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ムーブメントコーチ ロボラガーのブログ

ムーブメントコーチ(重心移動のスキルを指導)として、高校生や大学生中心にトレーニング指導をしております。現場での試行錯誤を書きたいと思います!

School of movement 認定 マスターコーチ

「指導者にとって大切なこと」、それは何か。


私の尊敬するトレーナーの方が、それは「包容力」であると話してくれたことがある。価値観の違う選手たちを承認するということだ。しかし、これがなかなか難しい。言い方を変えれば、それは「大人」になるということでもある。
「大人」とは何か? 武道家の内田樹さんがこんなことを書いている。

「大人」というのは、「いろいろなことを知っていて、自分ひとりで、何でもできる」もののことではない。自分がすでに知っていること、すでにできることには価値がなく、真に価値があるものは外部から、他者から到来するという「物語」を受け入れるもののことである。言い方を換えれば、「私は〇〇ができる」と自己限定するものが「子ども」で、「私は〇〇ができない」と自己限定するものが「大人」なのである。(「おじさん」的思考 角川文庫)

確かに、私の息子が小さい頃、妹とケンカすると、よくこんなことを言っていた。
「なんだよ、そんなことも知らないのかよ、バカじゃねーの!」
でも、それは、彼だけでなく高校生でも大学生でも、いや私なんぞは50も超えるのに、似たような言葉を使うことがある。選手がわかった風なことを言うと腹が立ってしまう。
内田さんの定義からすると、「大人」でななく「子ども」なのである。自分が〇〇を知らない、できないと思っているから、他人に対して謙虚になれるのだ。しかしながら、指導者というのは私に限らず、自分の方が選手よりも知っていると思っている場合がほとんどなのだ。根底にそのことがあるので、なかなか選手の声に耳を傾けることが難しいのだ。

「相手の立場に立って考えなさい」とは、誰もが小さい頃から教わったことだ。小学校の教室には「思いやり」という文字が必ずある。でも、現実には年齢を重ねても、それを実践することは本当に難しい。50を過ぎても、なかなか相手の立場に立つことができない私だが、そんな私でもできることがある。その自分の至らなさを認めることだ。もっと言えば、自分の弱さをさらけ出すこと、選手の前でそれができれば、私にも指導者をする資格があるように思う。

「指導者にとって大切なこと」を書きたいと言いながら、かろうじて指導者の資格があるかもしれないでは、答えになっていない。が、このブログは、今後もこのように50過ぎたムーブメントコーチの感じるままを言葉にしていこうと思う。

選手に、「森下さん、座右の銘はありますか?」

そう聞かれたので、「俺のは長いよ」と言って、スマホにある気に入った言葉を集めたファイルの中から探し出し読んでもらった。

 

「教養という言葉にもだまされないほうがいい。気をつけなくちゃね。たとえばオジイサンを見て、この人にも若い時があったんだ、自分もいつかオジイサンになるんだな、そう思える奴は教養があるんだ。目に見えるものだけで、その人を判断する。それが無教養なんだ。はじめからオジイサンだったオジイサンはどこにもいない。別な言い方をすれば、自分にも悲しみがあるのだから、他人にも悲しみがある。他人の悲しみが分かる奴は教養があるんだ。教養があるとね、ユーモアがある。 ユーモアこそが人間の最大の武器なんだ。」

 

実は、この話は、私の高校野球部の大島合宿の時に、監督の佐藤先生の友人である作家の吉川 良さんが、坊主頭の我々に話してくれたものだ。そのあとに、『オウッス!高校野球』 佐藤道輔・吉川良 共著として本になったことで、こうして30年以上も私の座右の銘として、言語化できているのだ。

 

正直、高校2年生の私には、この言葉をライブで聞いた時には、たいして響くものではなかった。しかし、大学生になったどこかで、この言葉がむちゃくちゃ心にささってきた。そして、それは50を過ぎた今でも変わらない。むしろ、より一層、私の中では大きなものになっている。大げさに言えば、「教養のある人」になることが、私の人生の目的になった。もっと言えば、「ユーモアのある人」になりたいと。

 

今、世界では、どちらかと言うと、「自分フォースト」の考え方が増えてきているように思う。価値観の違う他者を受け入れるのではなく排除してしまう。まさにコロナウイルスに感染した国や人に対して差別的な言動が起きているように。もし、一人一人の人間が、ほんの少しだけ視点を変えて考えることができるならば、そう、吉川さんの言う「教養のある人」になれれば、言動ももう少し違うものになるのではないだろうか。

