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ムーブメントコーチ ロボラガーのブログ

ムーブメントコーチ(重心移動のスキルを指導)として、高校生や大学生中心にトレーニング指導をしております。現場での試行錯誤を書きたいと思います!

School of movement 認定 マスターコーチ

人間の基本的な心理的欲求には次の3つがあると言う。

①有能感(Competence)

    自分が「できる」という感覚

②自律感(Autonomy)

    自分のやることを自分で決められるという感覚

③関係性(Relatedness)

   居場所がある、関わっているという感覚

 

自分に置きかえてみてみたい。

ひとつめの有能感。もう間違いなく、「できる」「できた」という経験は単純に嬉しい。もちろん、最初からできるような簡単なことだと、この喜びは少なくなる。できそうでできないこと、自分にはとても無理だと思っていたことができるようになったときの喜びは計り知れない。

 

ふたつめの自律感。私は18年、個人事業主としてトレーニングのサポートをしている。だから、この自分のことを自分で決められる環境にある。それゆえ、ここに対するストレスはあまりないのが現状である。しかし、時々ではあるが、監督やスキルコーチが、私の担当しているフィジカル面に強く介入してくることがある。そうなると、とうぜん、かなりのストレスを感じる。なんで自分のことを信頼してくれないのか、そんな疑心暗鬼な気持ちにさえなってしまう。

 

最後の関係性。さきほどの、自律感ともつながるのだが、やはり、そこにいることで、自分にしかできない役割を感じられることは、むちゃくちゃ大切であると思う。個人事業主ということもあるが、「森下さんでなければダメだ」という存在になろうと思ってきた。居場所を感じること、超重要!

 

では、果たして指導している選手たちに、この3つのことを感じさせていることができているだろうか。

毎回のセッションの中で、有能感を感じるプログラムを実施できているだろうか。全てがこちらからの一方的な指示で、彼らの自律感を奪ってはいないだろうか。そして、そこに一人一人の居場所を作ることができているだろうか。

 

指導者側の私の考え方ひとつで、選手たちの伸びしろは、まだまだ無限にあるのだ。私が変わること、それが選手が成長する一番の近道である。

 

 

私は教師ではない。
20年ほど高校生と大学生の部活動の中でトレーニング指導をしているにすぎない。私のチームでの役割は、選手のパフォーマンス向上の手助けと怪我の予防である。だから、もちろんその役割のために日々試行錯誤している。しかし、現場にどっぷり浸かるほど、もっと違う何かを彼らに伝えたいと思うようになった。
 
格好よく言えば、それは「人生にどう向き合うか」、簡単に言えば生き様だ。
 
長らく大学の教員をしていた武道家の内田樹さんがこう語る。
 
「教育の最終的なアウトカムは計量不能なんです。教育の効果は数値化できない。だから教育を『投資と利益の回収』というスキームで論じるには、はじめからお門違いなんです。教育のアウトカムは、卒業後に得られた地位や年収でしか測定できないというのは、だいたい、いつ誰が決めたことなんですか。
『内田さんが学生を教えるときの教育目標はいったい何ですか?』とよく聞かれます。
僕の答えは簡単です。
『彼らが幸福な人生を送ること』
そういうと、みんな驚いた顔をする。でも、教育の目的にそれ以外に何があるんですか?
『幸福な人生を送る』。
そこでの『幸福』とは実に計量しがたいものです。幸福を数値的に表現することは不可能です。 
会社だったら、四半期ごとの収支がすぐわかるかもしれない。だけど教育の場合、こちらが学生に対してやったことがどういうかたちで実を結ぶかなんてことは、5年や10年みないとわからない。もしかすると、30年、40年かかるかもしれない。
それどころか、臨終のときになって。『今にして思えば、私の人生がこんなに充実していたのは、大学で受けた教育のおかげだった』というようなことをぽろりという事だってありうる。
~中略~
教育のアウトカムというのは、教育を受けたものが自分の人生を回顧したときに自己決定するものです」 
(『最終講義』 技術評論社)
 
