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ムーブメントコーチ ロボラガーのブログ

ムーブメントコーチ(重心移動のスキルを指導)として、高校生や大学生中心にトレーニング指導をしております。現場での試行錯誤を書きたいと思います!

School of movement 認定 マスターコーチ

「感覚の入力」の大切さを、ここのところ痛感している。適切な動きをするにも、この感覚に鋭敏になることが大切なのだが、解剖学者の養老孟司さんがこんなことを書いている。
 
「動物と違って、ヒトの意識の特徴は同一化にある。感覚はあくまで違うと言い張るのだが、ヒトの意識はそれを『同じにする』のである。これを私は何度でも主張する。なぜなら、そういう意見を聞いたことがないからである。でもどう考えても、そうとしか言いようがない。
そもそも概念とは 『同じにすること』である。リンゴという概念は、あらゆるリンゴを一つにしてしまう。甘いのも、酸っぱいのも、赤いのも、青いのも、大きいのも、小さいのも、すべてリンゴである。だからわれわれは、言語的な概念を使用することによって、感覚を『無視する』癖をつけることになる。それによって『動物から離陸した』のである」 (「骸骨考」新潮社)
 
我々人間は、「感覚を無視する癖をつけて、動物から離陸した」と言う。
 
では、動物はどうしてるのか?
「世界を感覚でとらえる」のだと言う。
 
そして、生物学者の池田清彦さんが、Twitterでこんなことをつぶやいている。
 
「言葉はあらゆるものを分節していきます。つまり、人間は言葉があることによって様々な物事を分類して概念を構築し、世界を認識しているのです。
例えば、『ヒト』という概念には、地球上にいる73億人のすべてが含まれます。でも、個人は一人ひとり違うのに、なぜ全員を『ヒト』という言葉でくくることができるのか。それは人間が『ヒト』という同一性を捏造したからです」
 
つまり、我々人間は言葉を獲得することで、世界を分類できるようになり、まさにヒトたらしめているのだと。
だが、この言葉とは厄介なもので、動物が本来持っていた感覚を鈍らせるのだ。
 
ではどうすれば良いか。
養老孟司さんは言う、「感覚を磨くしかない」
 
では、感覚を磨くにはどうしたら良いのか。
ひとつには、外部の環境を変えることだ。
平地でいつも走っている選手が、クロスカントリーをやる。足の接地面が変われば、入力の仕方も変わる。そのことが、感覚を磨くことにもなるのだ。
 
しかし、もっとわかりやすい言葉を知っている。
「考えるな、感じろ!」
 
言い方を変えれば、教えすぎないこと。
もしかすると、指導者は 「で、どうだった?」
と聞くだけで良いのかもしれないのだ。
 
しかし、なかなか、私も含めて多くの指導者は、自分の知っていることを教えたがる生き物。指導者自身が言葉を捨てたとき、初めて選手の感覚はより鋭敏になるのかもしれない。
 
 
この20年、主に高校生と大学生の部活動にトレーニングコーチとして携わっている。まだ若く未熟な彼らには、時に挨拶や、時間を守れやら、ゴミを拾えやら、電話のかけかたまで指導することもある。もちろん、トレーニングコーチだからフィジカルの強化が、本来の私の役割だ。
 
しかし、まずはトレーニングへの取り組む姿勢、もっと言えば人の話を聞く態度が肝心である、私はそう思っている。
彼らも未熟だが、私なんか50も超えたのに大人になれないもので、もうそれは日々葛藤の連続である。
 
「脳にはカオスが存在している。それはすでに知られたことである。ということは、必ずしも予想ができないということが、論理的に予測できる。それを自由と呼ぶかどうか、私はまだよくわからない。しかし外部入力についてなら、それをあれこれいじることは可能である。それで脳がどうなるか、そんなことは『やってみなけりゃわからない』ではないか」 (「骸骨考」 養老孟司 新潮社)
 
こう教えてくれるのは、解剖学者の養老孟司さんだ。
外部入力はいじったつもりもないのに、日々刻々と変わる。
そのたびに、こちらもイラついたり、楽しくなったり、面白くなったり。
 
最後には、たいてい
「あー、自分の好きなことで飯が食えてるなんて、なんて俺は幸せ者なのか」
とニンマリしてウエイトルームを去るのである。

「やってみなけりゃわからない」
それが人生である。
 
自粛で自宅で過ごす時間が増える今、改めて感じている。

3月2日、学校休校の要請が出された。そして、先日、東京には緊急事態宣言が出された。 そんなわけで、唯一活動していた大学の部活動も停止になり、ほぼほぼ完全休業状態になってしまった。18年間、個人事業主として活動してきたのだが、ここまで危機的状況になったのは初めてだ。

 

