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ムーブメントコーチ ロボラガーのブログ

ムーブメントコーチ(重心移動のスキルを指導)として、高校生や大学生中心にトレーニング指導をしております。現場での試行錯誤を書きたいと思います!

School of movement 認定 マスターコーチ

「私」とは何か?
 
この大いなる問いに、平野啓一郎さんは、分人(dividual)という切り口で話す。 ( 「私とは何か」 講談社現代新書 )
 
個人(individual) の語源は 「分けられない」
でも、誰もが感じることだが、家族の前の自分と、友人の前の自分では違う。我々はウラ・オモテのある人間を嫌い、「ありのままの自分」でいたいと思う。
そもそも、ここに間違いの元があると言う。
唯一無二の「本当の自分」など存在しないのだ。対人関係ごとにみせる複数の顔が、すべて「本当の自分」なのだ。
だから、人間を個人(individual)ではなく、分人(dividual)、つまり「分けられる」として考える。対人関係ごとに見せる顔、それが分人だ。分人はすべて、「本当の自分」である。
そして、平野さんはこうも言う。
「私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない」
 
高校時代から、「自分とは何か?」
そして、その「自分らしく生きる」ことを遮二無二求めて生きてきた。サラリーマンで営業一筋だった親父。家族の前の親父とお客さんの前の親父の態度の差が、イヤで仕方なかった。そして、気づけば、親父のようにはなりたくない、そう考えるようになっていた。相手が誰であろうと、態度を変えることのない、ブレない、そんな自分になりたい、そう思った。今、思えば相当な生意気な奴だった。有り体に言えば、「自分探しの旅」をしていた。
しかし、40過ぎてから少しずつ気がつき始めた。そして、50を超えた今、改めて感じている。
 
「私」は他者がいてはじめて成り立つということに。
つまり、いろんな「私」がいるのだということに。

そのことに気づき始めてから、実は変化したことがある。以前よりも、楽なのだ。理想の「自分」というものから解放されて、その時々によって、自然に変化する自分を受け入れれられるようになると、より人生が楽しく感じられるのだ。
言い方を変えれば、ストイックな自分、怠惰な自分、せっかちな自分、楽観的な自分、様々な自分を受け入れることで、ふだん、接している選手たちも同じなんだ。そんなことを思えるようになったのだ。以前だったら、手を抜く選手には腹しか立たなかったのだが、こいつにも、場を和ませる力があるんだよな、お、意外とこんな面もあるんだなとか、ちょっとだけ、選手たちを見る目が変わってきたのだ。
 
それは単に、私が歳をとって丸くなってきたからなのかもしれない。でも、今なら、死んだ親父のことも受け入れることができる。
 
世界中で、コロナが感染し、自分の国優先、自分ファーストの風潮も高まる中、そんな今だからこそ、「他者」がいてこそ、私が成り立つのだという、平野さんの言葉を肝に銘じたい。

 

私が内田樹さんの本を初めて読んだのは、かれこれ8年ほど前のことだ。近所の小さな本屋に、その本はあった。

『下流志向』(講談社) というタイトルだ。当時、自分自身の学生へのトレーニング指導をしていて、そうとう悩んでいた。そして選手たちとも、ぶつかることも多かった。

 

「なぜ、こちらの思いが伝わらないのか」

「なんで、そんなにやる気がないのか」

「なんで熱くなれないのか」

「どうしたら、もっと真剣に取り組むようになるのか」

 

もう、四六時中、そんなことばかり考えていた。だから、トレーニングコーチなのに、読む本は、哲学的なものがほとんだった。そう、「なぜ練習するのか」を突き詰めていくと、「人とはなんだろうか」「人にとって大切なことはなんだろうか」という、答えのないものにいきついてしまうのだ。

そんなときに、内田さんの本に出会った。それ以来、内田さんの本を読みまくった。内田さんにハマる人のことを、タツラーと呼ぶらしかったのだが、実は、内田さんが、そんなに人気のある方とは知りもしなかった。だから、メールを送った。なんと、わけもわからないトレーニングコーチからのメールに直接、返信がきた。嬉しかった。神戸にある内田さんの合気道の道場で行われた講習会にも行った。いやー、あの講習会の、なんとも言えない明るくてエネルギーに満ち溢れている雰囲気、最高だった。

 

そんな、内田さんが書いている言葉で、もしかすると一番好きなのが次の文だ。「腑に落ちる」とは、こういうことなのかもしれない。

 

〔 必要なのは「知識」ではなく「知性」である。「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るのか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。

学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。

古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所である。

 

