south coast diaries -30ページ目

MY REGIMEN

ペントハウスフロアから1階におりて秘密の通路(笑)を通ってクラブハウスにむかう。

ジムにいくつもりなのでIPHONEとコミュニティーの鍵ぐらいしか持ってない。


IPHONEてキャップみたいだと思う。

私は東京にいるときとか、外を走る時にキャップをかぶってることが多い。

すれちがうひとと目をあわせなくてもいいつもりになる。

あたしは今あたしの世界にいるので邪魔しないでね。

視界を遮って外からの干渉をはねのける。走ってんだからさ?て。


IPHONEに熱中してると同じ様なはねのけかたができる気がする。

あたし今大事なメールチェックしてんの、邪魔しないでね?


相当感じ悪いね!プライヴェート。笑


別に意識してなかったんだけど、そういう遮断をして歩いてることに気付いたのは

建物からでるときにバン!と中庭に出る重い階段ドアをあけたらそこに

住人がふたり立ち話しているところで、SORRY!とそのまま歩いていこうとしたら


HEY I ALWAYS SEE YOU WORKING OUT, YOU'RE ALWAYS WORKING OUT,

I ADMIRE YOU STICKING TO YOUR REGIMEN


と声をかけられたからで。別に知ってるひとでもないのでわりとびっくりした。


コミュニティーのパーティーとかあまり行かないほうだし

おむかいのおねいちゃんぐらいしか知ってるひとはいないのでね。

そこまであまり友達作ろうと思ってないというか、実は本来はシャイなの。笑


ひとって変なところで観察してんだなあ。


OH REALLY?THANKS!


とそのまま流してジムに行ってしまったのだけれどもさ。


知らないひとから「ああ、あのひと頑張ってんな」みたいに思われるのは悪いことじゃないと思った。


INGLOURIOUS BASTARDS

夏休みが終わる週末に、INGLOURIOUS BASTARDSを見にいった。


わりとTARANTINOは好きなほう。映像とかセンスとか、渋いもんね。


注) 見てないひと、見るつもりのひと、ETCはエントリ読まないほうがいいかな。


なんとなく躊躇したところもあった。トムクルーズもこないだナチ関連の映画やったじゃない?

あの時も、なんだかなあ~と思った。


だってWWIIのドイツが舞台の映画って文句なしにアメリカがヒーローでしょ。

仕方ないんだけどナチスユダヤが題材だと、悪者は決まっててさ。


別にその題材だったら絶対に見たくないとかでもなくて、

昔とか『シンドラーのリスト』とか『ライフイズビューティフル』みたいな映画を見たりすると

ああ、こういう映画って大事だなあ、とか思ってた。

忘れちゃいけない歴史とか見たくない歴史とかと向き合うのってすごく大切。

日本も一応ヒロシマというホロコーストがあるからね。

WWII当時の日本はドイツと同盟組んでるしアジアで好き放題やってたわけだから

どちらかというとユダヤ人殺戮の責任があるほうの国だと思うし。


たとえばうちの父親は戦時中に生まれてるんだけども若い頃、

近所のおじさんでWWIIで戦争に行っていた軍人のひとが中国で、

一家皆殺しになった家で赤ちゃんをみつけて川に流したって話を覚えてるって言ってた。

助けてあげようとして川に流したんじゃないの。

川に流したら死んじゃうってわかってたけど、流したっていう話。

それを手柄みたいに言ってたなあ、とパパは言ってた。

昔の日本人てひどかったんだなあ、と思う話ってたくさんある。

ナチスの方がひどかったかもしれないけど、だからってOKじゃないなあ、って。


それでも、ドイツが舞台でアメリカ人が活躍するハリウッド映画はわりと嫌いだなあ。

WWIIみたいにアメリカの軍事介入が正当だった頃なんて過去の栄光じゃない?

