六本木WAVEで1992年によく売れていたような気がするCDたちについて。 | …

i am so disapointed.

1992年2月19日、経済企画庁は前年の1-3月期をピークに日本経済が景気後退に入ったことを発表した。これによって、バブル景気がすでに終わったことは公式化されたわけだが、そのムードはすでに世間一般的にも広がっていたような気がする。

 

それでもその深刻さはそれほど認識されてはいなかったように思われ、国民の意識はまさまだ楽観的だったように思われる。この発表から2日後に発売されたのが、「ジュリアナ・トーキョー・テクノ・レイヴ・パーティー」というCDである。

 

当時、私は六本木WAVEというCDや映像ソフトなどを販売する店で、雇用形態でいうと契約社員にあたるメイトという職位で働いていた。このCDが入った箱がレジカウンター内にいくつも積み重ねられたが、これがとぶように売れていき、気がつくと完売していたのである。収録されていたのは、T99「アナスタシア」、L.A.スタイル「ジェームス・ブラウン・イズ・デッド」といったテクノで、まだメンバーのキャラクターを前面に押し出さず、匿名性が高かった頃のプロディジー「チャーリー」なども入っていた。オリコン週間アルバムランキングでは最高43位だったこのアルバムが、六本木WAVEではとにかく売れた。その大きな要因として、このCDにジュリアナ東京の無料入場券が付いてことがあげられる。

 

ジュリアナ東京は、1991年5月15日に東京の港区芝浦にオープンした大型ディスコである。日商岩井とイギリスのレジャー企業、ウェンブリーとの共同出資によるこのディスコは、当初、コンサバティブなOLをターゲットにしていたが、ダンスホールの両脇に設置されたお立ち台と呼ばれるステージに上り、髪型をワンレングスにしてボディコンシャスな服装をした女性たちが、ジュリ扇と呼ばれる羽付きの扇子を振り回して踊ることがマスコミにも取り上げられ、社会現象化するようになった。その熱狂はバブル景気の象徴として語られることもあるが、実際にはジュリアナ東京が開業した時点で、実質的にそれはもう終わっていたということになる。

 

六本木WAVEは様々な音楽ジャンルのCDを豊富に取り扱っていることで定評があったが、この頃のメインの利用者は生活シーンをより快適にするような音楽を求めるビジネスパーソンだったような気がする。もちろん各ジャンルにおいて、マニアックな品揃えもしていて、それはそれで支持されていたのだが、ボリュームゾーンはこの辺りだったような印象がある。

 

1980年代までは六本木WAVEまで来なければ買いにくかったような商品が、HMVやヴァージン・メガストアの日本進出によって、渋谷や新宿でも可能になったことも影響していたように思える。

 

また、大事MANブラザーズバンド「それが大事」、米米CLUB「君がいるだけで」、嘉門達夫「鼻から牛乳」などのCDシングルを求める小学生の客なども存在していたことは記録しておきたい。

 

FMラジオ放送局のJ-WAVEは1988年に放送を開始したが、この設立にはWAVEの母体であったセゾングループも出資者としてかかわっていた。場所が六本木ということもあり、その後も良好な関係が続いていたように思える。開局時から30年以上経つ現在も放送されているカウントダウン番組「TOKIO HOT 100」のランキングには、タワーレコード、HMVなどと共に、WAVEでの売り上げも反映していた。

 

当初は洋楽がほとんどだったが、少しずつ邦楽の割合が増えていき、2018年の年間チャートにおいては、上位100曲のうち46曲を占めるまでになっている。放送を開始した1988年から1991年までにおいては、年間チャートの100位以内に入ったのが久保田利伸「DANCE IF YOU WANT IT」、米米クラブ「KOME KOME WAR」、松任谷由実「リフレインが叫んでる」、爆風スランプ「RUNNER」、氷室京介「ANGEL」、佐野元春「約束の橋」、サザンオールスターズ「真夏の果実」、山下達郎「さよなら夏の日」と、4年間でわずか8曲しかランクインしていない。1992年の年間チャートにおいては、邦楽が1曲もランクインしていないのだが、ここで少し面白い傾向が見られる。ランクインしている洋楽の中に、全米チャートではそれほど上位に上がっていなかったり、ランクインすらされていないものが増えているような気がするのだ。

 

