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ムーブメントコーチ ロボラガーのブログ

ムーブメントコーチ(重心移動のスキルを指導)として、高校生や大学生中心にトレーニング指導をしております。現場での試行錯誤を書きたいと思います!

School of movement 認定 マスターコーチ

私は書くことがわりと苦にならない。

おそらく、最初のきっかけは、高校野球部のときに毎日書いた「野球部ノート」だ。監督やコーチに見せるためではなく、まさに自分のその日の振り返りを書くことが習慣になった。しかし、内容的には大したものでもなく、むしろほぼ書いていることは、「今日も自分の限界を超えることができなかった、明日こそ超えたい」のオンパレードだった。

ただ、高校を卒業するとしばらく、何かを書くことはほとんど無かった。

 

次に、私が書くことを始めたのは、この仕事の前の仕事、生協のトラックの配達員をしていたときのことだ。週に1回、自分の配送先の組合員さんに向けて新聞を書いたのだ。タイトルは『配達員はロボラガー』だ。そう、実はこのブログの原点は、このときにあるのだ。そして、おそらく書く喜びを知ったのがこのときが初めてだ。というのも、B4サイズの手書きの新聞は、最後に質問や要望などの切り取り欄を設けていた。そして、あるときからその返信が多いことが、私の新聞を書く原動力になったのだ。

「いつも配達ご苦労様です」 「新聞、楽しみにしております」 そんな、コメントを書いてそれをわざわざ切り取って、注文用紙と一緒に入れてくれるのだ。正直、当時の仕事のモチベーションを高めてくれる一番が、この返信だったくらいだ。私が結婚報告したときと、仕事を辞める報告をしたときが、もちろん、ダントツで返信も多く頂いた。実は、20年以上前のこの返信コメントは、捨てずに我が家に置いてあるのだ。もちろん、野球部時代に書いた『野球部ノート』もまだ、ちゃんと保管してある。

 

生協の配達員を辞めて、この仕事についてから、しばらくは書く作業と喜びからは無縁なものになっていた。しかし、2012年に、なんとなく誘われてFacebookを始めた。すると、まさに眠っていた私の書くこと、そしてそれに対する反応がある喜びに火を付けた。ほとんど、日記のような私のFacebookへの投稿は今でも続いている。それが、この2月からは、Twitterへと広がり、このブログにもつながっているのだ。

 

もともと、文章を書くことは苦手だった。読書感想文などは、ありきたりのことしか書くことができなかったし、基本的にはあまり好きではなかった。ところが、生協の配達員のときに、返信をもらえる喜びを知ったことと、もう一つ大きな転機となることがあった。Facebookを書き始めて少し経ったころだ。『トレーニングジャーナル』の編集長でもある浅野さんが、「森下さん、アタックネットというホームページのなかで、書評を書くことをしてみませんか」と、声をかけて頂いたのだ。浅野さんから送られてくる本の書評を書くことになるのだが、特にノルマもなく、気軽にやれるということでお引き受けした。私が書評を書きあげると、浅野さんに読んで頂くという作業を繰り返すのだが、これがこれが、見事に私のつたない文章をほめてくれるのだ。

「森下さんの文章は独特で味があります」。文章を褒められたことが無かった私にとっては嬉し過ぎる言葉だった。そんなご縁で、2年前から『トレーニングジャーナル』に、私のエッセイを毎月載せて頂くことになった。実は、10日締め切りの最新の原稿が先ほど通ったばかりなのだ。

相変わらず、浅野さんが、褒めてくれる言葉にのぼせ上りながら、月に1度の原稿をなんとか書かせて頂いている。雑誌の編集長というプロの方とのやりとりのおかげで、書くことの奥深さも感じることができている。例えば、「よっしゃー、いい感じで書けた」と思っても、順番を変えるだけで、文章はまるで別物になるのだ。それから、これが実はけっこう、大事なことなのだが、できた文章を印刷して読み返すこと。不思議とパソコン上では、何度も読み返し、問題ないと思っていたことが、プリントアウトしたものを読み返すと、あるはあるは誤字脱字、そして、違和感。このブログを書く作業では、実はこのプリントアウトして確認することをしていない。だから、投稿したあとで、あわてて修正しまくることが多いのだ。今回のこのブログも、投稿後に実は何度も修正しているのだ。

 

