カート・コバーンが亡くなったのを渋谷WAVEで知った頃のことについて。 | …

i am so disapointed.

1994年の春に広告代理店に入社したのだが、正社員として雇用されるのは生まれてはじめてのことであった。月曜から金曜までは仕事で土曜と日曜は休みという、きわめてありふれたパターンであった。あえてそういうのに自分からハマりにいっていたといっても過言ではない。当時、付き合っていた女子大生にはアルバイトでもいいから夢を追いかけてほしい的なことも言われていたが、そう言ってばかりもいられはしないし、限界は見えていた。

 

一週間で最も盛り上がる時間というのは、土曜日に渋谷に出かける時なのだが、なぜ渋谷だったかというと行きたいCDショップや書店が多かったから、ということに尽きる。渋谷ロフトの1階にWAVEがあって、入って少し行って左側のところで「NME」の最新号やイギリスのインディー・ロックのCDなどが売られていたような気がする。タワーレコードはまだ宇田川町にあって、確か翌年に現在の店舗に移ったはずである。HMVはセンター街のONE-OH-NINEの1階と地下にあった。後に「渋谷系」の発信地のようにいわれたりもするが、この頃に「渋谷系」という言葉を私が知っていたかどうかは定かではないし、おそらく知らなかった可能性の方がひじょうに強い。

 

フリッパーズ・ギターとかピチカート・ファイヴとか後に「渋谷系」の代表的なアーティストだといわれる人達の音楽はわりと好きだったのだが、それは「ロックング・オンJAPAN」的な価値観においてであった。実は「ロッキング・オンJAPAN」は売り上げが低迷していて、廃刊の危機を迎えたりもしていたのだが、「渋谷系」的なアーティストを取り上げると部数が伸びることに着目し、判型を小さくしたリニューアルと同時にそういったアーティスト達を表紙で使い続けることによって復調した、というようなことを当時の編集者同士の対談のようなもので読んだような気がする。「ロッキング・オンJAPAN」において、フリッパーズ・ギターはフニャモラーなどと呼ばれてひじょうに人気があったのだが、ニューエスト・モデルの中川敬との対談なども結構、面白かったような記憶がある。あと、活字媒体におけるフリッパーズ・ギターの記憶といえば「宝島」の「フリキュラ・マシーン」で、それ以外はほとんど覚えていない。

 

いま話題にしている1994年にはフリッパーズ・ギターはとっくに解散していて、前の年に元メンバーの2人がそれぞれのソロ活動を本格始動したのではなかっただろうか。私はほとんどまともに聴いていなかったのだが、小沢健二の「天気読み」はコンビニエンスストアで聴く機会もあり、わりと気に入っていた。コーネリアス「太陽は僕の敵」「(YOU CAN'T ALWAYS GET) WHAT YOU WANT)」なども後にカラオケの愛唱歌になるのだが、この頃はまだちゃんと聴いていなかった。というか、日本のあらゆるポップ・カルチャーを意図的にシャットアウトしたりもしていた。この真相についてはわりと闇が深く、長くなるわりには今回の主題とそれほど関係がないのでここでは割愛する(というか、一応、だらだらと長い昔話を、それでも主題と何らかの関係があるつもりで書いていたのかよ、と驚かれたとしても仕方がないという自覚ならある)。

 

告白の電話のようなものがかかってきた時は、友達と小沢健二のライブに行ってきたとか言っていたのだが、部屋のテレビでは「浅草橋ヤング洋品店」が流れていて、ルー大柴やナインティナインなどが活躍していたような気がする。彼女が通っている大学が桜上水だか下高井戸たかにあって、下高井戸の小さなビルの階段を上がっていったところにあるハンバーグ屋がものすごく美味しかったことはなぜかよく覚えている。1993年12月1日にピチカート・ファイヴ「東京は夜の7時」はリリースされているのだが、この年のクリスマス・イヴにお洒落をしてやはり渋谷に出かけた訳で、この曲を聴くと思い出すのがその時の気分で、いま振り返るとまったくのフィクションだったとしか思えないのである。普段は行かないようなレストランで白ワインとか何らかの白身魚を用いた料理などを食べたような気がするが、私は「NME」の年間ベスト・アルバムでブー・ラドリーズの「ジャイアント・ステップス」が2位に選ばれたことを喜んだりしていた。ちなみに、1位はビョーク「デビュー」である。

