ノーランズ「ダンシング・シスター」について。 | …

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モーニング娘。’20の横山玲奈が2017年5月18日のブログ記事において、小さい頃からずっと好きな曲として挙げているのが、ノーランズの「ダンシング・シスター」である。洋楽を好きな父が車で流しているのを聴いて気になった中でも、特に好きな曲なのだという。

 

ノーランズはアイルランド出身の姉妹グループで、当初はノーラン・シスターズという名前であった。1979年11月3日にイギリスでリリースされたこの曲は、翌年には全英シングル・チャートで最高3位のヒットを記録した。日本では1980年7月31日にEPIC・ソニーからリリースされ、11月17日付のオリコン週間シングルランキングで、松田聖子「風は秋色/Eighteen」に替って1位の座に着いた。「ダンシング・シスター」は2週連続で1位を記録した後、五輪真弓「恋人よ」にその順位を明け渡した。

 

1980年は新しい年代の始まりであり、日本のポップ・カルチャーにおいてはそれだけに止まらぬ変化が感じられた年でもある。

 

1970年代後半、日本のヒット・チャートを席巻していたのはニュー・ミュージックであった。職業作家によって書かれた曲を歌手が歌ったものではなく、自分で作った曲を歌うシンガー・ソングライターやバンドが持てはやされた。それはある種の本物志向とも捉えられ、歌謡曲よりも新しく、価値が高いものとされていた印象もある。

 

ニュー・ミュージックの定義ははっきりしていなく、それ以前に流行していたフォーク・ソングをより都会的にしたもの、というような感じもあった。これには、当時の日本国民の生活水準の向上も関係しているような気がする。フォーク/ニュー・ミュージックとしてカテゴライズされることもあり、そこには歌謡曲や演歌をのぞくすべての日本のポップ・ミュージックが含まれていたような印象もある。また、ニュー・ミュージックのすべてが自作自演だったわけではなく、職業作家によって書かれたものも少なくはなかった。

 

歌謡界ではピンク・レディー、沢田研二、山口百恵、西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎といったスターが君臨し、ヒット曲を生み出し続けていた。こんな中、歌謡ポップス界の新人はブレイクすることが難しく、石野真子や榊原郁恵がなんとか健闘していたぐらいであった。新人アイドルを支持し、スターに押し上げるのは主に若いファンだったわけだが、当時の若者達にとって支持すべき音楽はニュー・ミュージックであり、歌謡曲にはどこか時代遅れな印象もあった。そして、ニュー・ミュージック界にも御三家と呼ばれた世良公則、原田真二、Charや女性では竹内まりやのように、アイドル的な人気を得る者もあった。

 

イエロー・マジック・オーケストラの2作目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」がリリースされたのは、1979年9月25日である。このシンセサイザーを駆使し、未来的でありながらどこかオリエンタルな雰囲気も漂う新しい音楽は若者の注目をあつめ、翌年になると社会現象的といえるほどのヒットを記録する。それはニュー・ミュージック持つシリアスなイメージから跳躍した、ライトでポップで表層的な感覚のようでもあった。アルバムの1曲目に収録され、シングル・カットもされた「テクノポリス」は、東京が「TOKIO」と発音され、その都市名に未来的なイメージをあたえた。

 

歌謡界で頂点をきわめた沢田研二もまた、東京のことをスーパー・シティと歌ったシングル「TOKIO」を1980年1月1日にリリースされ、テレビの歌番組では落下傘を背負ったド派手な衣装がとても目立っていた。この衣装は、後にバラエティ番組「オレたちひょうきん族」でビートたけしが演じたタケちゃんマンのコスチュームにも影響をあたえた。

 

B&B、ザ・ぼんち、ツービート、島田紳助・松本竜介、西川のりお・上方よしおといったコンビをブレイクさせた漫才ブームが起こったのも1980年であり、フジテレビ系の「THE MANZAI」「花王名人劇場」や日本テレビ系の「お笑いスター誕生」などが大きな役割を果たした。少し前までは主に中高年が楽しむ演芸というイメージだった漫才が一躍、若者に人気の新しいポップ・カルチャーとなり、そこから次々とスターが生まれた。

 