書くこと、それは、自分の思考の整理とともに、新たなアイデアを生むものである。

同時に、私のブログなり、Facebookを読んだ人が、ひとりでも、何かポジティブなことを感じてくれたり、共感してくれるものがひとつでもあったなら、それは何より嬉しいことだ。いや、むしろ誰かに認めてもらいたくて書いているのかもしれない。

 

 

今朝の朝日新聞、『輝く教育』というタイトルのインタビュー。中邑賢龍さん(東京大先端科学技術研究センター教授)が、こんなことを言っている。

「オンライン教育は、時間や空間のしばりを超え、それぞれの子どもにあった学びができる」

この言葉、オンラインのメリットを見事に言い表わしている。

中邑先生はこうも言う。

「教室の一斉指導では元気のなかった子が、オンラインでは生き生きしていた例もあると聞きます。いつでも、どこでも自分のペースで好きに学べる。個別最適な学びがしやすくなる。これは、『凸凹』のある子どもたちにとって学びやすい環境です」

 

私は教師ではなく、トレーニングコーチとして、高校生と大学生の部活動のサポートを20年してきた。、とうぜん、部活動している選手にも、いろんなタイプの子どもたちがいる。しかし、いわゆる学校に来れない生徒には実は接することがない。だから、そもそもが参加することが当たり前の価値観で、選手とも接してきた。つまり、遅刻したり、簡単に休む選手には厳しく対応している。

「おー、誰でも寝坊することもある。でも、緊張感がないから寝坊するんだよ。明日が、絶対に休めない日、就活の面接だったら、絶対に寝坊なんかしないだろう」

「お前な、連絡もしないで休んだら、無断欠席ってことだよ。そんなことをしていたら、どこに行っても信頼なんてされないぞ。信頼されるには時間がかかるけど、信頼を失うのなんて簡単だよ」

とか、さも、もっともらしい話をする。もちろん、部活動を通じて、今後の彼らに大切なことを伝えることは悪いことではない。部活動をやる目的は、競技力の向上以上に、社会に出てからでも頑張れるための練習の場でもあるのだ。

 

ただ、先生や指導者と呼ばれる人が忘れてはいけないことがある。

部活動に出て、みんなと頑張ることだけが正義ではないということだ。部活動に出ている選手たちも、それぞれに得意不得意があるのだ。どうしても、評価されにくいのだが、みんなとやることが苦手な選手もいるのだ。いくらチームスポーツだからと言って、練習も全てが、みんなと合わせてやる必要は本当はないのだ。しかし、我々指導者は、そこにこそ部活動の意義がある、そこからはみ出す選手に対しては、下手をすると完全否定しがちになってしまうのだ。

 

中にはオンラインの方が向いている選手も間違いなくいるのだ。ならば、このまま、その選手だけがオンラインで練習するのかというと、それは難しいが、でも時と場合によっては、それも有りでもいいのではないか。共同体が機能するには、間違いなく秩序がいる。しかし、同時に多様性もなければいけない。それは部活動とて無論同じこと。そして、このさじ加減に答えはない、が、強いて言うなら、それは、リーダー、つまり指導者側の器の大きさによって決まるのだ。部活動を熱心に取り組む先生ほど、真面目で素晴らしい方が多い。しかし、その生真面目さが、それになじめない選手にとっては、デメリットであることにも気づいた方がいい。

 

中邑先生の言葉を借りるならば、「みんなで同じ空間で、同じ時間軸で」という縛りから解放された考えを我々指導者が持てたなら、その組織はもっと面白いものになるのではないだろうか。

今週から現場に復帰できたことは、とにかく有難いことだし嬉しいのだが、なんだか物足りない。

そうなのだ、まだ自主練習の位置づけなので、私は何もしなくてよいのだ。衛生管理の仕事は、もちろん大事なのだが、トレーニング指導という、本来の私の役割であり、逆に言えば、責任もあるものが無いのだ。おそらく、そのせいで、なんだか寂しいような、充実感がないような、妙な気分なのだ。

 

教師とはおせっかいであると言うのは、内田樹さんだが、私は性格的にもまさに、おせっかいタイプ。

言い方を変えれば、教えたがりの典型なのだ。だから、「フリーで各自でやっていいよ」と、自分で言っておきながら、時々、選手をつかまえて、指導を始めてしまうのだ。もはやクセのようなものだ。