そういう話で現実逃避しないといけないような場所にいるあたりがおかしいから。


で、そういうニーズがあるあたりを全部見越してこういう映画を作るところTARANTINOってどうなの。

トムクルーズの映画は多分そのあたり半分ぐらいしか見えてなさそうだから別にいいっていうか、

まあ見ないだけの問題なんだけど、ただ、TARANTINOの場合はそれよりは頭がいいから、

それちょっとどうなの、といいたくなる。やっぱりお金儲けに走るのかそこで?みたいな。


それで躊躇してたんだけど、まあ、彼は天才だから興味はあった。


確かに適当につくった映画じゃないのは一目瞭然だと思った。

ドイツのプロパガンダ映画とか勉強してるあたりの着目点とかさすがプロだね。

あと、TARANTINOはいつもそうだけどファムファタールが素晴らしい。


映画館にいる間に、すごく自分と周りの観客の間に隔たりがあるなあ、と思った。

普通の観客は、ブラピ一同がナチ兵に残酷な仕打ちをすればするほど大笑いしてるんだけど、

私はそこになんだかすごく空恐ろしいものを感じた。


まあ私も全く笑ってなかったわけでもないけども。MEA CULPA。


ナチスなんだから何されても仕方ないのはわかるよ。

けどそれは単なる枠組みで、実際に見てるものは人間が人間にするべきレベルの暴力じゃない。

正当化されたとしても暴力は暴力でしょ?そこまで笑うところ?

普通の人間でも本当はかなり残忍なところがあってそういう暴力を見て

腹を抱えて笑いたいところがあるんじゃないかと思わされる感じだった。


大昔のローマ帝国でのグラディエーターのデスマッチとかキリスト教徒をひっぱってきて

コロセウムでライオンに襲わせてそれを見て楽しんでた、というのとか

そう昔でもないアメリカ(の主に南部)では黒人をひっぱってきて群集がリンチかけて楽しんでた、

とか両方とも「これは正しい、こいつらはこういう目にあってもいいんだ」

という宗教弾圧にしても人種差別にしても一応は正義とか大義名分的枠組みがあってやったことでしょ。


この映画はいろいろとアメリカ人特有なヴァイオレンスの楽しみ方が出来るようになってるんだと思う。

たとえばブラピたちはナチス兵の頭皮を切り取ったりするんだけど、

それって昔アメリカでアパッチインディアンが白人を襲ったあとにやったことで、アメリカ人からすると

かなり恐ろしいことだと思うんだけども、映画ではある意味そういう恐怖を克服する快楽がある。

それとか野球バットが凶器になる、みたいなあたりは暴力がアメリカ人が大好きな娯楽と合体する

ところで特別な快感があるんだと思うし。


それにしてもヒトラーがいる映画館でナチスプロパガンダ映画を見てるドイツ人を映画館ごと焼き殺す、

みたいなシーンとかを、映画館で私たちが見ている不思議さ。

私にとってはそこがホラーであり、ああまたしてもTARANTINOと思う感じのヴァイオレンスだった。

たとえば、そこで映画で起こっているのと同じようにいきなり私たちの映画館が焼かれたらどうなの?

映画内のドイツ人たちはアメリカ兵たちがどんどん殺されていく映像を見て喜んでるんだけど、

私の周りのアメリカ人たちだってドイツ人たちの殺戮を見て大喜びしてるわけじゃない?

そのあたりどう違うのよ? 


つかの間、ヴァイオレンスが映画スクリーンを抜け出して、私自身がまわりの生身の人間たちの

ヴァイオレンスに囲まれるような、そういう風にメタになるあたり、戦慄。


こわいようアメリカ人!


タイトルがINGLOURIOUS BASTARDSなんだから、TARANTINOはかなり知能犯だとみた。


少し救われたのは、BFがあまり笑ってなかったところかな。

実際に戦場にいってきたひとから見ると、リアルすぎて笑えない、というところらしい。

だからやっぱり問題なのは実際に戦わないひとたちなんだと思う。

そういう残虐さを持ちながら決して傷つくことなんかないような日常で退屈してるひとたちの夢想。





こえがおおきいのとあたまがいいのはちがうよ

発言力がある、というのと発言の内容が同様にすばらしい、というのは必ずしも同じではない。


発言の内容が富んでいてもおどおどしてたりしてその表現が貧弱で正しくないように聞こえる、

という残念なときもあるし、その反対に内容はどうしようもないんだけどその言い方が堂々としていて

いかにも正しそうに見えるときもある。

今学期MA生にひとり後者がいて、、


態度が群を抜いて明朗快活であるのと比例して視野も群を抜いて狭い。

こういうのはアメリカ人に多いんじゃないかしら、などと思うんだけれども

物事をもっと理解できてるまわりの生徒がその態度に押されて

口ごもってしまうところを見ると国籍の問題ではないような気もする。


たとえば今GISH JENのTHE LOVE WIFEという本をやってるんだけれど、

この本は5人のキャラクターひとりひとりのナレーションが織り交ざって

話が進んでいくという劇みたいな形式。


これはアルツハイマーになった母親が老人ホームにはいってしまった様子を息子と嫁が語るところ。


CARNEGIE (息子)/ --Oh, Ma, I said. I'm your son. It's me. Carnegie.