「THE MANZAI」の第1回目が放送されたのは1980年4月1日だったが、その約1ヶ月前、3月7日にはヒット・チャートの常連であった山口百恵が三浦友和の婚約と芸能界の引退を発表した。歌謡界ではポスト百恵は一体、誰なのかという話題が盛り上がっていた。松田聖子が山口百恵と同じCBS・ソニーからシングル「裸足の季節」」でデビューするのが、この年の4月1日である。当初、ポスト百恵には山口百恵と同様に、どこか影を感じさせるところもあるアイドル歌手の名前が挙げられていたりもしたが、その後、「青い珊瑚礁」「風は秋色」などをヒットさせ、実質的にそのポジションを射止めたのは、よりライトでポップなイメージを持つ松田聖子であった。

 

6月21日には、前の年の秋からTBSテレビ系で放送され、高視聴率を記録した学園ドラマ「3年B組金八先生」の生徒役の中でも特に人気の高かったたのきんトリオから、田原俊彦がシングル「哀愁でいと」でデビューして、オリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録した。ヒット・チャートの上位に新人アイドルが久しぶりにランクインし、これもまたライトでポップに変わっていく時代の空気を象徴しているようであった。この年にデビューした河合奈保子、柏原芳恵(当時は柏原よしえ)、翌年の近藤真彦、松本伊代、さらにその翌年にはシブがき隊、中森明菜、小泉今日子、堀ちえみ、石川秀美、早見優らがデビューし、アイドルブームの時代になっていく。

 

また、それまで熱心な音楽ファンの間では支持を得ていた山下達郎はこの年の5月1日にシングル「RIDE ON TIME」をリリースした。本人が出演したカセットテープのテレビCM効果もあり、この曲はオリコン週間シングルランキングで最高3位のヒットを記録した。山下達郎にとって初のヒット曲であり、後にシティ・ポップと呼ばれる音楽をお茶の間に浸透させることになった。

 

この頃、原宿の代々木公園近くに設けられた歩行者天国で、ラジカセから流れるディスコ・ミュージックに合わせ、派手な衣装を着て踊る、竹の子族と呼ばれる若者達がマスコミにも取り上げられていた。語源は原宿のブティック竹の子だが、彼らが踊っていた音楽というのがいわゆるディスコ・ヒットからイエロー・マジック・オーケストラなどのテクノ・ポップ、その影響を受けた後にテクノ歌謡と呼ばれる音楽やアイドル歌謡など、とにかく踊れればなんでもありというような自由にあふれていた。アラベスク、ドゥーリーズ、ドリー・ドッツ、トリックスといった女性ヴォーカル・グループによるディスコ・ポップは全米ヒット・チャートなどにはランクインしていなかったが、日本の若者達にとても人気があり、キャンディ・ポップなどとも呼ばれていた。ノーランズの「ダンシング・シスター」もまた、このような背景から生まれたヒット曲といえるだろう。

 

田中康夫のデビュー作で、ベスト・セラーを記録すると共に、これを文学と認めるか否かという議論も巻き起こした「なんとなく、クリスタル」が舞台としているのも、1980年である。青山学院大学だと思われる大学に通い、ファッションモデルもやっている主人公などが好んで聴いている音楽は、メッセージ性よりも心地良さを重視したAORである。

 

1980年代にオリコン週間シングルランキングで1位を記録した洋楽は、ノーランズ「ダンシング・シスター」とアイリーン・キャラ「フラッシュダンス~ホワット・ア・フィーリング」の2曲だけであった。ノーランズはこの後もオリコン週間シングルランキングにおいて、「恋のハッピー・デート」が最高9位、「セクシー・ミュージック」が最高7位のヒットを記録した。「恋のハッピー・デート」は石野真子によって、日本語でカバーされてもいた。

 

このように1980年にはテクノ、アイドル、漫才、さらにはシティ・ポップにAORといった、ライトでポップな感覚が新しいものとされていたところがあるが、ヒット・チャートではニュー・ミュージックや演歌もまだ強かった。長渕剛は「順子」で初めてオリコン週間シングルランキングで1位を記録したが、翌年に石野真子との結婚を前提とした交際を発表し、話題になった。