 

5月末で多くの指導先の高校野球部のオンラインセッションが一区切りついた。ところが、ほぼ毎日3~4チームのセッションを実施していたものが、急に無くなってしまったのだ。すなわち、教えたがりの私にとっては、今週からは、両翼を一気にもぎ取られたようなものなのだ。

さすがに、コロナがこんなに長引くことも予想していなかったが、現場復帰してすぐに、こんな気持ちになるとは想像だにしていなかった。

 

そして、気づいたのだ、私は教えることが好きなのだ。選手からは迷惑かもしれないが、このスイッチが入ると、時間も経つのも忘れてしまうのだ。まさに自己満足の極みだが、スイッチが入った状態が好きなのだ。だから、教える機会がないと、一気に私のエネルギーも消滅しかねないのだ。

気づけば、5月は1日しか休日はなかった。逆に言えば、オンラインセッションとは言え、ほぼ毎日指導する機会があったのだ。それが、今週から激減してしまったのだ。どうりで、なんだか物足りない気分なわけだ。昨年のラグビーワールドカップ後に、ラグビーロスという言葉が聞かれたが、私の場合はZoomロスとでも呼ぶべきなのか。

 

それにしても、人とはなんて身勝手な生き物なのか。あれほど、現場復帰を心待ちにしていたのに、むしろ指導する機会が減ることになり、なんだか物足りない自分がいるのだから。

 

 

 

2週間ほど前から、風呂に入ったあとでも、身体中が痒くて、かゆくて仕方ない。あまりに毎日、しかも、場所はもう全身に及ぶので、2日前に皮膚科に行った。診るなり先生が、「じんましんですね、今までなったことありましたか?」 「初めてです」 「ストレスでも出るんですが」 「あー、確かにこの2か月自粛で自宅にいたし、仕事のことやいろんなことに不安を感じていたように思います」

幸いにも、頂いた薬を服用したら、かゆみはピタリと止まった。

 

3月2日に、安倍総理が休校要請や、イベントなどの自粛を要請したときから、頭の中ではコロナのこと、それに対する政府の対応のこと、そして、自分の仕事のこと、普段なら、日々の仕事に追われていて、あまり考えもしなかったことを、四六時中考えるようになった。気づけば、ネットでニュースを見て情報を得ようとし、見るたびに、不安や怒りが増長していた。

 

4月になってからは、必死でオンラインセッションを立ち上げ、YouTube配信を始めた。初めてのことだらけだった。しかも、デスクワークが増えたので、肩首まわりはパンパンに張ってしまった。しかし、オンラインセッションが軌道にのり、ほぼ毎日のように仕事ができるようになると、忙しく、コロナの情報を得る時間はおのずと減っていた。相変わらず、肩周りは張っているが、精神的には充実していた。

でも、やはり首肩周りが張るのと同様に、心にもダメージがあったかもしれない。それがじんましんという形で、少し時間を経過してから、出てきたのかもしれない。よくよく、考えたら、この20年、自分の好きなことを仕事にでき、なんとか生活もできていたので、ストレスとは無縁な立ち位置にいたのだ。毎年のように選手は入れ替わるし、多少サポートしているチームに変化はあったが、大きな枠組みは変わらずにこれたのだ。言い方を変えれば、新しいチャレンジはそうなかったし、経験値の枠から大きくはみ出すことには遭遇しなかったのだ。

 

ところが、今回のコロナは、世界中の多くの人がそうであったように、私の小さなこれまでの経験値やモノサシでは、とても測りきれない出来事だった。仕事がいっさい無い状態のときは、おそらくストレスしかなかった。しかし、既存の指導先のチームに何ができるのか、そこを視点にしたら、一気に事が進み、オンラインセッションとYouTube配信にこぎつけることができた。

 

今年の4月、東京の下北沢に発酵食品専門店の「発酵デパートメント」をオープンした、小倉ヒラクさん。あるインタビューを受けて、最悪の時期にお店をオープンし、最初の2週間は地獄だったと話す。

しかし、途中で考え方をこう変えて、楽になったと言う。

途中から判断軸が「自分」じゃなくて、「変わらないものを作っている人たち・支えている人たち」のほうに移ったんだ。 すると視点がぶれなくなって、迷いがなくなってきたよ。それはなんか精神的にも商売的にもすごくよかったなって思う。

