)

 アルバムの1曲目の『ライト・アップ』は、ファンタジックなシンセサイザーとギターによる煌びやかなイントロから、デニス・デ・ヤングのハイトーンヴォーカル、華麗なコーラスが冴えた楽曲。これまでの個性であったプログレッシヴな香りを残しつつ、ポップなメロディになっており、後のスティクスのスタイルを確立している。シングルカットされた2曲目の『ローレライ』は、後のライヴステージでも度々使用される曲。ギターによるハードな一面とエレクトリックなポップが融合した、ユーモアあふれる巧みな曲構成になっている。明るく高らかに上昇していくコーラスの掛け合いは、当時の彼らの充実ぶりがうかがえるようである。3曲目の『マザー・ディア』は、シンセサイザーをメインにしたスペイシーな楽曲。ハードなギターやシンセサイザーによるソロ展開など、曲調が変化する作りになっており、プログレッシヴな雰囲気のある内容になっている。時折アクセントとして弾かれるピアノが効果的である。4曲目の『ロンリー・チャイルド』は、アコースティックギターのアルペジオとデニス・デ・ヤングの華やかなヴォーカルをメインとしたミディアムテンポの曲。伸びやかなコーラスとジョン・クルリュウスキーの流れるようなギターワークが聴きどころである。5曲目の『ミッドナイト・ライド』は、ノリノリのツインギターによる典型的なアメリカンハードロック。ジェイムス・ヤングがヴォーカルを担っており、彼が作曲した唯一の曲でもある。6曲目の『アドベンチャー野郎』は、ロビン・フッドの伝説を描いたデニス・デ・ヤングとジョン・クルリュウスキーによる共作。独特のリズムからなるドラマティックな空気感を演出しており、ジェイムズ・ヤングのハードロック気質がよく表れている。7曲目の『プレリュード12』は、ジョン・クルレフスキーの流麗な12弦ギターのソロになっており、次の曲のブリッジ的な存在になっている。8曲目の『スイート・マダム・ブルー』は、アメリカ建国200年を祝った曲であり、アコースティックギターとヴォーカルから始まるが、イントロのギターがほぼレッド・ツェッペリンの『Babe I'm Gonna Leave You』の流用である。サビの部分で曲がようやく変わり、後半ではアメリカ賛歌というべき一大ハードロックになっていく。デニス・デ・ヤング作曲だが、ギターがジミー・ペイジを彷彿としており、どこかレッド・ツェッペリンのオマージュが感じられる一曲になっている。こうしてアルバムを通して聴いてみると、これまでのプログレッシヴな路線と後のハードロック&ポップな路線へと進んでいくスティクスのちょうど中間地点にあるようなアルバムとなっており、アメリカンプログレハードというスタイルの典型的な作品となっている。シンセサイザーの音色が当時のアメリカンプログレとも言うべきファンタジックでドラマティックな雰囲気を作り出し、デニス・デ・ヤングの華やかなヴォーカルとアメリカンロックらしい流麗なギター、高らかなコーラスが独特の対比を生みだしている。1977年の『グランドイリュージョン-大いなる幻影-』で、ボストンやカンサス、ジャーニーと共にアメリカンロックの筆頭となるが、プログレッシヴな感覚を失わずに残した本作は、まぎれもなくスティクスの初期の傑作といえる。

 アルバムはシングル曲『Lady(邦題:憧れのレイディ)』がヒットしたあおりもあってアルバムチャートで急上昇。最終的に58位にランクインする快挙を成し遂げ、ゴールドディスクを獲得している。アルバム発表後、ギタリストのジョン・クルリュウスキーがポップ化に進んでいくグループに違和感を覚え、ツアーよりも家族と共に過ごしたいと考えて脱退。代わりにギターとヴォーカルを兼ねるトミー・ショウが加入し、1976年に6枚目のアルバム『クリスタル・ボール』をリリース。幅広い層の支持を集め、翌1977年発表の7枚目のアルバム『グランド・イリュージョン -大いなる幻影-』が全米ビルボードアルバムチャートでトップ10入りを果たし、スティクスがアメリカンロックのトップグループの仲間入りとなる。1978年には8枚目のアルバム『ピーシズ・オブ・エイト -古代への追想-』もアルバムチャート8位を記録し、シングル曲『Babe』が全米No.1を獲得している。1979年に9枚目のアルバム『コーナーストーン』も全米2位となり、スティクスの人気は不動のものとなっていったが、この時から欧米の音楽メディアからはコーポレート・ロックと呼ばれ、日本では産業ロックなどと批評されることになる。1981年には10枚目のアルバム『パラダイス・シアター』をリリースし、1982年1月に初来日を果たしている。しかし、1983年にリリースした『ミスター・ロボット -キルロイ・ワズ・ヒア-』から、デニスとトミーとの間に亀裂が生じ、1984年にグループの活動が停止することになる。しばらく音沙汰なく数年が過ぎた頃、かつてギタリストだったジョン・クルリュウスキーが1988年に死去。その報を受けたデニス・デ・ヤングは1990年頃にグループの再始動を図ってトミー・ショウを招集しようとしたが、何とトミー・ショウはテッド・ニュージェント、ジャック・ブレイズと共に新グループ、ダム・ヤンキースに参加してしまう。デニスはトミーの招集を断念し、代わりにグレン・バートニックを加入させて活動を再開。そして7年ぶりとなる12枚目のアルバム『エッジ・オブ・ザ・センチュリー』をリリースするが、トミー・ショウが復帰するのは1995年である。翌年ドラマーのジョン・パノッツォが死去し、追悼ライヴを行って一度はグループの結束が図られたが、再びデニスとトミーの確執が表面化し、とうとう修復不可能な間柄になっていく。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回はカンサスと共に1970年代初期からプログレッシヴな音楽を演奏していた、スティクスの5枚目のアルバム『分岐点』を紹介しました。スティクスはカンサスとは違い、いち早くコンパクトな曲のポップ路線にシフトしたということで、ボストンと共に産業ロックの代名詞となったグループです。1977年から1980年頃はまさしく飛ぶ鳥落とす勢いでヒットを連発していたスティクスですが、その陰りが見えたのは1980年代のアメリカの音楽シーンが、ニューウェイヴをはじめとする新しい音楽を受け入れ始めた頃です。メロディを主体とするポップ路線に進むか、これまで通りのロック路線に進むかといった意見に分かれ、デニスとトミーのグループ内での確執が決定的となって活動停止に追い込まれたことは先にも述べました。あれだけ商業的に成功したグループが2人の確執が原因で活動停止になるなんて、少なくとも続けていれば、1980年代のジャーニーやフォリナーのような立ち位置で活躍できたのではないかと今でも思っています。

 さて、アルバムの方ですが、大手A&Mレコードに移籍した第一弾で、初のグループ単独によるセルフプロデュースということもあって、一気にメジャー化したサウンドが堪能できます。それまでの個性であったプログレ的な香りも残しつつ、アメリカらしいポップなメロディと華麗なコーラスが加わっており、後の彼らの音楽スタイルが確立されていると思います。メロディアスでありながらドラマティックな展開があるなど、本作品はアメリカンプログレハードという言葉がどんなものなのかを如実に物語っています。ぜひ、スティクスを知る上でも聴いてほしい1枚です。

それではまたっ!