とは言え、時間だけはたくさんある。と言うか、こんなに時間があるのは大学4年の時以来、実に30年ぶりくらいのような気がする。

さて、何ができるだろうか? すでに、トレーナー業界では導入していた人もいるのだが、オンラインでの指導ができるではないか。

オンライン指導は遠隔地の方ともつながれる、時間を有効に使える、より多くの人に伝えられる、などのメリットがある。

しかし、ITにはめっきり弱く、現場一筋でやってっきた私、まさか自分がやってみることになるとは想像すらしなかった。

でも、何もしないでいても仕方ないので、チャレンジすることにした。なにせ、時間だけはたっぷりとあるのだから。

 

1週間ほどかけて、やっとオンラインで指導することができるようになった。相手は4人、普段指導させてもらっている大学生だった。いやー、実に面白かった! 彼らも、オンラインで指導を受けるのは初めて、つまり、お互い初心者同士なわけで、開始前はうまくいくかどうか、どちらかと言うと不安の方が大きかったのだが。

 

何が良かったって、やはりお互い久しぶりに顔を見て、声を聞けたことだ。自宅で過ごすことが多くなり、家族以外の人と会う機会が減り、知らず知らずのうちにストレスがたまっていたのかもしれない。オンラインのやり取りとは言え、私の方がパワーをもらえた。顔を見て話ができるというのは、コミュニケーションの中でも大きなものだと、改めて感じた。

 

オンライン指導の可能性は他にもあった。主催者側はパソコンで選手の動きを見れるので、下手をすると、普段よりも個別での対応ができるのだ。これは、使用してみて気づいた。選手は自分自身をスマホで撮っているのだが、アップにすると、思った以上にこちらから選手の動きは見えるのだ。

 

もちろん、ライブでないとやれないこともある。しかし、オンラインでしかやれないこともたくさんあることに気づけた。それは、まさにほとんど唯一と言っても良い、クソコロナ野郎のおかげである。あ、もう一つあった。家族と過ごす時間が、圧倒的に増えたことだ。

 

たかだか、一介のトレーニングコーチの51年間の人生で、いまが一番のピンチなのかもしれない。しかし、思い出して欲しい、日頃偉そうに選手たちに、「今、目の前のことにベストを尽くせ!」

と話していたことを。まさに、そのことを自分自身が実践すべき時なのだ。私の尊敬するトレーナーの方が話してくれた。

「コントロールできるのは自分だけです」と。

ならば、自分ではどうすることもできないことでストレスを感じるのではなく、自分にできることだけにフォーカスしていこうと。

明石家さんまさんが、言っていたではないか。

「人生、生きているだけで丸儲け」 そう思えば、ストレスなどたまらない。

 

とは言え、1日でも早くコロナが収束することを願うずにはいられない。未来のある子どもたちのためにも。

今から30年以上前の、高校の入学式の後、中学の同級生
2人と野球部の門をたたいた。
 
すると、明らかに私が今まで出会った人たちとは、違う匂いのする、言い方を変えれば、熱量が違う一人の先輩が応対してくれた。
我々3人は、一足早く野球部に入った他の1年生とランニングをすることになった。全部で7〜8名だったろうか、縦2列で走った。その野球部のランニングを覚えることが、どうやら最初に1年生がやらなねばいけないことのようだった。まず、誰かが掛け声をかける。
「気合入れろ!」
すると、他の選手が「オー!」
「イチ・ニー!」「オー!」「イチ・ニー!」「オー!」と、掛け声をかける選手が「イチ・ニー!」と叫び、残り全員で「オー!」と叫ぶのが、それが、そのチームの声がけのようだ。
そして、同時に、これが難しいのだが、足を揃える必要があるのだ。「イチ・ニー!」の「イチ」の時に、左足が地面に着き、「ニー」の時に、右足が地面に着くのがルールなのだ。
なぜか知らぬが、そのランニングは、校庭の半分のところで、折り返すのだ。つまり、一度止まり、反転してまた逆方向に走るというのを繰り返すのだ。だから、どうしても、この切り返す時に足が合わなくなるのだ。すると、一緒に走っている先輩の「合ってないぞ!」の声がとぶ。何往復かしても合わないので、一度、先輩が皆んなを集めて、こう話す。
「心を一つにしたら足は揃うんだ!」
そして、再び走り出す。
何度もやっていると、少しずつだが歩調が合ってくる。唯一、声がけをしないのが、切り返すときだ。先頭が止まり、その場でランニングをしている。
「ザッ、ザッ、ザッ、ザッ!」足音だけが聞こえる。全員の足が揃うと、その音は確かに一つの音のように聞こえてくる。あのランニングの、あの足音は、今思い出しても、なんとも言えない、心地よい音だった。
 
私が入部した、東京都立東大和高校野球部は、当時、『都立の星』と呼ばれ、部員も100名を超えていた。そして、そのランニングは、ある意味で東大和の名物と呼ばれるものだった。
総勢、100名が、校庭半分を、縦5列くらいで、各々の間隔は、2m以上離れていた。つまり、小さく固まっていなかったので、もう、ほぼほぼ校庭半分の半分くらいに広がっているのだ。
それが、全員の足音が一致し、とてつもなく気合の入った声でやる。練習終わりの夕方のその光景は、まるで、青春映画の一コマかと思われるほど神秘的だった。皆んなの声がこだまのように跳ね返って聞こえるのだ。