自分が何を知らず、何ができないのかを言うためには、自分自身を含むシステムの全体についての概括的な「見取り図」を持っていることが必要である。自分がこの社会のどこのポジションにいて、今進んでいる道はどこへ向かっており、その先にはどのような分岐点があり、それぞれの分岐はどこにつながっているのか。それが分からないものにマッピングはできない。マッピングができないということは、主体性が持てないということである。

というのは、マッピングというのは、「自分がいる場所」、つまり「空間において自分が占めている場所」つまり、「他の誰によっても代替不可能な場所」を特定することであるからだ。学術研究論文がまず先行研究批判からはじまるのは、「自分の位置を知る」ことが、おのれの「オリジナリティ」「唯一性」を知るためのたった一つの方法だからである。

 

 主体性とは「他の誰によっても代替されえないような存在で自分は在る」という覚知とともにしか成り立たない。そのためにはマッピングが不可欠である。そして、マッピングのための問いとは「私はどこにいるのか?」「私は何ものであるのか?」といった実定的な問いではなく、「私はどこにいないのか?」「私は何ものでないのか?」「私は何ができないのか?」という一連の否定的な問いなのである。学校教育とはほんらい、このような否定的な問いを発する訓練のための場である。自分が「何を知らず、何をできないのか」を正しく把握し、それを言葉にし、それを「得る」ことのできる機会と条件について学びをしること、それが学校教育で私たちが学ぶことのほとんどすべてである。

 

それさえ提供できれば、すべての場所は「学校」である。それは制度である必要も、空間的現実である必要もない。たとえば、サイバースペースはもはや十分に学校として機能している。なぜなら、そこで何かのデータを得ようとするものは、何よりもまず「自分はどのようなデータを欠いているのか」「自分はそのデータに到達するためにどのようなスキルを欠いているのか」をできるかぎり分かりやすい言葉で交信の相手に伝える必要があるからだ。自分の「欠如」や「不能」を適切に言語化する能力を人間関係に翻訳すると、それは「ディセンシー」と呼ばれる。求めているデータを待つときの忍耐と沈黙は「レスペクト」と呼ばれる。

インテリジェンスとは、「おのれの不能を言語化する力」の別名であり、「礼節」と「敬意」の別名でもある。それが学校教育において習得すべき基本である、その原点に立ち戻れるならば、私たちの前にはまだ無数の可能性が開かれているように思われる〕 ( 「おじさん的」思考 角川文庫 ) 

 

特に、最後が好きだ。

〔 インテリジェンスとは、「おのれの不能を言語化する力」の別名であり、「礼節」と「敬意」の別名でもある 〕

言い方を変えれば、自分自身が未熟者であることを認めることで、初めて他者への敬意が生まれるということだ。つまり、それができる人が「知性」があるのだと。

 

50を過ぎても、まだまだ、「知性」のかけらもない私だが、自分の未熟さを認めることなら、少しずつはできるかもしれない。それができたとき、初めて、いつまでも平行線のままで終わってしまった選手たちと、ほんの少しは交わることができたのかもしれない。

 

選手のやる気をどう引き出すか、脳の仕組みにそのヒントの一つがある。

 

脳科学者の池谷裕二さんが、こんなことを書いてくれている。

 

脳には入力と出力があります。いや、身体感覚(入力)と身体運動(出力)の二点こそが、脳にとって外部接点のすべてです。ですから、入力と出力はともに重要です。しかし、入力と出力、どちらが重要なのかと問われれば、私は躊躇なく「出力」と答えます。感覚ではなく、運動が重要ということです。

 

理由のひとつは、第13章で書きました。脳は出力することで記憶すると。脳に記憶される情報は、どれだけ頻繁に脳にその情報が入って来たかではなく、どれほどその情報が必要とされる状況に至ったか、つまりその情報をどれほど使ったかを基準にして選択されます。

 

このことは、第11章で書いた『笑顔』の効果とも関連します。笑顔に似た表情を作るだけで愉快な気分になるという実験データです。楽しいから笑うのでなく、笑うから楽しい、つまり、笑顔という表情の出力を通じて、その行動結果に見合った心理状態を脳が生み出すのです。やはり出力が先です。

〜中略〜

「何事も始めた時点で、もう半分終わったようなもの」とはよく言ったものです。私たちの脳が「出力を重要視する」ように設定されている以上、出力を心がけた生き方を、私は大切にしたいと思います〕

(『脳には妙なクセがある』扶桑社)

 

感覚よりも運動が大切とは、トレーニング指導者の私としては、なんとも心強いお言葉。ん、しかし、つい先日のブログで「感覚」が大切だって書いたばかりのような気もするが、まあ、いい、それは置いておこう。

 

