まつすぐな道でさみしい 山頭火(19)
昭和2年1927年3月23日金融恐慌四国巡礼を済ませたからか、放哉の墓参りが叶ったからか、手に入れた「層雲」を読んだからか、ともかくも二年ぶりに投句して、層雲(昭和三年十一月号)に九句掲載されている。(前書)昭和2年3年、或は山陽道、或は山陰道、或は四国九州をあてもなくさまよふ。踏みわける萩よ薄よ 鉢の子果てもない旅のつくつく法師 (この旅、果もない旅のつくつくぼうし 鉢の子)へうへうとして水を味わふ 鉢の子落ちかかる月を観てゐるに一人 鉢の子ひとりで蚊にくはれてゐる 鉢の子投げ出した脚をいたはる(投げ出してまだ陽のある脚 鉢の子)山の奥から繭負うて来た 鉢の子笠にとんぼをとまらせてあるく 鉢の子歩きつづける彼岸花咲きつづける 鉢の子以上9句の内2句は、井泉水の手が入ったか、推敲されてから句集「鉢の子」に収録された。昭和2年1927年松竹映画 8月号大正15年1926年味取観音堂を出ての行乞の最初の旅は、年末に広島県内海町へ到る。分け入っても分け入っても青い山そのまま新年を迎え、昭和2年1927年45歳の1月、島根鳥取から岡山そして四国を一回りした後に小豆島から津山岡山あたりをうろうろして、昭和3年末には広島に到った。四国はお遍路さんに馴れているので、安心との思いもあったろう。山頭火は一人だが、『今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉』で有名な「同行二人」は、本来は真言宗空海弘法大師と「二人連れ」の意味である。広く「仏と二人連れ」としても良い。放哉墓参お墓したしさの雨となつた情緒たっぷりで、善い墓参りであった。もう一人、俳句の先人に墓参したい人が居るが、それが叶うのは後々のことである。ここから津山へ行き、この旅、果もない旅のつくつくぼうし踏みわける萩よすすきよそして中国山地経由でへうへうとして水を味ふ広島に入る。昭和3年1928年昭和2年1927年~昭和4年1929年の各年に、婦人参政権法案、婦人結社権法案、婦人公民権法案が帝国議会に提出されるが否決されている。途中、昭和3年1928年10月6日緑平宛ハガキ(福山市から)「三備山間をヒヨロゲまはりました。旅に病んでトタンに雨をきく夜哉(戯作一句)これから西しようか、東しようかと迷つてゐます。(迷はなくていいのに)、もし西するようならばお目にかゝれます、こゝでまた一句尾花ゆれて月は東に日は西に芭蕉翁、蕪村翁、併せて兄に厚くお詫び申上げます。―」芭蕉蕪村の句をパロって、のりのりなのだ。しかし乗りすぎで、やはり精神の平衡を欠いているかも。「三備」には広島の東部分や香川も含むそうだ。『ヒヨロゲまはりました。』の意味がワカラナイ。「表六玉」からの「ヒヨーログ(ゲ)」とすれば分からないでもないが、ゴキゲン山頭火の造語か?昭和4年の年賀状、八周り前の巳年。明けて昭和4年正月、緑平は山頭火の身を案じて雪ふる今日も鳥のやうな旅をしてゐるか 緑平山頭火に放蕩癖が出れば、緑平に宿代を無心し、その銭でかろうじて宿を出発、などもよくある。昭和4年1929年1月には広島を発ち、同年3月11日に熊本へ帰る旅に出た。だまつて今日の草鞋穿く出発時かその直後山路から海まつすぐな道でさみしい岩国徳山防府と通る海岸を歩かずに、山沿いに山口県へと入り、下関を目指した。理由は不明だが、大好きなふる里も気が重かったか。昭和4年2月21日付け緑平宛ハガキ。十何年過ぎ去つた風の音(地橙孫居即興) かつて熊本の「白川及び新市街」で活躍していた兼崎地橙孫は、この時は門司で弁護士を開業していた。訪ね旧交を復活させたのだ、銭の無心は無いと思いたい。地橙孫を辞してから、炭鉱町として開けた田川郡糸田の明治豊国鉱業所を目指している。そこの診療所に、開業医から炭鉱医に戻った緑平がいた。緑平俳句木村緑平は雀がお好きだそうで、「すずめの俳人」と呼ばれた。糸田の隣、福岡県嘉穂郡頴田町(現飯塚市)の日鉄二瀬炭鉱には息子健19歳が勤務していたので、立ち寄り会っている。昭和4年3月11日には熊本に戻った。この頃の熊本新市街。おや、氷旗は今と同じだ。ほろほろ酔うて木の葉ふる 鉢の子しぐるるや死なないでゐる 鉢の子張りかへた障子のなかの一人 鉢の子水に影ある旅人である 鉢の子雪がふるふる雪見てをれば 鉢の子しぐるるやしぐるる山へ歩み入る 鉢の子食べるだけはいただいた雨となり 鉢の子木の芽草の芽あるきつづける 鉢の子生き残つたからだ掻いてゐる 鉢の子(続く)