80年代邦楽ソング・ベスト100(40-21) | …

i am so disappointed.

40. ロマンチスト/THE STALIN (1982)

 

過激なパフォーマンスが話題を呼ぶなどしていたパンク・ロック・バンド、ザ・スターリンのメジャーデビューシングル。インディーズ時代には「主義者(イスト)」というタイトルであった。「吐き気がするほどロマンチックだぜ」のフレーズがひじょうに印象的である。当時の日本の音楽シーンにおいて、けしてメインストリームといえる音楽性ではなかったのだが、ライブでの騒乱がマスコミに取り上げられたり、メディアへの露出に積極的だったことなどから知名度は高く、この曲を収録したアルバム「STOP JAP」はオリコンで3位のヒットを記録した。

 

 

39. JUST ONE MORE KISS/BUCK-TICK (1988)

 

80年代後半のバンドブームで特に人気があったバンド、BUCK-TICKの代表曲で、オリコン週間シングルランキングで最高6位、男闘呼組や香西かおりと共に「第30回日本レコード大賞」の新人賞も受賞した。インディーズ時代には「バクチク現象」と題したライブを告知するステッカーが原宿の歩道橋などに貼られているのをよく見かけた。

 

 

38. 愛は心の仕事です/ラ・ムー (1988)

 

アイドル歌手の菊池桃子がロックバンドを結成と当時、話題になったが、実際にその音楽性はロックというよりはR&B、ファンクに近く、ウィスパーボイス的なボーカルがアンバランスであるようにも思われたため、ネタ的に消費されるにとどまったような気がする。しかし、後のシティ・ポップ・リバイバルの中で再評価され、カッコいい音楽として認識されるようになった。

 

 

37. WINDY SUMMER/杏里 (1983)

 

「CAT'S EYE」「悲しみがとまらない」の連続ヒットで勢いにのる杏里が角松敏生のプロデュースでリリースしたアルバム「Timely!!」に収録された曲。シングル曲も日本のポップス史におけるクラシックとして素晴らしいが、シティ・ポップ・リバイバルのご時勢や、これぞ杏里の真骨頂ではないかという意味で、この曲を挙げるのが妥当ではないかという気がなんとなくしている。

 

 

36. ノット・サティスファイド/アナーキー (1980)

 

漢字では「亜無亜危異」と表したパンク・ロックバンドのデビュー・シングル。国鉄の作業服姿が印象的であった。80年代に入り、時代の気分はライトでポップな方向に向かっていったが、受験戦争(神奈川金属バット両親殺害事件が発生したのはこの年である)や校内暴力など、若者を取り巻く環境としては、不満が溜まり荒廃しがちな部分というのもあることにはあった。そういった時代背景もあって、一定の支持は得ていたように思える。ザ・クラッシュと同様に、後にレゲエやダブを取り入れた音楽性にシフトしていくが、その頃、旭川の西武百貨店にあったライブハウスでも公演が行われた。友人のバンドがオープニングアクトを務めたのだが、当時、アナーキーと一悶着あった(泉谷しげるの仲裁で和解)ザ・スターリンのカバーをやっていたため、ひじょうにドキドキしていたとかしていなかったとかいう話を聞いたような気がする。

 

 

35. DESIRE -情熱-/中森明菜 (1986)

 

「花の82年組」の中でデビューは遅い方だった中森明菜だったが、2枚目のシングル「少女A」がヒットしてからは快進撃で、頭一つ抜けるどころか松田聖子のライバル、アイドルというよりは流行歌手としてトップクラスの人気、セールスを誇るようになっていた。松田聖子が結婚により休業期間に入ってからは独壇場という感じで、代表作ともいえるこのシングルもその期間中にリリースされた。当時のカラオケ、ボックスではなくパブの記憶と結びついている真の流行歌という印象、また、ボーカルパフォーマンスのダイナミズムが堪能できるという点でも満足度が高い。

 

 

34. バカになったのに/The ピーズ (1989)

 

