例えば、スクラムはどうとか、パスは前に出してはいけないとか。
「ラグビーで学ぶ」と考えれば、仮にレギュラーになれなくても、あるいは、目標とした試合に負けたとしても、学ぶことは沢山あることになる。
今朝のニュースで、全国高校総体が中止になる公算が高まるとあった。全国中学校体育大会も中止する方針であると。
こうなると、夏の高校野球大会も中止になる可能性が強いかもしれない。20年ほど、高校野球部のトレーニングをサポートしていることもあるのだが、選手たちの気持ちを考えると、言葉がない。
私の娘も、中学3年になった。ミニバスの頃からバスケの魅力にとりつかれ日々練習や試合に明け暮れてきた。チームは決して強くはないし、娘も凄い選手でもなんでもない。が、この休校期間中でも、自分で走ったり、ドリブルの練習をしているのを見ていると、なんとも言えない思いである。
全国の各地で、試合や大会に向けて、それぞれのカテゴリーの中で、そして、それぞれの環境の中で、日々目標に向かって練習している選手たち。そんな選手たちが目指すべき大会がなくなったら、どれほど悔しいことか、どれほど残念なことか。
そんな、選手たちに、今、何を語れるのか。先週からオンラインでの指導を始めて、彼らの顔を見ることはできている。そして、私のオンラインでのつなたいセッションに真摯に取り組んでくれている。
そんな彼らに、私は何を目指せと言えるのか。
誰も経験したことがない状況、そんな中、正解など、もちろんない。
しかし、ひとつ私の中で拠り所があるとしたら、そもそも部活動は何のためにやっているのか? という問いである。
その問いへの私の答えならある。
それは、私がこの仕事をしている原点とも言えるものだ。
35年前、私は高校1年生だった。そして、東京都立東大和高校の野球部の門をたたいた。当時の東大和高校は都立の星と呼ばれる強豪チームだった。監督だったのが、故佐藤道輔先生である。
『甲子園の心を求めて』(報知新聞社刊)という、当時の高校野球に携わる先生方のバイブルとしても読まれていた本を書いていた佐藤先生。
そんな、佐藤先生の教えは一言で言えば、「練習するグラウンドが、君たちの甲子園だ」 となる。先生は常々、高校野球は部活動の一環、つまり、教育の一環に過ぎないのだ。だから、日々の練習の中で、野球を通じて、仲間を通じて、自分自身を成長させるものである。だから、野球が上手いこと、勝つことよりも、人として誠実であるとか、なにごとにも全力でぶつかることであるとか、仲間を思いやることとか、そんなことができる選手になって欲しいと。我々同期が卒業間近のとき、こんなことを話してくれた。
「君たちは、今、人生をマラソンで例えたなら、国立競技場を出たばかりのところだよ。俺なんかは、正念場の30㎞あたりを走っているんだよ(当時47歳)。どうか、野球部ではレギュラーになれなかったとしても、人生のレギュラーになって欲しい」と。
この時、教えて頂いた佐藤先生の言葉は、私が指導者として学生に携わる原点になっている。そして、奇遇にも、指導先の高校野球部の先生にも、佐藤先生の『甲子園の心求めて』を読み、先生になった方がいる。その先生は、現在、卒業する3年生に向けて。こう伝えるのだと言う。
「目標は甲子園、でも野球をやる目的は、いい男になるため」と。
もしかしたら、ほとんど、全てのカテゴリーの選手たちにとっての、青春を賭けてきた大会が無くなるかもしれない。それは、もちろん、悔しいことだし、残酷なことである。しかし、目標はなくなるかもしれないが、目的は、一番大切な、野球をやる、バスケをやる、目的には、大会がなくても近づけることはできるのだと思う。
少なくとも、今の私には、そこにしか拠り所はない。いや、コロナの影響は関係なく、私はそのことを信じている。
ならば、オンラインでの指導であっても、その原点だけは私が見失わないようにしたい。佐藤先生、見ていてくださいね、今こそ高校時代に教えて頂いた、まさに『東大和魂』をもって人生に取り組みたいと思います。私も50歳を超え、まさに当時の佐藤先生と同じように、マラソンで言えば正念場の30㎞過ぎ当たりを走っております。どうか、私のことを、選手たちのことを見守ってください!