まず、「脳は出力することで記憶する」という。これは、とてもよくわかる。出来の悪い私は、テスト勉強するさいに、先生の話を聞いてるだけでは、ほとんど覚えることはできなかった。しかし、書くことで覚えようとすると、明らかに頭に入る量が増えるのだ。教科書を読むのも、黙読よりも、音読の方が圧倒的に記憶に残る、これは間違いない。高校時代に教わった古文は、他は全て忘れているのに、何度も音読で覚えさせられた 「る、らる、す、さす、しむ、」 という、確か助詞だか助動詞の音読は、30年以上経った今でも言えるのだから。まさに「出力」恐るべしである。

 

そして、やる気についてもそれは同様だと池谷さんは言う。つまり、やる気があるからやるのではなく、やり始めるとやる気か出ることが多々あると。例えば、年末での大掃除だ。カミさんに言われて、仕方なしにイヤイヤ始める。ところが、いざ始まると、掃除すること、きれいにすることが楽しくなってくるのだ。気がつけば、あっという間に夕方になってしまうのだ。身体運動という「出力」がきっかけとなり、やる気が出てくる、それの典型である。

 

「やる気がないならやらなくていい」というのも、もちろん時によっては必要である。しかし、まずは脳に出力させる、つまり運動をさせてしまうことでやる気を引き出すこともできるのだ。むしろ脳の仕組みからすると、そのやり方はかなり有効的なのだ。「健全な精神は、健全な肉体に宿る」という言葉が表すように、昔の人はとっくに気づいている、まずは身体を動かすことの重要性を。そう、だから、あからさまにやる気のない態度の選手がいたら、こう言えばよい。「つべこべ言わずにやってみろ」 と。

 

今どき、こんなことを言うと、パワハラで訴えられそうな気もするが、かのNIKEだって言っているではないか。

 

JUST DO IT !  とにかく、やってみろ ❗️

「最近の選手たちは、自分で考えることができない」

高校生や大学生を指導していると、様々なところで、そんな声を聞く。私自身も、どうやったら選手たちが、もっと自分で考えるようになるのだろうか、常に試行錯誤している。

 

では、そもそも「考える」とは、どういうことか。

 

平川克美さんが、こんなことを書いている。

 

[重要なことは、答えを知ることではなく、問いを立てることだ

考えるということは、「答えを求めるということではなくて、引っかかりのある事柄にアンダーラインを引くということ」

 

例えば、書物を読みますよね。読んで、みんなアンダーラインを引いたり、付せんを貼ったりするわけですよね。あれは、どこにアンダーラインを引きますか。おそらく、自分がまったくわからないところに引いていないはずなのです。自分がまったくわからないという部分には引きようがないからです。そこはちんぷんかんなので、心に響いてこない。だから読み飛ばしてしまうはずです。でも、かといって自分がすべて知っていることにもラインは引かないと思うんですよ、

「何だこれ、あたりまえじゃねえか()」という話です。

 

そうすると、いったいどんな部分にアンダーラインを引いているんだということになります。それは、きっと「未知でも既知でもない部分」です。

おそらくは、自分が日ごろ何となく思っているんだけど、言葉にできないことがあり、それをうまく言葉にしてくれているところや、自分が日ごろからあたりまえだと思っていたことに対して、まったく異なった見方が提示されているところじゃないかと思います。こんなものの見方があるんだということに出会ったときに、アンダーラインを引くわけでしょ。

 

つまり、アンダーラインを引く行為というのは、自分のなかにはすでにあるのだけれど、まだ完全にそれが自分のものになっていない事柄が、書かれているところ、ということになりますね。

 

ぼくはこれを「未知の言語」という言い方をするのですが 〈まだ生まれていない言語ですね〉 これから生まれてくるに違いない言語に感応するわけです。未知の言語と出会ったときに、そこに線を引くという行為が生まれる。自分がまったく知らないことは考えようもないのですが、かといって、考えるということは、知っていることを確認することでもありません。

 

「未生の言語」の前で立ち止まり、言語が立ち現れてくるのを待つということです。

ほくは、考えるというのはそういうことではないかと思っています]

(「『あまのじゃく』に考える」 三笠書房)

 

 [考えるということは、「答えを求めるということではなくて、引っかかりのある事柄にアンダーラインを引くということ」]

 

この部分を読んだとき、まさに、そこにアンダーラインを引いている自分がいる。平川さんの言葉を借りるならば、未知でも既知でもない部分ってやつだ。言い方を変えれば、「あー、なるほどね、そういうことだったのか」と、思わず膝を叩きたくなるようなときだ。

 

では、選手たちに、アンダーラインを引いてもらうには、どうすれば良いのか。当たり前だが、アンダーラインを引く箇所は、人によって違う。ならば、そのトリガーになりうることを、どれだけ投げかけることができるかだ。

 

