フーコーという思想家は「本を書き始める前に、自分が何を書くか分かっていたら、その本を書く意味などな い」と言った。
こう書くのは近藤康太郎さんだ。
一昨日も書いたが、『三行で撃つ』(近藤康太郎)という本、面白過ぎる。
3年前より、『月刊トレーニングジャーナル』に、月に1度、1,000~1,200字ほどの分量でしかないが、エッセイを書いている。それだけの経験だが、フーコーの言っていることが理解できる気がする。
近藤さんは、こうも書く。
自分のなかに、どうしても解決できない、しかし解決しないと前に進めない問いがある。その問いに答えようと試みるのが、究極的には、〈書く〉ということの本質だ。
これまた、深く納得している。
Facebookに頻繁に投稿するようになったのは8年前だが、私は日々の仕事での悩みを綴り、そこに、たいてい誰かの言葉を借りて、自身への励ましや、メッセージへと変換していた。
その作業は、やがて『トレーニングジャーナル』のエッセイになり、さらには、このブログになった。
書くことのほとんどは、自分をポジティブなものへと導く、大事な日常になっていたのだ。
だから、近藤さんの、この言葉もまた、深く深く突き刺さるのだ。
〈わたし〉なんて、じつにつまらない、ありきたりの、くだらない生き物だ。だからこそ、いつも外に開いているのだ。耳を開けておくのだ。
外に開いた〈わたし〉は、だから、常に変容していく。影響を受け、憑依され、感性され、変化していく。
注文は、いくらでも受けたらいい。そして、注文通りには変えない。注文の上を行く。自分の内面に深く沈み、自分を変える。新しい表現を探す。
外に開き、内に沈む。常に、すでに、未完成で終わる永遠運動。その無為徒労の積み重ねにおいてこそ、めしべは受粉し、生の果実はなる。文章に、ほんの一瞬のひらめきが、訪れる。
わたしで〈ある〉のではない。わたしに〈なる〉のだ。
私に、この本を勧めた先輩は、「棺桶まで持っていく」と、そこまでの本だと、メッセージを追加してきた。
読み終えて、わかった。先輩にそう言わせるだけの本だということが。
起承転結の<結>について、近藤さんが書く。
さて、起承転結の、結には何を書けばいいか。考え抜かれた転によって導かれた文章を書くのである。書き始める前に結が〈あった〉わけではない。書き始めるまでは自分でさえ考えていなかった文章が、指の先から出てくるはずだ。結論は書き始める前には自分にも分かっていない。そこが文章を書くことの急所だ。
結論は、常に、すでに、あるのではない。結論とは、鐘の音が響いてこだまする、山のざわめきだ。
小説家や、ものを書くことを職業にしている人は、突然、文章が降りてくる、と言うが、こんな、私のような書き手でも、文章が、それこそ、すらすらと、近藤さんの言葉を借りるならば、「指の先から出てくる」ときがある。その文章はもちろん、村上春樹さんに比べれば、まったく大したものではない。でも、あの自分ではない、何かが、書いているときの文章は、あの感覚は楽しい。読書で言えば、どんなに周りが騒々しい時でも、その本の中に没頭してしまっている、読み進んでいる、あの感じだ。
ここからは、想像でしかないが、おそらく、私の『トレーニングジャーナル』の原稿が、編集長から一発でオッケーが出るときの、その文章は、<わたし>ではない、<わたし>が書いているときのものではないだろうか。ん、まったく根拠もないが、そういうことにしておきたい。
『三行で撃つ』(近藤康太郎 著)、そんなわけで、超絶、おススメである。