加藤賢「渋谷に召喚される<渋谷系>」を読んで考えた渋谷という街についての個人的な印象。 | …

i am so disapointed.

Twitterのタイムラインで加藤賢さんの「渋谷に召喚される<渋谷系>-ポピュラー音楽におけるローカリティの構築と変容-」という論文が話題になっていて、チト(河内)気になっていたのだが、読みはじめるとおそらくガッツリと読んでしまって、いろいろなことを考えはじめたり、それについて何か書きはじめたりしそうな予感がひじょうにしていたので、週末まで我慢したのであった。じっと我慢の子であった(ボンカレー x 「子連れ狼」、1973)。

 

そして、やっとこさ(明石家さんまが「ヤングタウン土曜日」などで多様する「やっと」を意味する言い回し)読ませていただいたのだが、「M-1グランプリ2005」でチュートリアルの漫才を見た松本人志のように、「おも...しろいですねぇ」、また、「M-1グランプリ2001」で麒麟の漫才を見た松本人志のように「僕は今までで一番良かったですね」というような気分になった。

 

それはそうとして、「渋谷に召喚される<渋谷系>」を書かれた加藤賢さんは1993年生まれということで、「渋谷系」のシグネチャー的な楽曲ともいえるピチカート・ファイヴ「東京は夜の7時」(1993年12月1日発売)や小沢健二、スチャダラパー「今夜はブギーバック」(1994年3月9日発売)がリリースされた頃には、0歳か1歳だったということになる。

 

たとえばこの時代に「渋谷系」的な文化をリアルタイムで経験したものであれば、個人の思い出話的なものをうっとりと語りがちでもあり、それはそれでもちろん面白いのだが、この論文においてはそうではないからこそ書くことができたのではないかと思われる、客観性や研究者的な視点が感じられ、とても楽しかった。あとは、論文とはいえ小難しい言葉を用いた衒学的なものではなくて、とても読みやすいところがバッチグー(森口博子)である。

 

あと、これは個人的な印象なのだが、私が渋谷の街が好きでよく行っていた頃というのは、PARCOだとかWAVEといった西武・セゾン文化的なものの勢いがあった頃で、ほとんど行かなくなってつまらないと感じはじめたのが、駅前のTSUTAYAが入ったQFRONTだとか渋谷マークシティが出来た頃だと感じていたのだが、今回、この論文を読んでQFRONTもマークシティも東急系であり、単に私が西武・セゾン好きで東急がそれほど好きではないということなのかもしれない、と感じたりもした。

 

それから、「渋谷系」という言葉だが、いまでこそいろいろな人達が平気でこの言葉を用いているが、つい5年ぐらい前までは、「渋谷系」という言葉は実はあまり好きではないが、というような前置きなしでは使いづらいような状況が確実にあった。私自身はそのような衒いのようなものの方が歯切れが悪いような気がしていたし、「渋谷系」というカテゴライズが若い人々が過去の音楽やカルチャーを参照する際に便利であるならば、それは良いものなのではないかと、基本的には考えていた。私がブログやSNSなどで「渋谷系」と「」付きで表すようになったのも、その頃だったような気がする。「渋谷系」のポップ・アイコン的存在であったピチカート・ファイヴの元ボーカリスト、野宮真貴が「野宮真貴、渋谷系を歌う。」シリーズをリリースしはじめたのは2014年からで、これには潔さというか清々しさのようなものを感じていた。

 

あと、私はフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴやカヒミ・カリィの音楽が気に入っていたり、CDを買ったりもしていたので、いわゆる「渋谷系」に片足突っ込んで、そういった気分の残り香ぐらいは味わっていたような気もするのだが、「渋谷系」的なコアでマニアックな思い出話がうっとりした語り口調ではじまった瞬間に一気に興味がなくなる。それも、今回、この論文のわりとはじめの方に、「渋谷系」の定義として引用されているうちの「過去音源の収集・発掘および音源再発やDJ活動、雑誌やZINE制作による知識の拡散」という側面にまったくといっていいほど興味がなかったからなのだろうということが、スッキリと分かったのも気持ちよかった。

