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ムーブメントコーチ ロボラガーのブログ

ムーブメントコーチ(重心移動のスキルを指導)として、高校生や大学生中心にトレーニング指導をしております。現場での試行錯誤を書きたいと思います!

School of movement 認定 マスターコーチ

昨日、久しぶりに選手たちと再会した。ちょうど2か月ぶりだ。ただ、まだ寮に戻っていない選手もいるので、全員と会ったわけではないし、練習もかなり制限があるのではあるのだが。それにしても、2か月ぶりのわりには、まったく久しぶりに感じなかった。そうなのだ、先週まで、ほぼ毎日のようにオンラインセッションで顔を見て声を聞いていたからだ。久しぶりに会えるので、もっと感激するかと思っていたが、オンラインで会っていたことで、それが軽減されるとは思ってもいなかった。もちろん、直接会えたことは、とても嬉しいのではあるが、なんだか損したような気分である。
直接会うと、顔色、声のトーン、目つき、雰囲気、仕草や動作など、オンラインよりはたくさんの情報を得ることができるので、私はやっぱり好きだ。
 
実際のトレーニング指導はというと、まだ個人練習としてやるスタンスなので、私の役割は、衛生管理の徹底のみだ。マスクして、アルコールスプレーとぞうきん持ってウロウロしているので、もはや完全に清掃担当のおっさんである。それでも、選手たちと時々冗談のかけあいをするのは、とても楽しい。
私は挨拶にうるさいのに、「大きな声で挨拶しなくていいから」 と言うと、逆にふだんは、私に挨拶をしなくて怒られている選手が「先生、宜しくお願いします!」 と、いつもより元気な挨拶をするのだから笑える。「おれも、長いことこの仕事やっているけど、頑張らなくいいぞ、限界まで出し切るなよ、って言うのは初めてだよ」 これまた、ふだんだったら、出し切らないで突っ込まれている選手が活き活きしているのだ。
 
彼らとの楽しいやりとりの根底には、仕事がまたできてありがたい、そんな思いがある。6月に入り、少しずついろんな活動が始まったとは言え、店を閉じざる得ないひとたち、解雇された方、この先がまったく見えない人がたくさんいるのだ。こうして、また、現場で仕事をさせてもらえることが、どれほど有難いことか。もちろん、私の仕事だって、いつどうなるのか、今後どうなるのかはまったくわからない。そもそもが、来年がどうなるのかわからないまま、17年間、個人事業主として活動してきた。仕事がなくなったら、なんでもやる覚悟はできている。でも、可能であるならば、私はやはり、この仕事を続けていきたい。この仕事に就いたばかりの頃は、いつか、社会人のトップのチームの指導がしてみたいとか、日本代表レベルの選手のサポートをしたい、と思ったこともあるが、この数年は、そうした感情はなくなった。私は、今携わっている、高校生や大学生たちとの現場が好きなのだ。私同様未熟な彼らとのやりとりが好きなのだ。
未熟もの同士なので、ときには腹が立ち、思い切り怒ることもある。でも、逆に、ほんとうに、劇的に成長する姿を見ることもできるのだ。
 
昨日、今日で改めて思った。可能なかぎり、彼らといたいと。還暦過ぎても、当たり前のように、彼らとやりとりできたら、こんなに幸せなことはない。それが、私の夢である。

元来、私は怠け者で、出不精である。新しいことにチャレンジすることはめったにない。だからといって、人生がつまらないわけではない。ここまでのところ、好きな仕事もできているし、ありがたいことに子どもにも恵まれ2児の父親としても楽しめている。たまに休みの日には、家でラグビーのビデオを見て、昼間からビールが飲めたら、こんなに幸せなことはないのだ。通勤の道は、めったに変える方でもないし、食事をする店も、たいてい同じ場所で同じモノを頼む。50を過ぎても好きな食べ物は、焼き肉とチャーハンとラーメンと餃子とトンカツだ。着る服や髪形には、さらに興味が薄く、人生のほとんどを坊主頭で過ごしているし、いまだに冠婚葬祭用の礼服と、ブレーザーとスラックスを一つ揃えているだけだ。それくらい、変化を求めることをしていない。あとは、読書ができて、時々映画を見れれば、もう、ほんとうに人生十分だと思っている。