コロナの影響で、多くの部活動が休止となり、目標としていた大会の中止も発表され出した。もちろん、選手のみならず、サポートしてきた先生方も悔しい思いしかない。しかし、こんなときだからこそ、「なんのために、学校はあるのか、教育の目標とはなんなのか」、その根本的な問いを、指導者は問わなければならない。
そして、それは、私のように外部指導員として、時々しかサポートしていないコーチも同じく考えなければならない。
 
そのことに、向き合わなければ、今の現状の前で、選手たちにかける言葉に説得力を持てない。青春を賭けて、日々の練習に取り組んできた彼らに何を伝えることができるのか。
でも、ほんとうに大切なことは何なのか、そこさえ、指導者が見失わずにいることができれば、選手たちにとって、今は悔しさと、絶望しか感じることができなかったとしても、必ず卒業したあとに、
「あのとき、おれが部活でやってきたことが、その後の人生にどれほど大事なことだったのか」、必ず気づくに違いない。
 
一介のトレーニングコーチにできること、それは、自分の人生を受け入れ、目の前のことに全力で生きること、それしかない。
明日も選手たちのエネルギーに負けないよう、全力でオンライン指導に臨みたい!
 
 
 
32年前、高校まで野球をやっていた私は大学では体育会のラグビー部の門を叩いた。入部して2週間経ったころ、当時の主将に手紙を書いた。その内容は 「こんな練習をしていても勝てないと思います」 という、今思えば信じられないくらい生意気な内容だった。
2年生になったときも、新たに主将となった先輩に手紙を書いた。
「もっとこういう練習をした方が良いと思います」という、これまたクソ生意気な話である。ところが、当時の主将は、一部私の意見を受け入れてくれて、それまで各自がフリーでやっていた筋力トレーニングを、チームとしてやることにしてくれたのだ。
 
そんな、クソ生意気な後輩だった私、今でも人としての器が小さいが、当時はもっと小さかった。自分の正しいと思ったことは、たとえ先輩でも譲ることがイヤだった。折り合いをつけるとかいう発想は皆無だった。言い方を変えれば、わがままでイヤな奴だ。
特に嫌いだったのが先輩から飲みに誘われて、しかも酒を飲まされること。この文化がイヤでイヤで仕方なかった。だから、飲みに誘われても、たいてい断って1人家に帰った。私はそうとう可愛げのない後輩だった。しかし、そうなると良いこともあるもので、「森下はああいうやつで、付き合いの悪いやつだから誘っても仕方ない」と思われるのだ。そうなると、飲み会の席でも先輩に無理強いされることはほとんどなかった。もちろん、それでも飲まされて救急車に乗ったことがあったようなのだが、幸いにもまったく覚えていないのだ。何を30年以上前の昔話をしているのかと言うと、伝統を作るのは自分たちだということ。何かを変えたいと思ったら、無茶苦茶エネルギーがいるのだ。
 
ものごとを変えれるのは、「よそ者」 と「バカ者」と「若者」である。と言う。そう、当時の私は「バカ者」であり、「若者」だったのだと思う。
 
でも今の私は、せいぜい「バカ者」が若干残っているくらいか、もはや「若者」には絶対になれない。チームを変えたければ、まあよそ者にはなれないので「バカ者」になれということ、なぜなら、もう一つの条件は満たしているのだから。そう、君たちは全員「若者」であるのだから。
数学者の森田真生さんが、過去にこんなことをツィートしている。
「生きるということは、築くだけでなく、ほろびていくことであり、くずれていくことだ。だから教育が『生き方を伝える試み』(鶴見俊輔)だとしたら、間違うことのできない教師に、人を教えることはできない」
 
「間違うことのできない教師に、人を教えることはできない」
教師でなくても、あらゆるコーチや指導者の中で、このことを生徒や選手たちの前で、さらけだせる人がどれだけいるだろうか。
得てして、先生や指導者になる人は真面目な方が多い。そして、理想の人間像を持っており、自分自身もそうありたいと願っている。私も指導者の端くれとして、40代後半まで、そうありたい自分がいた。
 