日本の、世界の人たちのことを見守ってください。
4月1日から、全ての指導先であるチームが部活動停止になった。
とりわけ時間だけはたくさんあったので、Zoomというアプリを使用しオンライン指導ができるようにと使い始めた。そして、先週の木曜日から、ようやくオンラインでのチーム指導を開始することができた。私も選手側も、まだまだ操作に慣れないこと、ネット環境が思わしくない不具合が多少あること、などのハード面でのエラーはやむを得ない。そして、おそらく回数を重ねれば、それは解決していくように思う。だから、そうではなくて、1週間ほどやってみて、何を感じたか、それを素直に書きたいと思う。
オンラインでもライブの指導でもきわめて大切なことがある。
それは何か、「選手の感覚を引き出すこと」である。
そのための前提は、主体性をもって取り組んでもらうこと、言い方を変えれば、「内観」してもらうこと、それができるかどうかが指導の肝であるのだ。
私の知り合いで尊敬するコンディショニングコーチの冨樫泰彦さんが、オンライン指導での気づきを自身のブログに、こんな風に書いてくれている。
「理屈だけでは通用しません。
勢いだけでは通用しません。
正論だけでは通用しません。
一方的だけでも通用しません」
そして、こう綴る。
「果たして、この環境下でこれらを統合しながら進めていけるコーチがどれだけいますでしょうか?
自分自身、さらに見識を高めていかねばならないことを痛感します」
実際に、オンライン指導をやらせてもらって、冨樫さんの言葉の意味が、ズシリと響く。当たり前だが、実はライブでの指導でも、まったく同じなのだ。しかし、オンラインでやると、よりそのことが認識されるのだ。まさに、理屈だけでも、勢いだけでも、正論だけでも、一方的だけでも、通用しないのだ。
私なんかは、どちらかと言うと、勢いだけでやってきた。そのことを、この1週間でまざまざと見せつけられた。もっと、選手にわかりやすく説明できる言葉の力が欲しい。わかりやすくデモンストレーションする力が欲しい。選手の動きを見る目、そして選手の声に耳を傾けられる力、さらには、トラブルが発生した際の適応力、など、ホントに様々なことが不足している自分を知ることができた。
まさか、そんな指導者としての大切なこと、コミュニケーションにおいて大切なこと、もっと言えば人としての器の大きさを、オンライン指導なるもので突き付けられるとは思ってもいなかった。
オンライン指導をして、改めて思うこと。
指導するということ、人に何かを教えるということは、自分自身が教わるということなのだ。そして、ありがたいことにオンライン指導に取り組むことで、その学びが一気に加速したのだ。良くも悪くも、今まで当たり前のようにあった現場での指導、下手をすると、何も考えずにできてしまっていた日常があった。言い方を変えれば、「学ぶ」ことは、知らず知らずに薄れていたのだ。
未知なることにチャレンジするのは勇気がいる、そして、えらい労力がいる。でも、そのことで私自身が学ぶことは、数倍にもいや数百倍にも膨れる上がるのだ。オンライン指導ができることに感謝。
人は変われるのか。
その少年は高校1年の冬の練習が始まる時までは、1年生の中でも体の線も細く筋力もないまったく目立たない少年だった。その少年が所属していた野球部の、冬の練習の最後は必ず12分間走だった。少年はいつも真ん中より少しだけ前くらいの順位だった。
ところが、いつのまにか先頭集団についていけるようになり、気づけばトップに近づきつつあった。筋肉などまるで無かった体にも、着実に筋肉なるものが見えてきていた。
2年生になった春の体力テストでは、持久走だけでなく、50m走でもクラスで1位2位を争うタイムを出せるようになっていた。
少年は一冬で青年に変わった。それは単純に体力が向上するだけではなく、何も自信がなかった彼の心に、やればできるという生まれて初めての経験を植え付けてくれた。
青年になった少年も、もう50超をえた。そして、私のように自信など全くなかった選手たちにトレーニングを指導する立場となった。人は変われる。それは細胞から考えればとうぜんのことだ。養老孟司さんによれば、7年経てば人の細胞はすべて生まれ変わると言う。つまり、細胞レベルで言えば、私は7回も生まれ変わっているのだ。
「自分なんて何やってもだめですよ」
「どうせ自分なんて」
もう一度言う、人は変われる。
そのことを伝えられれば私の役割は、ほとんど終わったも同然である。
