徳島県東祖谷とロードレーサーと平家伝説 | ロードバイクとオートバイ

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今の目標は,毎週乗ることです。皆さんのブログで元気をいただきつつ,頑張ります。

 

 

いや〜なんかすんませんm(_ _)m

私の小学3年生のときの同級生、歴史ハカセYくんのおかげでアメブロ自転車ロードバイクカテゴリー人気記事で1位を獲得しました。ありがとうございます。

 

Yくんの思い出は、「本能寺の変」の寸劇に集約されるのですが、彼発案のごっこ遊びもありました。その名も、

いくさごっこwww(´・∀・`)

異様すぎる。小3が集まって木の枝などを武器に斬り合いごっこをするわけですよこれが。いくら私が小3のときと言っても昭和50年代に入ってましたが、この遊び方は、完全に「はだしのゲン」の時代ですな(*゚▽゚*)

いくさごっこにおいて、森蘭丸よろしく、私はYくんの家臣の役が多かったような気がします。でも〜Yくんの設定は小3には難しすぎて飽きるのよ(´・ω・`)

なので、私は敵方役の友達側に直ぐに寝返ったりして設定を守らず、Yくんをキレさせていましたm(_ _)m

そのノリで、学級の一大イベント「お楽しみ会」の出し物、「本能寺の変」の稽古というか練習をしていたのですが、ふざけすぎて、Yくんをキレさせて泣かせてしまい、悪いことしたな〜とたまには思います( ´_ゝ`)

 

剣山(つるぎさん)山頂付近から。

 

母の里であった徳島県旧東祖谷山村でロードレーサーで乗る機会は非常に限られていましたけど、乗ってるときは、なんか、最高でした。

 

①石井町→東祖谷山村字麦生土

徳島にロードレーサーを持ってこれたのは、父と車を交代で運転して来るときに限りました。まー、輪行という手がないわけではないですが。

徳島県旧石井町の父の里で一泊し、翌日、母の里である旧東祖谷山村字麦生土(むじゅうと)まで行きました。距離は約120km。

石井町から国道192号線を西に。ほぼ、吉野川沿いに進みます。吉野川が南に折れ、池田町に入るころから登りになり、国道32号線の小歩危、大歩危は割と平坦な道なのですが(でもガードレール越えて落ちた◯にますけどね)、大歩危橋を渡ると西祖谷山村になり、えげつない登りに入ります。

これは、オートバイで行ったときに大歩危橋で小休止したときの写真です。当時、スマホなんてものはありませんので、カメラを持ってロードレーサーに乗ることは考えられませんでしたから、写真は全くないです。

祖谷トンネルまでは延々と登りです。祖谷トンネルは、昔、有料道路でしたので、自転車も50円だか100円だかを取られたました。ほとんど明かりのない祖谷トンネルをロードレーサーで走るのは怖かったですね〜

祖谷トンネルの出口から少しいくと峠の頂上です。そこから降ると、祖谷川渓谷沿いの道になり、ここら辺はほぼ平です。けど、カードレールを越えて落ちると確実に◯にますけどねえ(´・ω・`)この水力発電所の辺りが西祖谷山村と東祖谷山村の境界だったと記憶しています。

多少の上り下があって、この新居谷という集落まで来るとあと少しで祖父宅。また、登りオンリーとなります。途中、養鶏場があって、その鶏糞の臭いが強烈でしたが、登りなので息を止めるわけにも行きませんし、なるべく早く登ります。この養鶏場を経営していた家は、私の曽祖父の妹の家でしたので、全く関係ない家ではないのですが。

私の子どもの頃はまだ茅葺屋根でした。緑っぽいトタン屋根が祖父宅です。ここまで信号待ち以外はノンストップで駆け抜けてきましたので、若いときでも結構疲れました。着いたら祖父がビール出してくれたのを覚えています。

 

②麦生土→剣山リフト乗り口

祖父宅から剣山のリフト乗り場までは25kmくらいだったと記憶しています。祖谷川沿のほぼ平らなクネクネ道を走ってくるのですが、やっぱり徳島県最高峰の登山口だけに、段々と登りがキツくなって行ったように記憶しています。