 

東京タワーの近くにあったみなと図書館とかいうところでやっていた、「ロッキング・オン」の増井修によるロック講座的なものにも彼女と彼女の友達と3人で行ったことがあり、宮嵜広司が給料日に新宿のブート屋で買ったというザ・スミスの海賊版ライブビデオを流したりしていた。そういえば、後に「渋谷系」の代表的なアーティストと呼ばれるが、ボーカリストが「俺は渋谷系じゃない」的な発言をしたともいわれるオリジナル・ラヴは1992年ぐらいの六本木WAVEの店員に大人気で、売場でもよく流れていたのだが私にはあまりにもキメキメでカッコすぎるように思え、完全に乗り損ねたということはいうことができる。それから「渋谷系」と親和性が高かった人達の中にはアシッド・ジャズだとかクラブ/DJ系に行く人達がわりと多かった印象があるのだが、そっち方面にも私はまったく行くことができなかった。あとは正式な「渋谷系」であることの条件としてよく、DJパーティーに出入りしたりDJ感覚でレコードを買ったりということがいわれたりもするのだが、そういった経験も当時の私には1秒たりとも無かった。まだ若すぎたり地方に住んでいたためにこのような経験ができなかった訳ではなく、20代で幡ヶ谷とはいえ渋谷区民だったにもかかわらずまったくやっていなかったので、言い訳の余地はどこにもない。「渋谷系」の人達が好んでいたといわれる「BARFOUT!」という雑誌をそれこそ渋谷のHMVで買って読んだりもしてみたのだが、、何が書いてあるのかほとんど分からなかったような記憶がある。いや、文章の意味は分かるのだが、そのフィーリングを共有する素養に著しく欠けているというか。ゆえに、私は「渋谷系」とほとんど関係がないのだが、広告代理店の上司や先輩社員からは「渋谷系」だと誤解されていた。週末に渋谷でCDを買ったりしていただけなのにである。これでは本物の「渋谷系」の人達に対して、あまりにも申し訳ない。1995年にフジテレビで放送を開始した「今田耕司のシブヤ系うらりんご」的な文脈でならば、分からなくもないのだが。

 

という訳で、おそらく1994年4月9日の土曜日にいつものように、当時、付き合っていた女子大生と渋谷に行って、まずは渋谷ロフトのWAVEに入った。突然、ニルヴァーナ「ネヴァーマインド」から、シングル・カットもされていない激烈な曲が流れ出す。新譜でもないのに何だろうと思い、その時にかけているCDのジャケットを映し出すモニターを見ると、確かに「ネヴァーマインド」のCDジャケットと「カート・コバーン自殺!」というような、手書きのコメントカードが目に入った。

 

特に意外でもなかったのだが、あーそうなのか、というような気分にはなった。そして、わりと衝撃でもあったのだが、これで伝説になったような気もした。その少し前にフランスかどこかでオーバードーズしたことが大きく取り上げられ、「NME」ではパルプの表紙が飛んだとかいうことがあったような気がする。それで、翌週の「NME」の表紙はカート・コバーンだったのだが、先日、引っ越しの時にこの号だけが出てきた。他のバックナンバーは10年前の引っ越しの時にすべて処分したのだが、これだけは取っておいたようである。

 

この2日後にイギリスではオアシスのデビュー・シングル「スーパーソニック」がリリースされたのだが、翌週には日本にも入荷していたのだろうか。私はおそらくやはり渋谷WAVEで「スーパーソニック」のCDシングルを買って、それから当時、付き合っていた女子大生とモボ・モガという飲食店に行ったはずである。アイスミルクティーのグラスが異常に大きかったような気がする。彼女とはそれから数ヶ月後に別れることになるのだが、チケットを取ってくれていたオアシスの初来日公演には一緒に行って、「リヴ・フォーエヴァー」を合唱したりしていた。

 

そして、2021年、加納エミリのライブを観るため、渋谷に行った。モボ・モガというあの店は、現在はMoGa cafeとして営業されている。久しぶりに入って、当時を懐かしんだりもしていた。突然、店内の音楽がオアシスの「リヴ・フォーエヴァー」に換わり、こんなことが本当にあるのだ、と驚かされたりもしたのであった。