フォンテインズD.C.「ア・ヒーローズ・デス」について。 | …

i am so disapointed.

アイルランド出身のポスト・パンク・バンド、フォンテインズD.C.の2作目のアルバム「ア・ヒーローズ・デス」がリリースされたので聴いてみたのだが、かなり良かった。このジャンル自体、すっかり熱心には聴かなくなってしまったのだが、たまたま聴いた中では今年になってから最も気に入っているかもしれない。

 

さて、フォンテインズD.C.だが、昨年にリリースされたデビュー・アルバム「ドグレル」が好評な上に、全英アルバム・チャートでも最高9位(アイルランドとスコットランドでは4位)とわりと売れたこともあり、かなり注目されることになった。いわゆるインディー・ロックといわれるような音楽が、いまやポップ・ミュージック界のメインストリームではないことは周知の事実なのだが、そんなご時世にいわゆるインディー・ロックのバンドやアーティストが取る手法として、メインストリームのポップスに寄せていくというやり方がある。The 1975などはそもそもがポップさを内包したバンドでもあったので、ナチュラルにうまくいったのだが、より好き勝手にやった印象が強い最新アルバムでは賛否両論である。

 

フォンテインズD.C.は元々、アレン・ギンズバーグだとかジャック・ケルアックだとかの、いわゆるビートニクスだとか、アイルランドの詩人だとかに影響され、詩作を行っていたメンバーが中心となったバンドらしい。デビュー・アルバムの「ドグレル」というのも、アイルランドの労働者階級の詩のことだというのだ。バンド名は元々、フォウンテインズで、映画「ゴッドファーザー」の登場人物から付けたようなのだが、同じ名前のバンドが存在していたことから、ダブリン・シティの略であるD.C.を付けたのだという。

 

今回のアルバムではデビュー・アルバム「ドグレル」に比べ、音楽性の幅が広がり、表現に深みが増したような印象を受けるのだが、一方で原初的な勢いは失速したのではないかというような、1作目から2作目までの間にはよくありがちな感想を、多くのリスナーが持つのではないかという気がする。それで、どこを重視するかによって、評価も分かれるのではないだろうか。私はインディー・ロックよりもポップスの方が大好きというか、インディー・ロックもあくまでポップスの一種として聴いているので、このアルバムの方がずっと好きである。

 

とはいえ、アルバムの前半は、かなりポスト・パンク色が強い。というか、このアルバムにはいろいろなタイプの曲が収録されているのだが、曲順が絶妙だと思うのである。ジャンルもまったく異なるのだが、最近、聴いた中ではRYUTistの「ファルセット」でも特に感じたことなのだが、曲順はやはりとても重要で、ストリーミング全盛の現在では楽曲そのものが重視され、アルバムというフォーマットはそれほど重要ではないのではないか、などとも言われがちだが、実はそうでもないのではないか、という気分になったりもする。

 

1曲目の「アイ・ドント・ビロング」だが、ソニック・ユースの「シスター」とか「デイドリーム・ネイション」とかの頃のようなアート感覚なギター・サウンドが感じられ、内容はオレは誰にも属していないし、属したくもないということを延々と歌うというものである。インディー・ロックの救世主的な見方をされたり、なんらかのサブジャンルに括られがちだったりはするのだろうが、ロックとは「個」であるということである、などという古くも感じられるのだがもちろん正しいと思っている考えを持つ私にとっては、ひじょうに気分が盛り上がり、ロックもまだまだ捨てたものではないのではないか、などと思ったりもする。

 

ドラムス、ベース、ギター、ボーカルと、すべてのパートが有機的で、ミニマリズム的でありながらムダがまったく無い。本質的である。こういうのがいまの時代にまた合っているのかな、などと思ったりもする。

 

「ラヴ・イズ・ザ・メイン・シング」なども、きわめて真っ当なメッセージを伝えているようだし、「テレヴァイズド・マインド」は分かったような分からないような感じでは、個人的にはあるのだが、曲としてはとてもカッコいい。次の「ア・ルシッド・ドリーム」ではさらに疾走感も感じられ、ジョイ・ディヴィジョンとかの系譜にも連なるな、と興奮を覚える。とはいえ、レトロな感じではまったくなくて、そういった要素を消化しながら今日的な感覚で鳴らしている、という印象を受ける。

 

ポスト・ロック感をさらに深化させているな、などと感心していると、次の「シー・セッド」では、もっとキャッチーに聴かせるタイプの曲であり、覚えやすく、メロディアスな一面もそういえばあったのか、などと感じさせる。それでいて、ポスト・パンク的なエッジは適度にずっと立ち続けているので、アルバムとしての流れはきわめて自然である。

 

「オン・サッチ・ア・スプリング」ではさらに、過ぎ去ってしまった遠い春の日を懐かしむような、ノスタルジックな気分も感じさせる。人々が仕事に行くのを見ている、ただ死ぬだけのために、などという歌詞もあってハッとさせられる。この時点で、ポスト・パンクはこのバンドの特徴のほんの一面に過ぎないのだ、ということを思い知らされる。基本的にはポスト・パンク的なバンドだが、変化球的にこういうパターンの曲もある、というのではなくて、これはこれでちゃんと優れているのだ。

 

などと思っていると、次がタイトル・トラックの「ア・ヒーローズ・デス」で、ゴキゲンでノリノリなポップ・チューンである。キャッチーなコーラスも、とても良い。それで、歌っている内容は「人生はいつも空虚ではない」という、このフレーズが何度も何度も繰り返し歌われる。みんなの前で自分が好きな物を言おうとか、お母さんに愛しているということを伝えようとか、健康のために人生を犠牲にするなとか、100時間毎に自分自身のために花を買おうとか、そういうことも歌われている。「人生はいつも空虚ではない」ということは、基本的には空虚でもあるということであり、それをそうでなくするのは自分次第という、そういうことが歌われているのだろう。この曲のミュージック・ビデオがまた、エンターテインメント番組の司会者を主役としたクセが強いもので、このバンドの一筋縄ではいかないセンスと知性とを感じたりもする。

 

この後、「リヴィング・イン・アメリカ」「アイ・ウォズ・ノット・ボーン」「サニー」と、いずれもタイプが異なって、どれも良い曲が続いて、最後がバラードの「ノー」である。「どうか自分自身を閉じ込めないで ただグレーな状態を味わって」だとか、いまの時期に聴くとまたグッとくるフレーズがあったりもして、とても良い。

 

フォンテインズD.C.というバンドがポスト・パンクにとどまらぬ幅広い音楽性を持っていることがよく分かり、インディー・ロックにもこれだけの可能性があるのだということを知らしめてくれる、とても良いアルバムである。