西武・セゾン文化についての個人的な思い出。 | …

i am so disapointed.

加藤賢さんの素晴らしい論文「渋谷に召喚される<渋谷系>」-ポピュラー音楽におけるローカリティの構築と変容-」を読んで、ある時期において、世界で最も好きな場所だった渋谷という街について考えてみた。私が渋谷によく行っていたのは80年代の終わりから90年代の半ばぐらいまでで、ほとんど行かなくなったのは00年代のはじまりぐらいだった。私にとって渋谷がそれほど面白くなくなってきた頃の象徴として、渋谷駅前のTSUTAYAやスターバックスコーヒーが入っているビルことQFRONTと、現在でも私が自宅や職場から渋谷に行く場合に必然的に利用する京王井の頭線の駅に隣接した渋谷マークシティが挙げられる。今回、加藤賢さんの論文を読んで気づいたのだが、いずれも東急グループがかかわっているという。渋谷マークシティの当時のコンセプトは「オトナ発信地」であり、QFRONTのTSUTAYAでは洋楽のCDがアーティスト名アルファベット順ではなく、50音順で陳列されていた。渋谷駅を出て、最も近いCDショップがここになった。

 

私がこの頃、渋谷に行かなくなったのには、他にもいろいろ原因がある。まず、1998年6月から都心とは少し離れた場所で仕事をするようになったこと、そして、1999年辺りから本やCDをイギリスやアメリカのAmazonに注文するようになったことである。私が渋谷に行く目的のほとんどは本かCDを買うことだったため、これはひじょうに大きかったと思う。そして、私が渋谷によく行っていた頃、勢いがあるように見えたのはPARCOやWAVEといった西武・セゾン文化、この印象はポップ・カルチャーに意識的にふれるようになった1970年代から続いていて、ずっと終わらないものだと無意識に信じていた。その最たるものが1983年11月にオープンした六本木WAVEだったのだが、1999年の暮れに閉店、セゾングループそのものは2001年に実質的に解散している。その後も西武百貨店やPARCOは存在はしているのだが、もうすでにセゾングループではない。

 

ところで、渋谷はいつから若者の街になったのだろう。私が東京で一人暮らしをはじめた1985年には、もうとっくにそういうことになっていた。それ以前には東京に住んでいないし、渋谷にも高校の修学旅行での一度きりしか行ったことがないので、実感としてはまったく分からない。1972年にオープンした渋谷PARCOは、ひじょうに大きな役割を果たしたような気がする。現在の公園通りは渋谷区役所に通じていることから、当時は区役所通りと呼ばれていたようだ。公園通りとう呼ばれるようになるのは渋谷PARCOがオープンしてからで、代々木公園に通じているからと、PARCOがイタリア語で「公園」を意味するからなのだという。

 

その頃、私は北海道で小学生だった。旭川に西武百貨店がオープンするのは1975年8月8日だったようだ。その頃は苫前という小さな町に住んでいたのだが、旭川には祖父母がいたので、夏休みや冬休みにはよく遊びに行っていた。当時の旭川は駅前の平和通買物公園に百貨店や映画館が立ち並び、人の行き来もひじょうに多く、私からしてみると大都会という印象であった。特に駅から最も近くにあった西武百貨店はその象徴であり、まさに燦然と輝くという表現が相応しかったように記憶している。1975年8月24日には札幌にPARCOが開店し、この頃から苫前にいても、テレビでPARCOのCMを見るようになったような気がする。

 

当時、テレビのバラエティー番組「カックラキン大放送」で野口五郎が「刑事ゴロンボ」というのをやっていたのだが、小学生らしくこれを真似してコンセプトの甘い警官ごっこのようなものをやったりしていた。同級生などに勝手な罪名をつけて、指名手配とか逮捕とかいうというやつである。家が美容院の女子が一人いて、とても目がパッチリとしていたのだが、私が彼女につけた罪名が「ギョロ目罪」、罪状は「目が大きすぎること」というしょうもないものなのだが、小学生の考えることである。その後が「美人罪」で、「美人すぎて心を惑わせること」が罪状であった。お気づきの通り、当時の私は彼女のことが好きだったのではないかと思われる。それで、こういったコンセプトの甘い警官ごっこのようなものに飽きた後で、私が彼女に付けていたあだ名というのが、「PARCOのバカ女」というそれはもう酷いものである。

 

PARCOのCMは苫前のテレビでも流れていたが、正直、PARCOというのが一体、何のことなのかは理解していなかったと思う。なぜなら、当時のPARCOのCMといえば、西洋人の女性モデルなどが出演するイメージ的な映像に意味ありげなフレーズ、PARCOのロゴマークといったもので、具体的な商品や店舗については一切ふれていなかったからである。私がなぜ彼女のことを「PARCOのバカ女」などと呼んでいたかというと、おそらく彼女の容姿にPARCOのCMに出演している西洋人モデルとの共通点を見いだしていたからであり、「バカ」というのはこの年代の男子にありがちな、好きな女子にわざと意地悪をするようなメンタリティーによるものだと思われる。これが、PARCOについての私の最初の思い出である。実にしょうもないのだが、いかにも自分らしいともいえる。