ただ、難しいのは、私も含めて多くの指導者は、教えたがりなのだ。ついつい、先に答えを教えてしまうのだ。大切なのは、「答えを教える」のではなく、「問いを立てる」環境をいかに作れるかだ。選手たちが、「自分で考える力」を身につけるには、まずは私自身が変わる必要があるのだ。

 

最後に、ジャン・ジャック・ルソーの言葉を書いて、自分自身への戒めとしたい。

 

子供を不幸にする一番確かな方法は何か、それをあなた方は知っているだろうか。それはいつでも何でも手に入れられるようにしてやることだ

 

 

 

 

 

 

 

地球上にいる限り、外からの力がないと人は動くことができないという。

ニュートンの法則、慣性の法則ってやつを言い換えたものだ。
ということは、走ったり、投げたり、跳んだりするスポーツのパフォーマンスを上げるには、この外からの力をいかに利用できるかどうかが肝になる。
 
では、外からの力とは何か?

外からの力は、主に2つあると言う。
⑴重力 と ⑵床反力 だ。
 
⑴重力
最近、自分で動いて感じるのは、動き出しのきっかけは、この重力をいかに利用できるかにかかっているように思う。重力をうまく利用できると 、ほとんど頑張っている感じはしない。
別な言い方をすると、楽に動けるのだ。抜重と呼ばれたりもする動きだ。
 
⑵床反力
床反力とは何か?
床を100kgの力で押したら、その反対方向に100kgの力がかえってくるってやつだ。いわゆる作用反作用の法則だ。つまり、床反力は床を押す力が強いほど大きくなる。
 
したがって、例えばある場所から2m離れた場所に瞬時に移動できる人は、重力と床反力を最大限に利用して移動しているというわけだ。
 
なんだ、当たり前のことって感じがするが、そうなのだ。武道の達人もバスケのスーパースターも、動いている原理は同じなのだ。
効率よく動くヒントは重力と床反力にある。
 
だから、床反力を高めるために、スクワットやデッドリフトなどで出力を向上させることは、無駄にはならない。
しかし、出力を高めるだけでは、なかなかパフォーマンスの向上にはつながらないのも事実だ。
 
なぜか? 
 
ひとつには、作用反作用の法則は、強い力で押すほど大きな力が返ってくるということ。だが、それと同時にもう一つ大事なことがあった。力は必ず押した方向と反対方向に返るということだ。
上に行きたければ、真下に押し、前に進むには、斜め下後ろ方向に地面を押す必要があるのだ。どんなに大きな床反力をもらえても、押す方向を間違えれば、とうぜん、ロスにしかならないのだ。
力を出す方向はとても大事なのだ。
 
さらに考えなければいけないのが、地面からもらった力をどう伝えるかだ。例えば野球のバッティング。大きな床反力をバットに伝えなければ、ボールを遠くに飛ばすことはできない。しかし、安定すべきところが安定し、動かしたいところがが適切に動かなければ、効率よくバットに力が伝わらないのだ。力を伝えらるかどうかも、きわめて大切なのだ。
 
そして、おそらくある意味、一番大切なのだが、難しいことがある。それは、力を出すタイミングだ。どんなに、力の方向と伝達がうまくいっても、肝心かなめのバットにボールが当たるときに力が出ていなければ、ボールは遠くには飛んでくれないのだ。大きな出力を出せても、力を出すタイミングが合わなければ、高くジャンプすることはできないのだ。
 
パフォーマンスの向上、言い換えれば、適切に動くために大切なことを整理する。
 
■出力の向上
■適切な力の方向
■適切な力の伝達
■適切な力を出すタイミング
 
私は、高校まで野球をやり、大学から20代後半までラグビーをやっていた。しかしながら、なかなかトレーニングしていることが、パフォーマンスの向上に結びつかなかった。それどころか、適切に動かすことができなかったので、怪我にも苦しんだ。
 
だから、どういうトレーニングをすればパフォーマンスの向上につながるのか、そのことに興味を持つようになった。しかし、なかなか、その答えにはいきつかなっかった。
 
5年前にSchool of movement という団体主催のムーブメントファンダメンタルズという20時間に及ぶセッションを受けた。すると、それまでわからなかったこと、うまく説明できなかった様々なことをつなげることができるようになってきた。あと30年早く出会っていれば、もっと競技人生を楽しめた、それは間違いないように思う。
 
もちろん、ムーブメントトレーニングは魔法でもなんでもない。メッシも、大谷翔平選手も解剖学的、力学的、運動学的には同じ、すなわち、ムーブメントスキルも学ぶことができるのだ。
50歳を過ぎた今、私の役割は、1人でも多くの方に、このスキルを伝えること、大げさに言えば、それが、私の使命だと思っている。
 
そんな学びにご興味のある方は、School of movement のホームページを覗いてみてください! 
ムーブメントトレーニングの詳細