剣山までの道の途中にある「奥祖谷二重かずら橋」というのは、西祖谷山村のかずら橋と共に祖谷で二つだけ残っているかずら橋だそうです。

 

③祖父宅→京柱峠

京柱峠は、祖父宅のちょうど正面に見える山のピークにあたるところで、徳島県と高知県の県境になります。

オートバイでも行ってますけど、ロードレーサーで登ってくると最高の気分でしたね〜(この写真は、高知市内の祖父妹宅に向かう途中)

私がガンガン登っていると、対面から夫婦だかカップルだかのMTB二人連れがいて、まさかこんなところを登ってくるロードレーサーがいるとは思わずびっくりしたのか、向こうは下りなのに急にヨロヨロし出し、私がヒョイとかわしてすれ違うと男の人の方が落車してました。いや、なんか、ごめんな(´・ω・`)

熊がいるのかよ〜((((;゚Д゚)))))))

こんな感じで東祖谷の山を、ロードレーサーで堪能していました。剣山に行ってから京柱峠まで登ったりして、祖父宅に滞在している時は一日80kmくらい乗っていたと思います。

 

祖谷の平家伝説について

 

平家は、木曾義仲に敗れ、都落ちして讃岐の屋島に逃れますが、ここでも源義経に敗北し壇ノ浦まで逃れることになります。その後、壇ノ浦で遂には滅亡する平家ですが、実は、屋島から、別働隊が安徳天皇を擁して祖谷に向かって落ち延びてきたというのです。その別働隊が率いたのは平国盛という人らしいです。この国盛は、清盛の弟平教盛の次男教経とも言われていますが、教経は壇ノ浦で義経と戦って戦死していますので、まあ、実在したとしても別人でしょうなあ。

 

祖父(セラの母の父)に、平国盛という武将は歴史上いなかったみたいだよ?と聞いてみたことがありますが、「源氏としては、討ち損じた武将の名を残さんわのう」ということらしいです。

 

で、安徳天皇(当時6歳)をどうやって祖谷までお連れしたのかわからないのですが、国盛は手勢百余騎のうち32騎を先鋒隊として自ら率い、安徳帝のための露払いとして祖谷山岳武士団と戦ったようです。6歳児天皇をお連れするのに周り武者ばかりというのはどうなんですかね? 普通なら付き添う乳母(めのと)くらいはいたと思うのですが、当時、道なんてものはロクになかったはずなので、女性を連れてくるのは無理があると思います(そしたら6歳児なら尚更無理だべ)。

 

国盛は祖谷を平定し、安徳帝を招き入れて仮の御所を設えた後に、阿佐常陸守の招き入れで阿佐庄に住むことになり、安徳帝を擁して平家再興を目論んでいたのですが、安徳帝が十代半ばくらいで崩御されたので、平家再興を諦め自らは阿佐国盛と名乗るようになったと言うことです。

若いとき、平家屋敷家にお邪魔して撮らせてもらった「平家の赤旗」大小2旒です。当時は、普通にここに阿佐家の人が住んでいて、私の母の同級生がこの家に嫁いでいましたので、色々と話が聞けました。昔は、もっと鮮やかな赤色をしていたそうですが、NHKの取材で照明を当てられてから色がたちまちくすんでしまったとのことです。

現在、平家屋敷は一般公開されていますが、この赤旗のレプリカは資料館で公開され、原物は一般公開していないみたいです。なんか、インターネットが普及してから観光客がたくさん来るようになって、対応しきれなくなったからだそうです。

 

蜂須賀家が阿波を統治するようになって、祖谷山岳武士団の力で独立したコミュニティを成立させていた祖谷地方も支配下に置くべく検地をしようとしますが、それに反対した祖谷山岳武士団と戦になります。結局、山岳武士団は敗れて、平家屋敷家は「平家の赤旗」を蜂須賀家に差し出すことで、降伏を受け入れられます。戦利品として徳島城に持ち帰られた赤旗ですが、夜な夜な合戦の太鼓を打ち鳴らす音が旗から聞こえるようになり、これは元に返さなければ祟られると思った蜂須賀家は赤旗を平家屋敷家に返還したんだそうです。

