私が内田樹さんの本を初めて読んだのは、かれこれ8年ほど前のことだ。近所の小さな本屋に、その本はあった。
『下流志向』(講談社) というタイトルだ。当時、自分自身の学生へのトレーニング指導をしていて、そうとう悩んでいた。そして選手たちとも、ぶつかることも多かった。
「なぜ、こちらの思いが伝わらないのか」
「なんで、そんなにやる気がないのか」
「なんで熱くなれないのか」
「どうしたら、もっと真剣に取り組むようになるのか」
もう、四六時中、そんなことばかり考えていた。だから、トレーニングコーチなのに、読む本は、哲学的なものがほとんだった。そう、「なぜ練習するのか」を突き詰めていくと、「人とはなんだろうか」「人にとって大切なことはなんだろうか」という、答えのないものにいきついてしまうのだ。
そんなときに、内田さんの本に出会った。それ以来、内田さんの本を読みまくった。内田さんにハマる人のことを、タツラーと呼ぶらしかったのだが、実は、内田さんが、そんなに人気のある方とは知りもしなかった。だから、メールを送った。なんと、わけもわからないトレーニングコーチからのメールに直接、返信がきた。嬉しかった。神戸にある内田さんの合気道の道場で行われた講習会にも行った。いやー、あの講習会の、なんとも言えない明るくてエネルギーに満ち溢れている雰囲気、最高だった。
そんな、内田さんが書いている言葉で、もしかすると一番好きなのが次の文だ。「腑に落ちる」とは、こういうことなのかもしれない。
〔 必要なのは「知識」ではなく「知性」である。「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るのか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。
学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。
古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所である。
自分が何を知らず、何ができないのかを言うためには、自分自身を含むシステムの全体についての概括的な「見取り図」を持っていることが必要である。自分がこの社会のどこのポジションにいて、今進んでいる道はどこへ向かっており、その先にはどのような分岐点があり、それぞれの分岐はどこにつながっているのか。それが分からないものにマッピングはできない。マッピングができないということは、主体性が持てないということである。
というのは、マッピングというのは、「自分がいる場所」、つまり「空間において自分が占めている場所」つまり、「他の誰によっても代替不可能な場所」を特定することであるからだ。学術研究論文がまず先行研究批判からはじまるのは、「自分の位置を知る」ことが、おのれの「オリジナリティ」「唯一性」を知るためのたった一つの方法だからである。
主体性とは「他の誰によっても代替されえないような存在で自分は在る」という覚知とともにしか成り立たない。そのためにはマッピングが不可欠である。そして、マッピングのための問いとは「私はどこにいるのか?」「私は何ものであるのか?」といった実定的な問いではなく、「私はどこにいないのか?」「私は何ものでないのか?」「私は何ができないのか?」という一連の否定的な問いなのである。学校教育とはほんらい、このような否定的な問いを発する訓練のための場である。自分が「何を知らず、何をできないのか」を正しく把握し、それを言葉にし、それを「得る」ことのできる機会と条件について学びをしること、それが学校教育で私たちが学ぶことのほとんどすべてである。
それさえ提供できれば、すべての場所は「学校」である。それは制度である必要も、空間的現実である必要もない。たとえば、サイバースペースはもはや十分に学校として機能している。なぜなら、そこで何かのデータを得ようとするものは、何よりもまず「自分はどのようなデータを欠いているのか」「自分はそのデータに到達するためにどのようなスキルを欠いているのか」をできるかぎり分かりやすい言葉で交信の相手に伝える必要があるからだ。自分の「欠如」や「不能」を適切に言語化する能力を人間関係に翻訳すると、それは「ディセンシー」と呼ばれる。求めているデータを待つときの忍耐と沈黙は「レスペクト」と呼ばれる。
インテリジェンスとは、「おのれの不能を言語化する力」の別名であり、「礼節」と「敬意」の別名でもある。それが学校教育において習得すべき基本である、その原点に立ち戻れるならば、私たちの前にはまだ無数の可能性が開かれているように思われる〕 ( 「おじさん的」思考 角川文庫 )
特に、最後が好きだ。
〔 インテリジェンスとは、「おのれの不能を言語化する力」の別名であり、「礼節」と「敬意」の別名でもある 〕
言い方を変えれば、自分自身が未熟者であることを認めることで、初めて他者への敬意が生まれるということだ。つまり、それができる人が「知性」があるのだと。
50を過ぎても、まだまだ、「知性」のかけらもない私だが、自分の未熟さを認めることなら、少しずつはできるかもしれない。それができたとき、初めて、いつまでも平行線のままで終わってしまった選手たちと、ほんの少しは交わることができたのかもしれない。