新山口駅前山頭火像
分け入つても分け入つても青い山 鉢の子
熊本味取観音堂を出て初めて九州中国地方に及ぶ一笠一鉢の行乞の旅に出た際、大正15年1926年6月17日頃に、宮崎県高千穂あたりの山中で、この魅力的な句は詠まれたと言われている。
山頭火の最初のこの旅は、大正15年1926年4月10日熊本味取観音堂を離れるところから始まり、九州から岡山、香川から四国一周、山陰山陽と歩き、熊本には昭和4年3月11日に帰っている。ずいぶん長旅だ。
早稲田大学後輩の若山牧水の歌をよく愛唱していたそうで、「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」「幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく」などを追想しながら、宮崎県の牧水のふる里を通過したかも。
山頭火は旅の途中でしばしば句友や友人知人を訪ねるが、経済的な支援の依頼もあった。この旅でも、大牟田の病院を退職後浜武(現柳川市)で開業した木村緑平を訪ねている。
この後九州から関門海峡を渡り、弟二郎が自殺した岩国へ行くのだが、途中徳山で句友久保白船に会っている。
久保白船は、層雲で活躍した周防三羽ガラス(種田山頭火、江良碧松)の一人で、同志でもあり親友でもあった。
久保白船
山頭火来訪二句
法衣かるがると来てふかれて去るか 白船
友のうしろ姿の風を見送る 白船
網代笠なら伏せてあるつくつくほうし(山翁来訪) 白船
先生と庵に客として柚味噌の焦げたの(其中庵 井師と)白船
(櫛浜郷土史会のサイトから)
白船句碑
徳山動物園前庭
踞ればふきのたう 白船
白船は昭和十六年没享年五八。句碑は昭和17年1942年に徳山公園双子堤の小丘に建立。
山頭火『あるけば蕗のとう 其中一人』を意識しての句であろう。
山頭火句碑
新しい法衣いつはいの陽かあたゝかい 山頭火
平成3年1991年建立。白船夫人清子さんに法衣を仕立ててもらった時の句とか。
大正15年1926年10月に、山頭火(種田正一)は戸籍上の名前を種田耕畝(法名)へ変更するために、防府町役場に出頭している。熊本の味取観音堂を出てからの旅は、広島県内海町で大正15年1926年12月に一度終るのだが、内海町にしばらく留まる経緯は分からなかった。
昭和2年1927年、山頭火は広島県内海町で新年を迎えた。次の旅は同年2月1日にここを発ち、島根、鳥取と歩いてから岡山経由で昭和2年1927年12月に高松へ渡っている。そのまま四国八十八か所巡礼に入る。
足摺岬大正3年1914年点灯
旅ごろも吹きまくる風にまかす
昭和3年2月足摺岬
投げだしてまだ陽のある脚
松山か大洲辺り
昭和3年1928年3月山頭火は初めて放哉の墓参をした。
尾崎放哉の墓
「放哉」
水音のうらからまゐる 四国遍路
放哉『墓のうらに廻る』からの供養の句だろう。自分の大好きな『水音』から詠みだしている。ずっと後になって、永平寺『水音のたえずして御仏とあり』もある。
南郷庵二句
その松の木のゆふ風ふきだした 四国遍路
『好い松もつて死場所としていたか 荻原井泉水』の松である。
庵主はお留守の木魚をたたく 四国遍路
上がり込んでぽくぽくやって来たようだ、もちろん読経しつつ。
放哉墓前
墓に護摩水を、わたしもすすり 四国遍路
お墓したしさの雨となつた(放哉墓前)
昭和3年7月らしい
その後、岡山に戻ってから再び山陰を歩き、同年昭和3年12月に広島へ帰った。
昭和3年1928年7月28日、山頭火は岡山県西大寺町から井泉水にハガキを出している。
「暑中御見舞い申上げます。久々で層雲を拝見して、いよいよ御清栄御精進の御近況を喜びました。私は漸く四国巡拝を終つて小豆島に渡り昨日当地まで参りました。今年中には御地まで参れませう、(御大礼がありますので、それがすみますまでは放浪者は遠慮しなければなりますまい)。小豆島では何も彼も嬉しうございました。
近々私の現在の心持を申し上げたいと思つています。どうぞお大切に。」
「御大礼」とは、仙洞御所大嘗宮での昭和天皇の大嘗祭で、昭和3年1928年11月14日15日に執り行われた。
昭和天皇即位
井泉水は
『放哉の烏はだまってゐるのに、山頭火の鴉は鳴いてゐる』と評した。
咳をしてもひとり 放哉
烏がだまつてとんで行つた 放哉
鴉啼いてわたしも一人 山頭火
猫もいつしょに欠伸するのか 山頭火
内省的か無自覚か、の違いと指摘したのだろうか。
(『山頭火を語る』荻原井泉水伊藤完吾潮文社1972)
猫の欠伸
(続く)