 

1977年に旭川に引っ越してからは西武百貨店をよく利用するようになるのだが、1979年にその隣にamsミドリヤというのがオープンする。これも西武・セゾン系であり、後に西武百貨店のA館となり、元からあった西武百貨店がB館になった。amsミドリヤがオープンした時のキャッチコピーは「女、キラキラ。男、そわそわ。」で、キャンペーンソングを矢野顕子が歌っていた。当時、非売品のレコードも制作されていた。作詞は糸井重里である。法政大学在学中に学生運動を行い、何度も逮捕された末に中退した糸井重里は、この頃には気鋭のクリエイターとして注目を集めていた。1978年に構成を手がけた矢沢永吉の自伝「成りあがり」がベストセラーになり、1979年には沢田研二「TOKIO」の作詞を行った。1980年元旦にシングル・カットされたこの曲では、沢田研二がド派手な衣装でパラシュートを背負い、「TOKIO」、すなわち東京のことを「スーパーシティ」と表現していた。この曲とイエロー・マジック・オーケストラ「テクノポリス」(1979年10月25日発売)は共に東京を「TOKIO」と表現したヒット曲として知られ、ポップでカラフルな80年代の到来を知らしめるような印象があった。

 

糸井重里は西武百貨店のキャッチコピーとして、1980年に「じぶん、新発見」、1981年に「不思議、大好き」、1982年に「おいしい生活」をヒットさせ、これらは当時の時代の気分にもフィットしていたように思える。パルコ出版からはサブカルチャー雑誌「ビックリハウス」が1974年に創刊されていたが、1980年からはじまった糸井重里の「ヘンタイよいこ新聞」は人気の連載であった。また、イエロー・マジック・オーケストラやRCサクセションも、当時の「ビックリハウス」ではよく取り上げられていた印象がある。糸井重里は1982年からNHK教育テレビでトーク番組「YOU」の司会を務めるが、この番組ではRCサクセションのライブを放送するようなこともあった。

 

1979年はプロ野球のクラウンライターライオンズが西武ライオンズになって、本拠地も福岡から所沢に移転した。このタイミングで阪神タイガースから西武ライオンズに移籍した田淵幸一選手を主人公にしたギャグマンガ「がんばれ!!タブチくん!!」が大ヒット、アニメーション映画にまでなった。その第2弾以降のエンディングテーマ「がんばれば愛」を作曲していたのは、「A LONG VACATION」をリリースする前の大滝詠一である。西武ライオンズははじめはそれほど強くなかったが、そのうちわりとよく優勝するようにもなっていく。西武ライオンズが優勝すると西武百貨店で優勝セールが行われるので、プロ野球に興味がない(現在は北海道日本ハムファイターズのファンだが)私の母などもなんとなく応援していた。セール会場では松崎しげるが歌う勇ましい西武ライオンズの応援歌のようなものがずっと流れていたような気がする。

 

1983年の夏休みにRCサクセションとサザンオールスターズのライブを見るため、同じ学年の女子と札幌に行った。その時、初めてPARCOに入ったのだが、旭川のデパートとは違い、とてもお洒落だった印象がある。彼女はピアスを開けようかどうか迷っているというような話を、ずっとしていたような気がする。カルチャー・クラブの「Church Of The Poison Mind」が聴こえてきて、なんだかとても自由な気分になったことを覚えている。

 

その年の秋には高校の修学旅行があったのだが、楽しみにしていたのはメインの京都や奈良ではなく、帰りに数時間だけある東京での自由行動であった。「宝島」で11月にオープンするという六本木WAVEの情報は入手していた。なんでも、ビルの上から下までほとんどがレコード売場なのだという。これはもう行くっきゃないね、と「ミスDJリクエストパレード」の千倉真理の口調で思い、集合場所の上野駅からダッシュで(もちろん現実的には電車や地下鉄を乗り継いで)向かった。それはもうすごかった。それまでには見たことがないぐらいの量のレコードの数々、しかもほとんどが輸入盤であり、最新のニュー・アルバムが早くも入荷している。カフェバーもあるし、エスカレーターで上の方の階に上がっていくと、よく分からないオブジェや楽器のようなもの、カセットマガジンや写真集なども売られていて、東京に住むと日常的にこういう店に来ることができるのか、と大興奮したものである。

 