20年近く、お世話になっている高校野球部の先生がいる。その先生は、選手達の前で、これができる稀有な先生である。平気で、選手達の前で、ダメな自分をさらけ出す。例えば、こんな感じだ。
バッティングの動きで新たな考え方を選手たちに伝え、実際にやらせてみる。少しやって上手くいかないなと思ったときに、「あー、やめた、やめた、今のは無し! ごめん、ごめん、これの方が良いかと思ったけど、やっぱやめよう」。自分を笑いながら責めて前言を意図もたやすく撤回する、選手たちも笑う。そこには、指導者側の押し付けの空気感は微塵もない。
その先生に教わっているチームの選手たちに特徴的なことがある。とにかく明るいのだ。野球をやることを、まるで野球小僧のように楽しんでいるのだ。私から言わせると、60を過ぎた先生こそが、まるで野球を追求することを楽しむ、野球小僧そのものなのだ。
 
私自身は、ようやくここ最近になって、選手達の前でも恥をかくことが少しずつできるようになってきた。とは言え、まだまだ、未熟な私は選手の前で見栄を張り、偉そうな物言いをすることも多々あるのだが。くずれていくこと、間違うこと、それを認めることができるかどうか。真面目が悪いわけではない、しかし、くずれていくことを認めることで、人生がもっと豊かになるに違いない。

 チーム指導の場合、テンポやリズムがとても大切になる。
 それは、ある意味集団を指導するうえでの肝になるように思う。
 一度でもチーム指導したことがある人なら、それがわかるかと思う。例えば20人の選手が同時にトレーニングを行う。1人だけ、どうしてもうまくできない選手がいる。もちろん、彼のエラーを少しでも修正したい。が、そこでその選手に焦点を当てすぎて、彼のエラーを修正しようとし過ぎると、他の選手たちにとっては、間が空きすぎることになる。つまり、私が1人の選手にかかりきりなってしまうと、他の選手が集中力を切らしてしまう可能性がある。おそらく、多人数指導の場合、このさじ加減ができるかどうか、それが、きわめて大事になる。

私がそのテンポとリズムを、初めて目の当たりにしたのは、かれこれ20年近く前になる。それは、私が当時所属していたラグビーチームに私の師匠にフットワークの講習会をやってもらった時のことだ。その日はちょうど雪が降りそうなくらい寒い日だった。
すると師匠、「グランドを5周走ってきて」。せっかく来てくれたのだから、アップもやってくれるかと期待していた私は、いささか不満に思いながら皆んなとランニングをした。しかし、言われるがままにグランドを5周すると、走り終わったころには体はポカポカになっていた。むちゃくちゃ寒い日は下手なウォーミングアップをするより、ただのランニングの方が有効かもしれない。

約1時間の講習。30名ほどいるメンバーを前に、師匠のストロングポイントの圧倒的なデモンストレーション力と的確なポイントの指示。そして、我々選手を冷えさせないテンポとリズム。
毎度のことなのだが、師匠の指導を受けると時間はあっという間に経つ。師匠は自分でも公言しているが、決して人前で話すのは得意ではない。だから、言葉の説明は極めて少なく短い。
見本を見せて、とにかくやらせる。同じ動きを何回もやらせる。
そして、時々気づいたことがあるとポイントを言う。そして、またやらせる。すると不思議、最初できなかった動きがだんだんできるようになるのだ。まさに体で覚えさせるというものだ。


時間があっという間に経つ、これってものすごく大事なように思う。トレーニングに限らず、技術練習でも学校の勉強でも、面白く、集中しているときは、ホントに時間が経つのはあっというまだ。 だから、そんな練習や授業をするのが待ち遠しくて仕方なくなる。師匠のトレーニングもまさに、その極みで、あー、またいろんなことを教わりたい、そう思う典型なのだ。

そう思える大きな要因が、リズムとテンポが良いということにある。が、ただリズムよく進めばいいわけでない。おそらくそれと合わせて、受け手側が、できなかったことができるようになっている。事前事後を比較すると、あきらかに、自分自身の成長を感じることが、夢中にさせ、時が経つのを忘れさせるのだと思う。

10日前に始めた、オンライン指導も、おそらく指導の肝はそこになるのだと思う。リズムよく進み、かつ成長を実感できる時間となるかどうか。私が師匠に追いつくには、まだまだ遠い。