私が卒業した翌年に赴任した先生は、初めて東大和高校を訪れたときのことをこう話してくれた。
「駅から歩いていくとさ、まだ、学校まで大分距離があるのに、途中から聞こえるんだよ、ランニングの時の掛け声が、いやー、あれはホント凄かったな」
 
東大和名物のランニングには、足音が揃う、大きな声以外に、もう一つ特徴があった。おそらく、これこそが、最大の特徴かもしれない。
それは、声がけをリードする選手が決まっていないのだ。まず、歩きからランニングが始まり、ランニングになる。すると、誰かが「気合入れろ!」と叫ぶのだ。この音頭をとる人は、誰でもいいのだ。だから、時には、同時に2人とか、3人とかが、同時に叫ぶこともあるのだ。その場合、複数の人が音頭をとるのだ。そして、それはランニングを折り返すたび毎に代わるのだ。いやー、この仕組みは面白かった。中学までは、大きな声を出すことが苦手だった私は、最初の頃は、この声がけをなかなか出来なかった。多分、相当勇気を出して、やったように思う。ただ、同期に言わせると、私は声がかすれていたうえに滑舌も悪かったので、「イチ・ニー!」ではなく、「ア・チャー!」としか聞こえなかったようなのだが。
でも、この誰でも構わないから、積極的に声を出したい人が声がけをするシステムは、ほんとに良かったと思っている。なぜなら、私のような内気な人間が、これをきっかけに、大きな声を、自ら出すことにためらいがなくなったのだから。大袈裟に言えば、自分の殻を破れたのだから。
なんだか、話が、たかが、私の母校のランニングで長くなったが、でも、きっと、これだけで3時間は語れるほどのランニングだったことは間違いない。さきほど、私のFacebookに、当時の仲間がコメントしてきたので思い出した次第である。
高校の野球部時代、ノックでエラーや暴投ばかりする私に助監督が、
「お前は出てろ、お前なんかがやってたら皆んなに迷惑をかけるから、出てろ!」
「お願いします!」
と言って出ようとしないと、さらに冷たく「いらん」
そして、私が出なければノックが始まらない。悔しくて泣けてくるが出るしかない。あの時の情けなさと悔しさっていったらなんとも言えない。
 
内田樹さんがこんなことを書いている。
 
「もともと学校教育の機能の一つは、子どもたちの無根拠に高い自己評価を、適切に下方修正し、身の丈に合った生活設計やキャリアに軟着陸させることにありました。『身の程を知れ』ということです。
でも、現在の教育現場では『君たちには無限の可能性がある』という激励は許容されても、『身の程を知れ』、『分をわきまえろ』というアナウンスにはつよい抵抗を覚悟しなければなりません。そんなことをうっかり口にした教師には生徒や保護者たちから猛然たるバッシングを受ける覚悟が必要です。
けれども、子どもたちの過度に肥大した自尊感情を下方修正し、適切な自己評価を受け容れさせることは、実際には子どもたちの潜在的な才能を開花を支援するのと同じくらいに重要な教育的課題なのです。
考えれば当たり前のことですが、子どもたちがその『無限の可能性』を開花させるためには、どうしたって、自分がどれほど無知で非力であるかを知る必要があります。自分たちがどれほど小さな『箱』に閉じ込められているのかに気づかない子どもが、日の光を浴びて、空気を一杯に吸って『開花する』ことはありえません。
10歳程度の子どもが『もう世の中のことは一通りわかった。もう教師から学ぶことは何もない』と揚言したとしたら、それは『思い上がり過ぎだ』と誰でも思うでしょう。でも、実際には今の学校では、このタイプの幼児的妄言を抑止することがむずかしくなってきている。教育の場では、『君には無限の可能性がある』という言明と、『君には有限の資源しか与えられていない』という言明は同時に告げられなければならない。矛盾した言明を同時に告げられることではじめて子どもたちのうちで『学び』は起動するのです」
 
私だけでなく、昔はどちらかというと
「身の程を知れ」と言える大人が多かった。そして今ではそう言ってくれる大人は稀有な存在になっている。
しかし、私は子どもたちに大人がその言葉をもっと投げかけていくべきだと思う。どんなに努力したって全員がプロ野球選手にはなれないことはわかりきっている。
むろん、だからと言って自己否定だけだと人間は救われない。
ここが一番むずしい。でも、あまり多くを期待しない生き方だってできる。むしろ、私も含め多くの人は何事も成し得ずに人生を終えるのだ。
 
そんな時救われるのが、
「語るに足る、ささやかな人生」
「何かのためにではなく大切なこと」
という、平川克美さんの言葉だ。

身の程を知るのは悪くない、人生はそれでも十分幸せに生きられる。