「八幡大菩薩」という表記が旗にあり、八幡様は源氏の神様だから平家の旗ではないとうい主張もあったのですが、八幡様はどの武士にとっても戦の神さまであることに変わりはないので、平家の旗に「八幡大菩薩」の表記があってもおかしくないという意見もあります。

この平家屋敷阿佐家と祖父の土居阿佐家がいつ頃分裂したかは分かりません。屋敷家から土居に嫁いでくる女性がいたりして、定期的に血の交流があったことが、祖父家の墓の作り替えのときに判明しました。祖父によると、平家の赤旗が祖父家にあってもおかしくないのだということなので、祖父からすると屋敷家と祖父家は対等だと思っていたのでしょう。

土居阿佐家(祖父家)の敷地内に「三社神社」というのがあって、どうやらこれは国盛とその重臣を神格化して祀ってあるようです。私の曽祖父である盛久から、小学生の時にこの神社に供えられた賽銭をもらったことがあるんですが、子ども心に「お、おい、いいのかよ!?」と思った記憶があります。曽祖父としては、神社のものは自分のものであるという認識だったのでしょうね。

 

祖谷地方の現在は、これでもかというくらい過疎化が進んでます。とにかく仕事がありませんので仕方がないっす。公務員になるか、郵便局員になるかくらい。昔は公共事業として道路工事の仕事もあったそうですが、今はかなり整備し尽くされて、それも少なくなったようです。屋敷阿佐家も土居阿佐家も近いうちに消滅するでしょう。

 

おまけ

 

私が結婚する前に、東京に出てきた祖父を靖国神社や赤坂御苑に連れて行ったことがあります。祖父は、国から選ばれて赤坂第三近衛連隊に入隊して、赤坂御苑内にその連隊宿舎があったので、その跡地を見ようと御苑内に入ろうとして,当然に施錠されている門をガチャガチャやりだしたのですが、守衛をしていたおまわりポンがすっ飛んできて「何をしてるんですか!」と。祖父は、「この中に近衛連隊の宿舎があったので見たいんじゃが」と食い下がっていましたが、皇居に一般人が入れるわけがなく諦めて帰りました。いや〜残念無念(´・∀・`)

 

最後に行った靖国神社では、ゆっくりとお参りしてたのを思い出します。アームストロング砲でお馴染み、大村益次郎像も繁々とみていました。太平洋戦争時には、祖父はビルマ戦線で曹長として分隊を率いて戦いますが、敵の手榴弾で負傷し、野戦病院に下がっていたときに、祖父の所属部隊は全滅したそうです。感慨もひとしおだったのでしょう。また、偵察機の誤認で沼地に入り込み(上空からだと平地に見えたらしい)、敵兵から狙い撃ちにされて次々と仲間が死んで行く様は地獄のようだったと。私が大学3年生時に1ヶ月間祖父宅に滞在したことがありますが,その時,祖父が寝言で「◯◯、おるかー!◯◯はおるかっ!」と大声で言っているのを聞いたことがあります。何十年経ってもこの時の壮絶な光景が夢に出てくるのです。戦争は、してはダメだよな。

 

祖父は、士官学校を出ていないので、下士官の最上位である曹長止まりで、士官(少尉以上の階級)になることはできませんでした。当時は士官学校を出ていなくても、大卒者は少尉に任官されていたため、孫の私が一族初めての大卒者ということで、少尉殿だから写真を撮らせてくれと言われ、靖国神社の境内前で敬礼をして写真を撮られました。いや〜戦時中の大卒者と平成の大卒者ではその価値が段違いに違いすぎるので恥ずかしかったですね。

その日は色々回って疲れただろうからと、靖国神社からタクシーを拾って江東区の親の家(当時)まで帰ろうと思ったのですが、「そんなカネ使わんでもよい」と祖父に拒絶され、九段下の駅に向かう坂道を降りて東西線で帰りました(´・∀・`)

 

おしまい