 

それで、いわゆる「渋谷系」とはほとんど関係がなかった私にとって、90年代の渋谷が世界で最も好きな街だった理由というのは、とにかく便利で楽しかったからということに尽きる。とはいえ、私はたとえ渋谷に行ったとしても、CDショップと書店、その合間に飲食店ぐらいにしか行かなかったのだが、それらが充実していたからというのがひじょうに大きい。

 

それでも、80年代には東京で一番すごいCDショップといえば六本木WAVEであり、渋谷のバスターミナルからわざわざバスに乗って(あるいは恵比寿で営団地下鉄日比谷線に乗り換えて)行っていた。渋谷のロフトにもWAVEはできたが、質量ともに六本木の方がすごかった。タワーレコードは宇田川町にあったのだが、あくまでアメリカ盤が中心というイメージで、イギリスのニュー・ウェイヴ系なども視野に入れるならば、弱かった印象は否めない。それで、1990年にイギリスからHMVが上陸して、センター街のONE-OH-NINE、現在はドン・キホーテの場所にオープンするのだが、このぐらいの時期からわざわざ六本木まで行かなくても渋谷で済むのではないか、という気分が高まっていたような気がする。個人的には1989年から大学の青山キャンパスに通学するようになって、定期券で行けるようになったというのもひじょうに大きかったような気はする。

 

それでも、渋谷がいわゆる「渋谷系」的なムード、アニエスベーを着たオリーブ少女がZESTの袋を提げて歩く的な感じになったのは、間違いなくフリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」(1990年6月6日発売)以降の話であって、それまでの渋谷といえばセンター街のチーマーだとか、大学生のコンパ、トレンディーでコンサバティブなデートスポットなどの印象が強い街であった。それでも、熱気で溢れていたことには間違いがない。

 

私が小田急相模原で爛れた生活を送っていた1980年代後半の話なのだが、本当にこのままではいけないと思い、突発的に電車に乗って、渋谷に行ったのである。

 

イギリスのインディー・ロック・バンド、ザ・スミスが1986年に「クイーン・イズ・デッド」というアルバムをリリースして、このレコードを私は渋谷公会堂で松本伊代のコンサートを見た帰りに宇田川町にあった頃のタワーレコードで買ったのだが、「There Is A Light That Never Goes Out」という曲がシングル・カットされていないにもかかわらず人気が高く、解散してからシングル・カットされたりもしていた。この曲のタイトルは2020年にサニーデイ・サービスがリリースしたアルバム「いいね!」の1曲目に収録された「心に雲を持つ少年」(このタイトル自体、ザ・スミス「心に茨を持つ少年」にインスパイアされていると思われる)の「ずっと消えない太陽がある」に影響をあたえていると思われる。

 

それで、好きな人と車に乗っている時に10tトラックと衝突するようなことがあったとするならば、なんて素敵な死に方なのだろうというようなことを、この曲は歌っているのだが、最初の歌詞が「Take me out tonight. Where there's music and there's people and they're young and alive」、つまり、今夜つれていって、音楽が鳴っていて、若くて生き生きした人達がいるところへ、というようなものなのだが、その夜、渋谷はものすごい人混みで、キラキラと眩しいのだがギラギラとした欲望も感じた。そして、人々は生き生きとしていて、それは当時の私に欠けているものだった。はっきりと怖気づいたのだが、いつかこの中に溶け込みたい、これは私が心の奥底で欲している世界だ、と強烈に感じた。そして、また小田急相模原のワンルームマンションに帰って、地元の女子高生と焼うどんを調理したり、それ以外のことをしたりした。ムスクのコロンと精液や愛液の匂いが混じり合う、間接照明の灯りの中で、このままではいけないとだけは感じていた。

 