約20年ほど、高校生と大学生の部活動の中でトレーニングのサポートをしている。おかげさまで、個人事業主となっても仕事は継続し、なんとか飯を食ってきた。とりわけて、何か凄いものをもっていたわけでもないが。が、あえて自分の強みは何かと問われば、多人数の選手、しかも高校生や大学生という身体的にはもちろん、精神的にも未熟な選手たちと向き合うことができることだと思っている。だから、時には取り組む姿勢が悪い選手にも、容赦なく怒ることもある。トレーニングコーチというよりも、生活指導員ではないかと疑うことさえあるくらいだ。
いずれにしても、私は部活動の中で、もがき苦しみ、成長しようとする選手たちと共に同じ時間を過ごすこと、言い方を変えれば、あの現場の空気感が好きである。
ところが、そんな空気感を味わえない状態が、こういう形でやってくるとは想像だにしていなかった。学校の休校、すなわち部活動の停止である。今の時点では、早くてもゴールデンウィークまでは現場に行くことができないのだ。状況を見ていると、下手をするとさらに長引く可能性もあるくらいだ。
時間ばかりはたっぷりあるので、オンラインによる指導、YouTubeの配信など、今やれることに時間をかけることにした。当たり前だが、今までやったことが無かったので、えらい労力がいる。しかし、不思議なもので、3週間ほど経った今、少しずつではあるが、新たなチャレンジが軌道にのってきた。もちろん、まだまだ不慣れなことに変わりないが。
それでも、この歳になって新たなことにチャレンジできたこと、これは、ほとんど唯一と言ってよい、くそコロナ野郎のおかげである。現場での空気感には及ばないが、オンラインだから気づくこと、できることもあるのだ。これは面白い。
自分の殻を破ること、おそらく歳をとればとるほど、それは難しくなる。内田樹さんが、ブレイクスルーについて、こんなことを書いてくれている。出典本が何か、なかなか家の本を見直しているのだがわからないのだが、内田さんは、ご自身の書いたものは、許可なくがんがん使用していい旨を書いてくれているので、使用させて頂く。以下、内田さんの言葉である、相変わらず腑に落ちる。
☛
学ぶものに「ブレイクスルー」をもたらすのがメンター(先達) の役割です。「ブレイクスルー」というのは、教育的な意味においては、「自分の限界を超えること」です。
「自分の限界を超える」。言葉は簡単ですけれど、それほど生やさしいものてはありません。というのは「これがオレの限界だ」と言ってすらすらと記述できるようなものは「自分の限界」とは言わないからです。それはただの「欠陥」や「不調」にすぎません。欠陥が改善された、不調が修復されたりすることはブレイクスルーとは言いません。だって、改善されたり、修復されたりしうるというのは、「改善前」に頭の中で考想しうるようなものは「限界」とは言いません。
ブレイクスルーというのは、喩えて言えば、日本地図だけしか持っていなくて、その地図の自分の街の場所しか知らなかった人が、突然、東アジアの地図を差し出されて、「君の街はここだよ」と指し示されたような気分のものです。
ブレイクスルーというのは、自分自身を見つめる「視点」が急激に高度を上げることです。
自分自身を「それまでより広い地図の中で」、つまり「それまでより高い鳥瞰図的視座から 」見返す経験のことです。
そのとき、自分をこれまでとは違う倍率でみつめている想像上の「鳥瞰図的視座」のことを「メンター」と呼ぶのです。ですから、それは厳密に言えば「ひと」ではありません。「私を高みから見ている機能」なのです。
「学び」というのは自分には理解できない「高み」 にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行します。その「巻き込まれ」が成就するためには、自分の手持ちの価値判断の「ものさし」ではその価値を考慮できないものがあるということを認めなければいけません。自分の「ものさし」を後生大事に抱え込んいる限り、自分の限界を超えることはできない。知識は増えるかもしれないし、技術も身につくかもしれない、資格も取れるかもしれない。けれども、自分のいじましい「枠組み」の中にそういうものをいくら詰め込んでも、鳥瞰図的視座に「テイクオフ」することはできません。それは 「領地」を水平方向に拡大しているだけす。
「学び」とは「離陸すること」です。
それまで自分を「私はこんな人間だ。こんなことができて、こんなことができない」というふうに想定していた「決めつけ」の枠組みを上方に離脱することです。自分を超えた視座から自分を見下ろし、自分について語ることです。自分自身の無知や無能を言い表す、それまで知らなかった言語を修復することです。