 

そんな、変化をすることを求めない私も、3月からは仕事と生活面で変化せざるを得ないことになった。

仕事面では、オンラインでの指導を始めたこと、いや始めざるを得なかったこと。YouTubeの配信を始めたこと、そして、このブログを、ほぼ毎日書き始めたことで、それにより、デスクワークの時間が圧倒的に多くなり、代償として、肩首周りがパンパンに張っていること。生活面では、3ヶ月のあいだ、バーベルを使用したトレーニングを一切していないこと、子どもたちも休校なので、信じられないくらい家族と一緒にいる時間が増えたこと。そして、これは意図的にやったわけではないのだが、読書の時間が減ってしまったことと、ラグビーを始めとしてスポーツの試合をほとんど見ていないことである。

 

そして、ようやく来週から、その変化にも新たな変化が起きようとしている。現場での仕事が始まるのだが、そこでは、今までとまったく同じようにはいかないということ。コロナ対策、怪我予防、さらには熱中症対策を考慮しながら、プログラムを組む必要がある。また、おそらく選手の中には、気持ちがきれてしまっている者もいる可能性があるので、そうした選手へどうアプローチしていくのか、ともかく、今まで以上に臨機応変さが求められるし、多角的に物事を考えていかなければならない。自分自身の経験値では、どうにも対応できないことだらけなのだ。

 

もしかしたら、これは、今までは自分のことだけ考えて生きてきた私に、良い意味で変化を求めているのかもしれない。今後のスポーツや部活動のありかた、トレーナーのありかた、もっと言えば、これからの社会の在り方、いろんなことを考えさせられた3ヶ月になった。

変化することがすべて良いとは思わない。成長することが人生の目標でなくても私はよいと思っているし、些細なことを楽しめれば、それで十分である。しかし、変化することは、自分で決めつけている殻を破り、新たな可能性に出会うチャンスでもあるのだ。正直、オンライン指導の可能性は、やってみて初めて気づいたのだ。そして、ふたたびの変化する機会が、もうまもなく訪れる。これを、どうとらえ、自分の中で消化するのか、それは、結局は自分次第なのである。変化を楽しむこと、それも自分の人生に加えたいと思う。

人は五感を通して世界を認識する。

ただ、どの感覚を優位にとらえるかは、人によって違うと言う。

五感なのだが、味覚・嗅覚・触覚はまとめて身体感覚として、残りの視覚と聴覚の3つのタイプに分ける。

つまり、視覚優位なのか、聴覚優位なのか、身体感覚優位なのかだ。

 

このことを知っていると、コーチングするときにも大いに役立つのだ。

それぞれの特徴を書いてみる。

 

■ 視覚優位 

天才肌タイプ(うさぎ)、見えちゃう、あきっぽい、話聞かない、くどくど言っても聞かない、映像による指導に向いている、デモンストレーション見せるだけでOK、早口、処理スピード速い、原色を好む

未来を語る

 

中田英寿、本田圭佑、グアルディオラ、ロナウド (あくまで、これは勝手にそうではないかと)

 

■ 聴覚優位

理論派タイプ、論理や理屈を好む、服装きっちり、理解し納得したらやる、プロセスを大事にする

過去のことを鮮明に覚えている

 

野村克也、岡田武史、長谷部誠、モウリーニョ (あくまで、これは勝手にそうではないかと)

 

■ 身体感覚優位

かめタイプ、反復するのが得意、腑に落ちるの時間がかかる、質問してもなかなか言葉にできない、

服装は心地よいもの好む(短パン、サンダル)、処理スピード遅い、人にやさしい、空気感感じる力ある、

感情でしゃべる、泣く

 

長嶋茂雄、岡崎慎司、野人岡野、メッシ (あくまで、これは勝手にそうではないかと)

 

これを見ると、「あー、なるほど、だからあの選手は、いくら説明してもわからないのか」 とか、

「彼は、理詰めで考えるから、こちらも言葉を多くしよう」 とか、相手のタイプに応じてコーチングや声がけを変えることができるのだ。たとえば、視覚優位タイプに言葉を多くして説明しても、お互いがストレスになるだけで、ミスしたときに、言葉で責めると聞かない、それよりも、「見えてた?」と聞く方が良いと。