それで、1985年2月に大学受験で東京に行った時にも、六本木WAVEには何度も行った。泊まっていたホテルまで、西武系の品川プリンスホテルだった。六本木WAVEのすぐそばに青山ブックセンターも見つけて、それまで通信販売で買っていた「よい子の歌謡曲」が書店に置かれているのを初めて見た。しかもその号には、私が投稿したレヴューが何本か掲載されていた。こんなことばかりやっていたこともあってか(実際には明らかに学力不足だった訳だが)受験には失敗、それでも4月から東京で予備校生として一人暮らしをはじめることになる。予備校が水道橋だったので通いやすいように都営地下鉄三田線千石駅の近くに住むのだが、巣鴨駅までも歩いて行けた。国鉄(まだJRではない)山手線に乗って、2駅で池袋である。当時、テレビではタレントのマリアンが「みんな行け行け、池袋!」とビックカメラのCMをやっていたが、池袋といえば西武・セゾン文化のメッカ、田中康夫は西武・セゾンのことをエッセイなどで書く時に、「練馬大根を運んでいた」というような枕詞を付ける傾向があったような気がする。田中康夫は「ビックリハウス」系文化人の内輪的なノリに対して批判的なスタンス(橋本治、南伸坊だけは評価)を取っていたような気がするが、「ビックリハウス」のカセットでは編集長の高橋章子とデュエットをしていた。

 

池袋の西武百貨店にはディスクポート、PARCOにはオンステージヤマノというレコード店があり、レコードはこのうちのどちらかで買うことが多かった。ザ・スタイル・カウンシル「アワ・フェイヴァリット・ショップ」やプリンス&ザ・レヴォリューション「アラウンド・イン・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」やエヴリシング・バット・ザ・ガール「ラヴ・ノット・マネー」などの入荷の早さに驚かされ、これが東京かと強く感じた。とはいえ、巣鴨のレコード店で買うこともあり、それはDISC510こと後藤楽器店と西友の2階にあるレコード店だった。この西友の1階にはチケットセゾンもあって、近田春夫のアルバムを原作とする映画「星くず兄弟の伝説」の前売り券を買ってステッカーをもらった。配給はセゾングループのシネセゾンであった。この映画を観るため、初めて新宿の歌舞伎町に行った。池袋には書店もたくさんあったのだが、やはり西武ブックセンターが特に好きだった。

 

このようにレコードや本を買う要件は池袋でほぼまかなえていたため、新宿や渋谷にまではあまり行かなかった。本気でレコードを見たり買ったりしたい気分の時には、六本木WAVEにまで足を伸ばした。渋谷のタワーレコードにはこの年、一度も行かなかったような気がする。タワーレコードについては日本での1号店である札幌店にすでに行ったことがあったので、特に目新しさを感じなかった。それにも増して当時の時代の気分として、カフェバーとかハウスマヌカンとか新人類とか、なんとなくポストモダンで無機質な方がカッコいいというような風潮があり、WAVEのグレーに黒のロゴマークというのはそれにマッチしていたのだが、タワーレコードの黄色に赤はあまりにもポップでキャッチーすぎるというような印象があった。当時、レコードを買う店を選ぶにあたって、その店のレコード袋を提げて歩きたいかどうかというのも重要なファクターだったような気がする。

 

大学に入学するタイミングで小田急相模原に引っ越すので、都心に出る頻度はひじょうに減ってしまう訳だが、いろいろあってやっとこさ1989年には渋谷までの通学定期券を所持することになっている。この頃にはWAVEが六本木だけではなく、渋谷ロフトの1階にもできていた。それでも質量共に六本木の方が圧倒的ということもあって、本気で見たり買ったりしたい時には、渋谷からバスに乗って六本木まで行っていた。それでも、渋谷のWAVEの方がやはり近くて便利なので、ここで買う割合もやはり増えていった。おそらく人生で最も多くのCDを買った店だと思う。1990年6月6日に発売されたフリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」も入荷日にここで買って、オレンジ色のキーホルダーのような物を特典としてもらったはずである。これはもうとっくに失くしてしまったと思っていたのだが、先日、引っ越しの時に机の収納スペースから出てきた。

 

フリッパーズ・ギターは後に「渋谷系」を代表するアーティストの一つとして知られるようになり、「渋谷系」といえば1990年にセンター街のONE-OH-NINEにオープンしたHMVのイメージが強いが、私にとってフリッパーズ・ギターといえばWAVEという印象である。「カメラ・トーク」を買ったのが渋谷WAVEというのももちろんあるのだが、その少し後に六本木WAVEに行った時、フリッパーズ・ギターが選ぶネオアコ名盤のようなチラシが置かれていて、それはWAVEオリジナルのものだったと思う。それから、1991年から少しだけ六本木WAVEで契約社員として仕事をすることになるのだが、そこで何人かのフリッパーズ・ギターのファンと出会い、それが私の音楽リスナーとしてのスタンスに大きな影響をあたえてもいった。また、六本木WAVEで小山田圭吾の姿を毎日のように目撃していた(小沢健二も何度か)ということも大きい。