フリッパーズ・ギターが初めて日本語の歌詞でリリースしたシングル「恋とマシンガン」の発売日は、1990年5月5日であった。同じ日に、たま「さよなら人類」、スチャダラパー「スチャダラ大作戦」も発売されていて、これらすべてを私はすぐに買っている。スチャダラパーのデビュー当時、日本でラップやヒップホップが受け入れられるとはまったく考えられていなく、当時のスチャダラパーの歌詞でも、「日本じゃどうかなヒップホップミュージック」とか「ラップじゃ食えんよギャラ10円」とか言われていたはずである。スチャダラパーは小沢健二とのコラボレーション曲「今夜はブギーバック」の印象もあり、「渋谷系」と親和性が高いアーティストでもあるように思われるが、「スチャダラ大作戦」に収録され、渋谷の街のことが取り上げられている「N.I.C.E. Guy」が「渋谷系」の文脈で取り上げられることはほとんど無いように思われる。なぜなら、そこには「渋谷系」を「召喚」した渋谷の街が切り捨てたようにも思われる、プレ「渋谷系」的な渋谷のある面におけるリアルが表現されてもいたからである。

 

トレンディードラマで人気を博した浅野ゆう子、浅野温子はW浅野と呼ばれ、そのファッションを真似た女性達が街に溢れた。バブル景気の欲望は性愛に向かい、恋愛至上主義的なカルチャーは村上春樹「ノルウェイの森」(1987)にはじまる「純愛」ブームがコーティング、松任谷由実は「ダイアモンドダストが消えぬまに」(1987年)から「LOVE WARS」(1989年)まで「純愛三部作」をリリースする。「鶴ちゃんのプッツン5」のお見合い企画的なコーナーに出演した暴走族風の素人男子まで「ノルウェイの森」読んで、純愛っていいなと思いました、などと言いはじめる始末。「POPEYE」「HOT DOG Press」といった男性ライフスタイル雑誌は性愛を目的としたデートマニュアルを掲載、「MEN’S NON-NO」(1986年)の創刊によって一般的な男子もファッションや見た目に気を遣うのが当たり前になる。ファッションやライフスタイルのマニュアル化が、「N.I.C.E. Guy」を増殖させ、そのメッカともされたのが渋谷公園通りであった。大学生はサークルのお揃いのジャンパーを着て、109の前でコンパのために集まる。居酒屋の後はディスコ、そこではユーロビートがかかっていて、ヒューヒュー声を上げて盛り上がる。渋谷といえば丸井、赤いカードは学生でも簡単につくれるクレジットカードとして人気があり、D.C.ブランドブームを盛り上げる。ファッション雑誌を見て、身の丈に合わぬ高価なブランドの洋服をクレジットで買う若者が続出、月賦ではなくクレジットと呼ぶことで貧乏くさいイメージを払拭したのはある意味、大発明だったのではないだろうか。ブランドブームが去ると、Tシャツにジーンズが似合う男こそが実は一番カッコいいのではないかという感じになっていき、体を鍛えようという話になっていく。1988年のソウルオリンピックで金メダルを獲得し、注目されたのが水泳の鈴木大地選手。それで、「POPEYE」でも「モテる度ナンバーワン 鈴木大地になるマニュアル。」なる特集が組まれ、スチャダラパーは「N.I.C.E.Guy」において、「いまモテモテは鈴木大地タイプ」とラップ、その後には「外見さわやか 悩みはない 大学生 無個性 情けねー オメーら頭にゃ やるしかねー」などと続く。このような「N.I.C.E. Guy」の生態のようなものが描写されているのだが、渋谷タウンでは奴らがメインだともこの曲の中ではいわれていて、当時のリアリティーからしてそれは本当である。そんなスチャダラパーがこの4年後に小沢健二とコラボレートした「今夜はブギーバック」が、「渋谷系」アンセムとなるに至るのだから、なかなか感慨深いものがある。それで、この「N.I.C.E. Guy」という曲は、「渋谷系」を「召喚」する以前の渋谷を記録した資料としても貴重なのではないかと考えるのである。藤原ヒロシによるリミックスバージョンもネオアコ風味でカッコいい。