収録アルバムの「グレイテスト・ヒッツVOL.1」はベスト・アルバムではなく、デビュー・アルバムである。しかも、「VOL.2」との同時発売。それぞれオリコン週間アルバムランキングで最高28位と30位なので、そこそこ売れたということはできる。モテたいがためにさんざん無理してバカになったのに、という歌詞は当時の若者にとっての切実でリアルな問題、モテや性愛をシリアスに扱っている点で音楽性こそ違えど、同時代の岡村靖幸に通じるところも感じられる。「進学校の悲しみアホ不足 パンチパーマでパンクしらふでバカ」などのフレーズも最高。

 

 

33. ねらわれた少女/真鍋ちえみ (1982)

 

北原佐和子、真鍋ちえみ、三井比佐子というオスカー所属の3人はパンジーとして売り出され、主演映画「夏の秘密」にはビートたけしもラーメン店の店主役で出演していた。歌手としてはそれぞれがソロでレコードを出していて、中でも細野晴臣が楽曲提供した真鍋ちえみのこの曲はテクノ歌謡の名曲として評価が高い。とはいえ、「花の82年組」の年だったこともあり、オリコン週間シングルチャートでの最高位は91位とセールス的には苦戦を強いられたのであった。

 

 

32. COPY/PLASTICS (1980)

 

メンバー全員がクリエイター系の本職を持っているという軽さがとても良かった。この曲はイギリスでラフ・トレードから先行リリースされていた。ヒカシュー、P-MODELと並んでテクノ御三家と呼ばれたバンドで、テクノポップを形容する際によく用いられていた「ピコピコサウンド」とううワードを体現していたようにも思える。ビジュアルのイメージや批評性の高い歌詞など、すべてがカッコいいとしか言いようがなく、当時、中学生だった私はこのバンドのロゴを美術室の机に彫刻刀で彫るなどして怒られたりしていた。

 

 

31. ワインレッドの心/安全地帯 (1983)

 

小学校高学年から高校までを旭川で過ごしていたため、街で安全地帯のライブを告知する手書きのポスターのようなものは見たことがあるような気がする。ロックバンドという形態ではあるが、有線放送受けしそうな流行歌としての強度がすさまじく、また、「ミュージック・マガジン」の中村とうようが「何がセイフティ・ゾーンなものか。これは危険地帯ですよ」と評した玉置浩二のボーカルが素晴らしい。

 

 

30. だいすき/岡村靖幸 (1988)

 

当時の岡村靖幸というのはとてつもない表現欲求をかかえた過剰さが魅力だったとも思うのだが、この曲はそれを一般的なポップ・ソングのフォーマットに収めきったもののように思える。そして、「劣等感」というワードが入っているところがポイントであり、しかもそれを「一週間」と韻を踏み、「ハネムーンのふりをして旅に出よう」というイマジネーションの爆発と対比しているところにも舌を巻く。

 

 

29. 不思議なピーチパイ/竹内まりや (1980)

 

化粧品のCMからヒットが生まれがちだったということはすでにどこかで書いたような気がするが、80年の春はこの曲の他に渡辺真知子「唇よ、熱く君を語れ」、庄野真代「Hey Lady 優しくなれるいかい」といういずれもファーストネームのイニシャルがMのニューミュージック系女性アーティストの楽曲が、オリコン週間シングルランキングで10位以内に入るヒットを記録した。この頃の竹内まりやは他のアーティストや作家から提供された曲を歌うことの方が多く、この曲も安井かずみ・加藤和彦夫妻によって書かれている。

 

 

28. Fade Out/小泉今日子 (1989)

 

「花の82年組」の1人としてデビュー当時はロングヘアーでそれほど個性を発揮していなかったが、髪を切ってからいろいろ状況が変わっていったような印象がある。27枚目のシングルとしてリリースされ、オリコン週間シングルランキングで最高2位を記録したこの曲は近田春夫のプロデュースで、当時、最先端だったハウス・ミュージックの要素を取り入れている。単にスタイルをなぞっているのではなく、新しいタイプの歌謡ポップスとしてもしっかり成立しているところがとても良い。