 

イギリスからHMVとヴァージン・メガストアが日本に上陸したのは1990年、HMVは前述のように渋谷のONE-OH-NINE、ヴァージン・メガストアは新宿のマルイの地下にまずは出店した。タワーレコードにはアメリカ盤のイメージが強く、イギリスのニュー・ウェイヴまでをも視野に入れた場合、六本木WAVEに行かなければ買えない、行くだけの価値があるCDやレコードというのは結構あったのではないかと思うのだが、HMVやヴァージン・メガストアの進出によって、わりとそうでもなくなっていったのかもしれない。それから、WAVEにいた人材が他のCDショップに流出していくという話も当時は聞いたような気がする。バブル景気が1991年には終わっていたといわれていて、一般庶民がそれを実感するのはその少し後になるのだが、景気は次第に停滞していく。六本木WAVEは1992年の秋に大幅なリニューアルを行うが、KLFのCDを大量陳列するといった尖ったことをやっていた1階では、アロマキャンドルなどを販売するようになっていた。わりと近くにあったFM放送局、J-WAVEは1988年に開局したが、セゾングループが出資もしていて、六本木WAVEとは流行発信においてマッチポンプ的な部分も少なからずあったように思える。この頃になると、六本木WAVEの客層はJ-WAVE的なコンサバティブな音楽を好む人達がメインになっていたような気がする。

 

1993年にパルコクアトロにもWAVEがオープンし、ここはカーディガンズのCDをものすごく売ったり、「渋谷系」の人達にもひじょうに人気があったようだが、個人的にはクラブクアトロで行われたオアシスの初来日公演の待ち合わせの場所として使ったぐらいしか記憶がない。1995年に渋谷のタワーレコードが宇田川町から現在の場所に移転し、売場面積も大幅に拡張する。一方、同じ年に渋谷のWAVEはロフトの1階から上の方の階に移動した。コーネリアス「MOON WALK」のカセットやカヒミ・カリィ「GOOD MORNING WORLD」(共に1995年10月16日発売)のシングルCDを買った頃には、すでに上の階に移っていたと思う。新しくなったタワーレコード渋谷店は洋書・洋雑誌がひじょうに充実していて、よく利用していた銀座のイエナ書店や渋谷PARCO地下の洋書ロゴスなどと比べ、価格も安かった。時代の空気感的にも、WAVEのグレーに黒よりもタワーレコードの黄色に赤の方がなんとなく合っているような気分にもなって、タワーレコードもよく利用するようになった。PARCOにはある時期、「GOMES」というフリーペーパーが置かれていて、当時、付き合いはじめた現在の妻がこれを大好きで、新しい号が出るのを楽しみにしていた。それもやがて出なくなった。

 

西武鉄道の創業者、堤康次郎が1964年に亡くなった後、次男の堤清二が流通部門を引き継ぎ、独立させたのがセゾングループとなる。1973年にオープンした渋谷PARCOの成功をはじめ、カルチャーやライフスタイルの提案を前面に押し出した戦略は高度経済成長が実現し、精神的な豊かさを求めはじめた当時の日本国民の欲望にうまくハマっていたのかもしれない。そして、その凋落はやはりバブル景気の終焉と共に訪れたようだ。

 

六本木WAVEのレジカウンターに置かれていたバブルガム・ブラザーズのPOPが何かにぶつかって床に落ちてしまった。それを見た女性社員が「バブルの崩壊」と言って、周りにいた人達は私を含めて笑った。それはニュースや雑誌の広告か何かで見かけた言葉で、何となく意味は分かっているつもりだったけれど、実感はあまりされていなかった。中目黒にもつ鍋の店がたくさんあって、なかなかのブームなのだという。バブルが崩壊して不景気だから、安くておいしくて栄養もあるもつ鍋がブームだともいわれていたのだが、実は少し前に博多で流行したのが東京に上陸しただけだったらしい。

 

先日、仕事で渋谷に行った時、2019年にリニューアルオープンした渋谷PARCOで松尾ジンギスカンを食べた。北海道では有名なチェーン店だが、実際、ジンギスカンは家や炊事遠足(北海道ではポピュラーな学校行事)で食べることが多い現在の渋谷PARCOにはWAVEのロゴが付いた小さな売場や、自動販売機も設置されている。PARCOやWAVEであることには違いないのだが、とっくにセゾングループではないからなのか、懐かしい気分にはほとんどなれない。それでも、なんとなく安心したりはする。皮肉にもその日の仕事相手は、東急グループのSHIBUYA109エンタテイメントであった。