 

そして、選手のタイプだけでなく、指導者自身のタイプを知っておくことも大事だという。

面白い話がある。卒団式のときに、指導者のタイプが出るというのだ。

視覚優位のコーチは、卒団式で未来を語り、聴覚タイプは過去を語る、それもとても細かいことまで覚えているのだ。身体感覚タイプのコーチは、卒団式でどうなるか、泣くのだ。

 

では、私はどうか、完全に身体感覚タイプなのだ。

まず、服装は気にしない、理論的に話すのは苦手で、もちろんすぐできる天才肌要素は一つもない。

私の声がけ、「おー、それそれ、その感じ!」 「こんな感じ」 、そればかり。

しかも、間違いなく卒団式では泣くタイプだ。

 

実は、今日がオンラインセッションが最後になる高校野球部。最後の言葉をかけるとき、思わず泣きそうになった。こんな状況にも関わらず、真摯に取り組んでくれた彼らの姿を見ていて、下手をするとグランドではもう会えないかもしれないと、そんなことを考えると、話しているうちに、泣きそうになってしまった。

 

もちろん、選手も指導者も、いろんなタイプがいる。どれが良いとかはないのだが、このことを少しでも知っておけば、コーチングが変わるかもしれない。言葉が変わるかもしれない。

 

 

人間には所属の欲求というのがある。家族なり、学校のクラス、部活動、会社、宗教団体、政治団体に至るまで、何かしらに所属していたいと思う。逆に言えば、どこにも所属していないと、とてつもなく不安になるし、ストレスになるのだ。昔から村八分と言われるように、所属場所がないことは、精神的にもむちゃくちゃきついのだ。自分が所属しているグループというのは、基本的に居心地がいい場所なのだ。いや、居心地がいいからそのグループにいたいとも言えるかもしれない。自分を受けいれてくれる、自分の存在価値を感じる場所に所属することは、人にとって必要なことなのだ。
 
ただ、「類は友を呼ぶ」の言葉が示すように、そこでは同じような価値観の人が集まる。今なら、Facebookというのは、そういう典型かもしれない。私が繋がっている人は、もともとの友達と、ほぼスポーツ関係の人だ。Twitterの場合でも、基本は、自分がフォローした人の情報が入ってくるので、価値観が似た人の情報が多くなる。そうなると、そこでの価値観が正しくて、違う価値観の人たちに対して排他的になったり、攻撃的になったりしてしまうことがある。その極みが炎上なのかもしれない。Twitterは匿名でやれるので、その負の面が大きくなるように思う。
 
ちょっと見方を変えて考えてみる。
武道家の内田樹さんの言葉を拝借する。
👉
コミュニケーションというのは、本来は「わかること」だけをやりとりするものじゃなくて、「わからない」ことを「わかること」に組み入れてゆくことでしょう。自分自身の「わかること」の領域を押し広げてゆくことですね。それは「可聴音域を広げる」「チューニング能力を高める」ということに尽きるのです。そういう能力開発を目標にし、普段から訓練していれば、いずれ、自分たちと語法の違う、違う語彙で語る人と会ったとしても、相手のメッセージをなんとか聞き出し、相手の可聴音域に自分のメッセージをおいてゆくという、そういうデリケートな手作業ができるようになる。
👈
 
コミュニケーションとは何か。
「わからないこと」を「わかること」に組み入れてゆくこと。

そうなのだ、多くの人が勘違いしていることなのだが、自分の意見を主張することがコミュニケーションにおいて大事ではないのだ。そうではなくて、自分とは価値観の違う、考え方の違うものを受け入れられること、それができることがコミュニケーション能力が高いということなのだ。
でも、私も含めて、これはなかなかできない。ましてや、特定のグループにどっぷり浸かり、自分にとって居心地の良い言葉しか浴びていなければ、そうではない言葉に出会ったときに、たいていは否定的になる。受け入れられないと言った方が良いかもしれない。だから、相手を否定し、攻撃し、罵倒する人さえいる。なんと、人とは都合の良い生き物か。
 