 

 

27. COMPLICATION SHAKEDOWN/佐野元春 (1984)

 

大滝詠一のナイアガラ・トライアングルに抜擢されたのをきっかけに世間一般的にもブレイクを果たし、ベスト・アルバム「No Damage」がオリコンで1位に輝くという絶好のタイミングで単身渡米、約1年後に届けられた作品はそれまで作風からガラリと変わり、当時の日本ではまだあまり広がっていなかったヒップホップの要素を取り入れたものだった。熱心なファンの中ですら賛否両論が大きく分かれる問題作であり、好みは別として日本のポップ・ミュージック史において画期的な作品であることは多くの人々が認めるところである。そのアルバム「VISITORS」の1曲目に収録されたこの曲に、エッセンスは最も詰まっているように感じられる。

 

 

26. さよならベイビー/サザンオールスターズ (1989)

 

80年代半ば辺りまでのサザンオールスターズといえば、国民的な人気を誇りながら批評家からも高く評価される先進性も持ち合わせているという、バンドとしてひじょうに理想的な状態であった。活動休止を経て、1988年の再始動以降は国民的バンドとしての成熟に向かっていったような印象があり、この曲にもその良いところが出まくっているような気がする。実は意外にもこの曲がバンドにとって初のオリコン1位獲得シングルであった(「いとしのエリー」「C調言葉に御用心」「チャコの海岸物語」「メロディ(Melody)」「みんなのうた」で記録した2位がそれまでの最高記録である)。

 

 

25. DOWN TOWN/EPO (1980)

 

シティ・ポップ的なシンガー・ソングライター、EPOのデビュー・シングル。リリース時からラジオなどで聴いた記憶があるが、翌年に放送が開始されたフジテレビのお笑いバラエティー番組「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマに使われてからは、より親しみ深い曲になった。いわずと知れたシュガー・ベイブのカバーだが、EPOのバージョンを初めて聴いた時点でオリジナルを知らなかった。当時の日本の一般大衆的には、どのような感じだったのだろう。

 

 

24. 東京ブロンクス/いとうせいこう&タイニー・パンクス (1986)

 

講談社の雑誌「Hot-Dog PRESS」で「業界くん物語」を担当するなどしていたいとうせいこうが高木完、藤原ヒロシから成るタイニー・パンクとリリースしたアルバム「建設的」に収録されていた曲。当時の日本ではまだそれほどポピュラーではなかったヒップホップをいち早く取り上げた楽曲として知られる。

 

 

23. 君に、胸キュン。-浮気なバカンス-/イエロー・マジック・オーケストラ (1983)

 

テクノブームで一世を風靡した後、よりコアでマニアックな作品を発表していたイエロー・マジック・オーケストラだが、化粧品のCMソングであったこの曲ではテクノ歌謡的なポップでキャッチーなアプローチをとっている。オリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録するが、この年を以ってこの革命的なユニットは解散ならぬ散開することになった。

 

 

22. 瞳はダイアモンド/松田聖子 (1983)

 

松田聖子には当時の優れたニュー・ミュージックやシティ・ポップのアーティストが楽曲を提供し、その作品はいずれもひじょうにクオリティーが高いものであった。松任谷由実が呉田軽穂の名義で提供した曲の中でも、この曲は都会的で洗練されたサウンドと舞台設定、そこで生きる女性のか弱さと強さとの間で揺れる感情が描かれたような歌詞など、シティ・ポップ的な魅力にも溢れているように思える。

 

 

21. Yes-No/オフコース (1980)

 

80年代というのは明るくて軽いのが良くて、暗くて重いのはダメとされた時代でもあり、ニューミュージックなどは不当に貶められたような印象がある。とはいえ、オフコースの音楽などはその表面的なイメージとは裏腹に、AORなどにひじょうに近いものだった訳であり、偏見を取り除いて聴くと、実はかなり良かったりもする。ということに気付いたのも、個人的にはここ数年のことだったりはする。

 

 

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