 

私は、やはり高校時代に、『竜馬がゆく』司馬遼太郎著を読み、竜馬に憧れた。まさに竜馬こそ、「ユーモアのある人」だったのではないか。私の記憶が定かであれば、大政奉還を将軍である徳川慶喜が受け入れたことを聞いた竜馬は、こんなことを言った。「よくぞ受け入れてくれた、我が、この慶喜公のために命をも捨てん」と。誰もが倒幕を考えていた、そして、もちろん竜馬もその倒幕派の中心であった。それなのに、慶喜が自ら将軍の座を降りるという決断をしてくれた瞬間に、そんな風に考えた人間が他にいただろうか。この箇所を読んでいる時に、私は高校生ながら、坂本竜馬という男の器の大きさに感動した。いつの日か私も竜馬のようなでかい男になりたいと。でも、でかい男とはどういうことか、具体的にはわからなかった。でも、今ならわかる。竜馬という人間こそ、「教養のある、ユーモアのある人間」なんだと。言い方を変えれば、相手の立場になって物事を考えることができる、あるいは、自分がそうなっていたかもしれないという想像力を働かせることができる人間ということなのだ。

 

なんだか、座右の銘の話から、いささか話が脱線しているのだが、今こそ竜馬のような人間が、日本に世界に必要であるように思う。私は到底、竜馬にはなれないが、少しでも「教養のある人」に近づけるよう、そして、いつの日か「ユーモアのある人」になれるよう、精進したいと思う。なぜなら、それが私の人生をかけた目的なのだから。座右の銘を読んだ選手も、いつの日か、この言葉のもつ意味がわかる日が来ると思う。いや、きて欲しいと思うのである。

 

 

 

 

 高校生や大学生にトレーニング指導を始めて20年。私は教員でもないし、教員免許証も持っていない。理路整然と話すことも苦手なうえに、野球とラグビーはやっていたものの、どちらも3流どまり。おまけに、両膝は年に数回悲鳴を上げて、歩くこともままならないこともある。そして、一番のネックは50を超えたのに、まだまだ人としての器が小さいこと。だから、選手の前でトレーニングのことを説明しているときに、(もちろん、自分の説明の下手くそ加減や、カリスマ性がないことは棚に上げ)、あきらかに話を聞くことができない選手がいると腹が立ち、「お前、人が話をしているときは、ちゃんと目を見て聞けよ!」などと、説教をすることもたびたび。しかし、そんな私でも、食い入るように私なんかの話を聞き、少しでも何か吸収しようとする選手がいると、俄然はりきって、話が止まらなくなってしまう。おそらくそれは、選手側の「学ぶ姿勢」によることが大きいと思う。

 

 武道家の内田樹さんが、「学ぶ」ことについてこんなことを書いている。

 

 「人にものを学ぶときの基本的なマナー」とは、それはまず自分の知っている全ての技術や情報をいったん「リセット」して、師から伝えられることのできる「ダブラ・ラサ」の状態になることである。「白紙」の状態になった人間だけが、その狭隘な枠組みに邪魔されずに師の教えを習得する資格を得る。それは、師は弟子からは及びもつかない遥かな境地に位置しており、師から授与されるスキルと情報は弟子にとって「無限」である、という「物語」を受け容れることである。弟子がまず学ばなければいけないのは、師を「知っていると想定された主体」と想定することである。それが「師に仕える」ということである。それさえ正しく学習できれば、スキル的なものは以後ほとんど自動的に、鼻歌まじりに習得されてゆく。今の学校教育における「教育崩壊」は、要するに、知識や技術を「学ぶ」ためには「学ぶためのマナーを学ぶところから始めなければいけない」という単純な事実をみんなが忘れていることに起因する。

 学校というのは本来何よりも「学ぶマナーを学ぶ」ために存在する場所なのである。

(「おじさん」的思考 角川文庫)

 