内田さんが言うように、
「自分たちと語法の違う、違う語彙で語る人と会ったとしても、相手のメッセージをなんとか聞き出し、相手の可聴音域に自分のメッセージをおいてゆくという、そういうデリケートな手作業ができるようなる」
そういうコミュニケーションができるようになれば、世の中は、もっと大らかで優しい社会になるように思う。私も含めて、価値観の違う他者を受け入れることができれば、誹謗、中傷を受けて傷つく人が減るように思う。
 
 
この6週間、自宅でzoomを利用してオンラインセッションをほぼ毎日やっている。長男は大学1年、娘は中学3年なので、彼らもまた自宅にずっといる。60分のセッションが平均3回はあるのだが、子どもたちによると、「父ちゃん、うるさい!」 「恥ずかしい!」なのだ。
セッションをする部屋には空調がないので、窓を開けている。ところが、セッション後にキッチン(隣の部屋)にいくと、暑いのに窓が閉まっている。セッション中に起きてきた娘が、窓を閉めたというわけだ。
よく考えてみると、子どもたちは私が仕事をしている姿を見たことがなかった。だから、私の自宅での姿しか知らなかった。その自宅にいる父ちゃんは、いつも髪型は坊主で真っ黒に日焼けし、無精髭を生やして短パン、Tシャツ姿。どう見ても、友達のパパとは違って、ちゃんと仕事しているようには見えないのだ。そして、気づけば娘も思春期となった今、偶然とは言え自宅で仕事をしている父ちゃんの声だけが、やたらとデカく朝から聞こえてくるのだ。
しかも、声のほとんどは、
「5秒前! サン・ニー・イチ! オッケー! 終わり‼️」
「〇〇! ちゃんと胸つけろ‼️」
罵声とか怒声みたいなものばかり聞こえるのだ。だから、せっかく子どもたちの前で、仕事していて頑張る父ちゃんの姿を見せられる絶好のチャンスなのに、むしろ、「うるさい‼️」と一蹴されてしまう有様なのだ。 
 
ただ、子どもたちの思いとは裏腹に私自身は、子どもたちの前で胸を張っていられるかってことは仕事しながらいつも考えている。それは、仕事のみならず、普段の生活でも同じだ。もちろん、これは自分の子どもができたことで生まれた感覚なのだが、私の中では、仕事場には子どもたちはいないけど、自分の子どもに見られて恥ずかしくない言動をしているかってことを常に意識するようになった。
そして、もう一つ考えていることがある。長男が1歳になるときに、実家を建て替えて二世帯が住めるものにし、親父とお袋と一緒に暮らし始めた。親父は14年前に亡くなったのだが、その時から、我が家に仏壇も置くようになった。だから、しょっちゅう手を合わせる。
「親父、どうか今日も家族が元気で、日本が平和でありますように、頼むぞ!」と。
いつのまにか、私は、あの世から親父が常に見守ってくれている、そんなことを自然に感じるようになっていたのだ。
 
『万引き家族』でカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを獲得した、映画監督の是枝裕和さん。
著書の中でこんなことを書いている。

👉
日本人のある世代までは
「ご先祖様に顔向けができない」
という感覚があります。絶対的な神様がいない代わりに、日常のなかで死者の目にさらされて恥ずかしくないように生きる、という倫理観を持っている。そういう生き方を僕自身もしてきた。だから、西洋でいう「神」の代わりが、日本では「死者」なのではないだろうか。死んだ人間はそのままいなくなるのではなく、私たちの生活を外側から批評し、私たちの倫理的な規範の役割を引き受けてくれているのではないか。つまり、物語の外側から私たちを批評するのが死者であり、物語の内側で私たちを批評するのが子どもなのではないか…。
『映画を撮りながら考えたこと』(ミシマ社)
👈 
 
間違いなく、私にとっての子どもたち、そして亡くなった親父の存在は大きい。
是枝さんの言葉を借りるならば、それが私の倫理的な規範となっている。とくに、今回のコロナのようにどうしようもない状況に追い込まれた時こそ、その存在は大きくありがたい。

今朝も思春期の娘に怒られながら、そんなことを考える父ちゃんなのである。