 

小倉さんの言葉、すごく良くわかる。4月初旬、たまたま遊びにきていた義兄に、「休校中の選手たちのために、YouTube配信してあげたら喜んでくれるんじゃないかな」 そう言われて気づいた。オンラインセッションもYouTube配信も、既存の指導先の選手たち、チームのためという目的が、はっきり見えてからは、一気に事が進んだのだ。しかも、余計なことを考える暇もないほど、仕事で毎日が充実したのだ。

まさに、小倉さんの言葉を借りるならば、判断軸が「自分」では無くなった途端に、仕事が軌道にのり、精神的にも落ち着きを取り戻せたのだ。

それでも、少し遅れて身体は、じんましんという形で、「お前、もう少し力を抜けよ」というシグナルを送ってきたのだ。

 

小倉さんは、さらにこんなことも話している。

おいしいご飯を作って食べるとか、子供と向き合って遊ぶとか、経済的には生産性ないじゃん。つまり「仕事」と「用事」の違いだよね。仕事は「〜のために〜する」だけど、用事は「おいしいものを食べたいから作る」って自己目的化している。理屈がない、建前がない状態。それが、暮らしの本質なんだよね。

万能感に襲われるとやたら「アフターコロナの世界は」って言ってしまうし、焦燥感にとらわれるとやたら「◯◯チャレンジ」みたいなことをやってしまうんだよ。でも、別にチャレンジしなくていい。好きな植物に、静かに水をあげているのでいいと思うんだよね。それがかけがえのない時間ですよ。
あのね、今回のコロナウイルスで、社会的に大混乱があって大変なことになっているけど、ひとついいことがあるとすれば、今みんな超全力で「暮らす」ために生きているんだよね。

 

たしかに、アフターコロナに向けて、新たなことにチャレンジしなければいけないという、焦りのようなものは常にあったように思う。でも、自粛期間中だろうと、アフターコロナであろうと、日々の些細な暮らしの中に楽しみを見いだせれば、それでいいではないか。

「生きているだけで丸儲け」、明石家さんまも、そう言っているではないか。

全身が痒くて仕方なかったのは、そのことを私に教えてくれる身体からのシグナルに違いないのだ。

 

 

 

 

今日の神奈川県高校野球部の、オンラインセッション。
いつもは、股関節周りのトレーニングからやっていたのだが、順番を変えて体幹と上半身のトレーニングを先にやり、種目数も少し増やした。終了後に、今日の気づきを全員に聞いていたら、2人の選手が、「今日は上半身を先にやったので、後半の股関節の動きのトレーニングをやる時に、いつもより股関節を意識できました」というコメントを話してくれた。
「おー、それは面白いね。そうか、俺も気付かなかったけど、順番変えると感覚が変わるんだね、面白いね」
 
今日は3年生がいなく、人数も10人しかいなかったので、終了後に全員に感想を聞いてみたのだ。結果として、先ほどの2人の声も拾えたのだ。よく考えたら、どんなに多人数いようが、こうした問いかけは、あった方がいい。まず、何が良いって、選手自身が自分の身体で感じたことを言語化する練習になる。
つまり、言語化するためには、内観する作業が必要になるので、トレーニングを通じて内観する力が磨かれる。それと、もう一つ、彼らが言語化してくれたことを私が確認できるので、私自身がセッションの反省や、あるいは新たな発見を得ることができるかもしれないのだ。
 
少し刺激を変えるために、順番を変えてトレーニングした。そして、全員にインタビューしたことも、あくまで偶然だったのだが、そのおかげで、もしかしたら、当たり前だがやってこなかった大切なこと。
そう、今日のセッションをやっての気づきを、全員に問いかけること。そこに私が気づけたことが大きい。明日からの他のチームでのセッションでも、可能な限りやっていきたい。全員にライブでインタビューすることは時間的に難しくても、書いてもらうことをすればいいのだ。そうなのだ、zoomには、チャットといって、コメントや質問を書ける機能が付いているのだ。これを利用しない手はないではないか。
そして、これはライブでも同じなのだ。よく考えたら、セッション前とセッション後、いわゆる事前、事後の変化の確認を毎回言語化してもらう作業を私はできていなかった。早速、こちらも明日から実践していきたいと思う。
 
今日のセッション後に、自分の気づきを話してくれた選手に感謝。