She dropped her eyelids flirtatiously then, and pursed her mouth-- for another kiss, I feared.

--That is your tough luck, she said.


BLONDIE (嫁)/ From time to time she recognized him. After staring or twitching for hours she would suddenly

cry, Carnegie! and ask him something. How many days he would be home over Christmas, perhaps. Or

when he was going to learn no one cared what he thought? Just shut up, she woud say. Shut up. Just

shut up.


CARNEGIE/ And what was the matter with my hair, it looked like even the barber couldn't stand to be in

the same room with me, she would say. No wonder I was stuck marrying that old maid Blondie. Next you

are going have funny-looking kids, no one can even say what they are.


BLONDIE/ He cried.


CARNEGIE/ I cried to see her there in her heartbreakingly individualized, climate-controlled room. I cried to

see its shatterproof window and equally impenetrable pictures of my father, me, the children.



CARNEGIE/ ママ、と僕は言った。ママ、僕はあなたの息子です。CARNEGIEです。

  すると色っぽく目を伏せて、母親は唇をつきだした--またしてもキスをねだってではないか、と僕は恐れた。

  --観念するんだね、と彼女はいった。


BLONDIE/ 時として、彼女は彼が誰だかわかった様子でした。長い間ぼんやりしたり痙攣したりしたあとにいきな   

  りCARNEGIE!と叫んだり。クリスマス休暇は何日家に帰ってくるのか、とか。あるいは、あんたが言うことなん

  か誰が気にするものか?おだまり、なんて言ったりした。おだまり、聞きたくもない


CARNEGIE/ あんたの髪どうにかならないの、まるで床屋さんが同じ部屋にいるのも耐えられないみたいじゃな

  いか、とか言った。だからあんなBLONDIEみたいな嫁きおくれと結婚する羽目になったんだ。次には何者だか

  わからない変な顔の子供を生むに違いないよ。


BLONDIE/ 彼は泣いてたわ。


CARNEGIE/ 僕は彼女がそうやって痛ましくも温度調節のきいた個室にいるのを見て泣いた。その部屋の頑丈

  な窓ガラスと、それと同じぐらい遮断のきいた僕の父親や、僕や、子供たちの写真を見て泣いた。



そのMA生は「これは一体何なんだ、気が狂いそうだ、このナレーターたちはなんでこんな風にお互いのナレーションを

遮ったりできるんだ、わあああ」


みたいになっていた。


確かに訳のわからないアヴァンギャルド劇風ではあると思うし、それはいいと思う。

けど、「ベケットとかジョイスとかフォークナーがこういう風に訳のわからない書き方をするのは僕はいいんだ」

とも言った。


ちょっとそこ待ってよね。


今でこそ偉人みたいな感じだけどベケット・ジョイス・フォークナーみたいなモダニストたちというのは

最初は馬鹿にされてたんだよね。世の中が見たこともない視点からものを作り出したわけだけど、

アイルランドとかアメリカ南部とか出身で、彼らは文学界から見たらはみ出し者だったし、

それこそヘンリージェームズみたいなところから見ると「そんなの文学じゃない」みたいな感じだったわけで。

だからこそその視点とか書いたものには独自価値があって、世の中が認めた時には大事だったし、

認めさせるために苦心した文学研究者こそえらいと思うのね。

すでに世の中が認めてしまった時点で、ベケット・ジョイス・フォークナーならいいけどさ、みたいな感じになる

のはもう彼らの役は済んだってことかな、と思う。


、、なんか印象派の絵みたいに、人畜無害になってしまった感じで残念だわ。


「発言力」的にはすごく強いから、中身がなんとかなればかなり有望なんだけどなあ。

この視点はかなり白人男性特有の盲目さで毒されてるから、変わるかどうかはわからない。

ただ、「発言力」ってのは「発言権がある、と思ってる」っていうことと同じだったりして、

そういうのはプリヴィレージがあるところで育った人に多いんだけど、プリヴィレージがあるからこそ

見えないところがあるのね。