「学ぶマナー」を持っているかどうか、これは本当に大きな違いを生み出す。なぜなら、指導者側も人間なのだ。当たり前のことなのだが、指導者や先生と呼ばれる人も選手同様、笑ったり、泣いたり、悲しんだり、怒ったり、そして、たいていは私のように決して人としての器が大きくなんかないのである。だから、「学ぶマナー」さえ持っていてくれれば、おそらく腹を立てたりすることもなく、自分の持っていることすべてを提供したくなるのだ。まあ、それはそれで選手からすると迷惑かもしれないのだが、少なくとも、指導者と選手との関係性としては悪い方向にはいかないように思う。関係性が良好であれば、仮に指導者側が私のようにへっぽこであっても、選手自身が必ず何かを学びとってくれるのである。

 

 「学ぶマナー」が大切であるとは言え、指導者は、むろん、そのことに甘えてはいけない。かつて、サッカー日本代表監督だったイビチャ・オシムは、「指導者は選手の7倍勉強しなければいけない」と言った。そう、こんな有名な言葉もあるではないか。

「学ぶことをやめたら、教えることをやめなければいけない」 

ロジェ・ルメール

 

  だからなんのことはない。指導者が、「学ぶマナー」を持ち続けることが、実は一番の選手への指導法なのだ。指導者が常に学び続けているチーム、そこの選手たちは「学ぶマナー」を身につけていくことだろう。

 

 私自身が「学ぶためのマナー」を持つこと、すなわち、自分自身を書き換えることをやり続けること、それならば、こんな私でもできるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

初めまして、ムーブメントコーチの森下です

ついにブログを始めることにしました。

記念すべき最初なので、私の職業の説明をしたいと思います。

 

職業はムーブメントコーチです。

 

4年前まではトレーニングコーチと名乗っておりました。

しかし、とある講習会に参加し、基本コースとコーチコースも受講したことをきっかけに、

名刺には 「ムーブメントコーチ」 と書くようにしました。

 

その講習会が、School of movement 主催のムーブメントファンダメンタルズです。

https://school-of-movement.org/

 

20時間の座学、実技で学んだことは、私にとって衝撃的なものでした。

トレーニングコーチとして、高校生や大学生の運動部の選手に対して、トレーニングのサポートをしてきたのですが、

ずっと、課題がありました。それは、トレーニングとパフォーマンスをどう結び付けるかというものでした。

 

トレーニング(ウエイトトレーニング、スピードトレーニング、アジリティトレーニングなど)を真剣にやらなくても、パフォーマンスが高い選手もおります。逆に、トレーニングは誰よりも一生懸命にやっているのに、パフォーマンスが低い選手もおります。かく言う私も高校の野球部時代に、まさにその典型的な1人でした。だから、この仕事を始める前から、私の中で、どういうトレーニングをしたら、パフォーマンスにつながるのか、そんなことをずっと考えておりました。

 

そこで出会ったのがムーブメントスキルです。

簡単に言えば、重心移動のスキルです。言ってみれば、ほとんどの運動が重心移動の繰り返しです。

100m走は、いかに前方向に速く重心を移動させるか。野球のバッティングで遠くに飛ばせる選手も、重心移動のスキルが高いのです。

トレーニングで有名なスクワットは、垂直方向の重心移動になります。運動をムーブメントスキルという観点から着目すると、ウエイトトレーニングも、走ることも、打つことも、投げることも、パンチも、キックもほとんどが当てはまるのです。

 

そして、重心移動の肝になるのが、

股関節で生まれたパワーをいかに地面に伝える

かになります。

 

昔から、良い野球選手はお尻がでかいと言われてきました。股関節でパワーを生み出している筋肉の代表がお尻になります。

エースで4番で、足も速く、守備も上手い選手がおりますが、まさにムーブメントスキルが高い選手であると言えます。

しかし、多くの指導者は、こんな選手のことを 「あいつはセンスがあるから」 の一言で片づけてきました。でも、スキルは学ぶことができるのです。力学や解剖学的にみたら、メッシも大谷投手も、我々も同じです。誰でも、同じスキルができるのです。そんなことを教えてくれたのが、ムーブメントファンダメンタルズであり、講師の朝倉全紀さんでした。

 

そんな、ムーブメントスキルを教えてくれるコーチは、朝倉さん以外にもたくさんおります。

その中の一人に私も加えさせて頂いております。

https://school-of-movement.org/graduates/

 

ダレデモデキル!

安全に、効率よく、思いのままに、楽しく!

それを選手にたちに、伝えるのが ムーブメントコーチ、つまり、私の仕事です。