「TOKIO HOT 100」は東京のレコード店、しかも外資系と呼ばれるタワーレコード、HMV、ヴァージン・メガストア、日本の企業ではあるが外資系的なテイストを持つWAVEの売り上げや、J-WAVEでのオンエア回数を集計して決定されていたと思う。オリコンのランキングとはまた違った、しかし、当時の東京において確かに存在していた音楽を聴くある層のテイストを記録した資料として、ひじょうに貴重だと思える。1992年において、私はこの番組をまったく聴いていなかった。なぜなら、この番組の放送があった日曜の午後には、たいてい西新宿や渋谷や池袋などのレコード店やCDショップを回って、「TOKIO HOT 100」のチャートに入ったり六本木WAVEで売れたりしないような、インディー・ロックのレコードやCDを買いあつめていたからである。しかし、この年の「TOKIO HOT 100」の年間チャートを見ると、全米チャートなどでそれほどヒットしたわけでもなかったり、チャートインすらしていないのだが、確かに六本木WAVEですごく売れていたものなどがいくつもランクインしている。

 

と、ここまでがイントロであり、今回はそんな中から特に個人的な印象に残っているものをいくつか挙げながら、懐かしんでいきたい。

 

さて、その前に、この年の「TOKIO HOT 100」で年間1位に輝いたのがシャニースの「アイ・ラヴ・ユア・スマイル」で、この曲が収録されたアルバムは六本木WAVEでもよく売れたし、店内でもかけていた。しかし、これは全米シングル・チャートでも最高2位と大ヒットしているため、今回の趣旨とはチト(河内)外れる。しかし、なんだかとても懐かしいし、しばらく聴いていないような気もするので、取り上げておきたい。

 

 

Inner child Inner child
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「TOKIO HOT 100」の1992年間チャートにおいて、シャニース、マライア・キャリー、ボビー・ブラウンのトップ3に続き、4位にランクインしているのが、ワークシャイの「トラブル・マインド」である。イギリスで1980年代から活動するバンドで、マット・ビアンコなどと同列に語られていた印象だが、調べてみたところ本国のヒットチャートにはランクインしていない。しかも、このアルバムからは日本のポニーキャニオンと契約し、世界各国に配給も行っていたということである。六本木WAVEではニュー・リリースのとても良い場所に、輸入盤ではなく国内盤が大量に陳列され、とぶように売れていた印象がある。

 

 

オーシャン オーシャン
2,621円
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ナイジェリア出身のロック・アーティスト、キザイア・ジョーンズのデビュー・アルバムもものすごく推されていて、すごく売れていたのだが、これもアメリカやイギリスのヒット・チャートにはランクインせず、フランスで最高56位ということである。当時、日本の音楽雑誌でもわりと大きく取り上げられていた記憶がある。ブルースとファンクとを掛け合わせた「ブルーファンク」なるキャッチコピーのようなもので売っていて、日本の音楽ファンにはウケやすかったのかもしれない。

 

 

 

タワーレコードなどのCDショップには「ミュージック・マガジン」の最新号が書店よりも少し早く届くのだが、これは当時の六本木WAVEにおいてもそうで、商品担当の社員の多くが貪るように読んでいた。私はそういうのにはかかわっていない弱小の店員に過ぎなかったのだが、それと同時に「ミュージック・マガジン」的な価値観から外れつつある時期でもあった。それは、その頃に出会ったインディー・ポップやネオアコを好む音楽ファンたちからの影響であった。XTCは「スカイラーキング」「オレンジ&レモンズ」と大好きだったので、ニュー・アルバムの「ノンサッチ」もすぐに買った。「ミュージック・マガジン」を愛読している人たちにも大人気で、このアルバムのことは話題に上がっていた。先行シングル「ザ・ディスアポインテッド」について、いまひとつ良さが分からないと言っている女性社員に対し、ビーチ・ボーイズの聞き込みが足りないからだ、というようなことを、男性社員が言っていた。その時に私が求めていたものともなにか違い、渋谷のレコファンですぐに売却してしまった。ヴァニラ・ファッジのことを「ヴァギナ・ファック」などと言っていて、下品で嫌だなと思っていた音楽評論家のような人が、このアルバムよりもライドの「ゴーイング・ブランク・アゲイン」の方を高く評価しているのを見て、好感度が上がった。このアルバムもとてもよく売れていたし、「TOKIO HOT 100」でも「ザ・ディサポインテッド」が最高5位を記録していた(全英シングル・チャートでの最高位は36位である)。

 

 

Nonsuch Nonsuch
1,216円
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スウィング・アウト・シスターは1980年代に「ブレイクスト」を世界的にヒットさせたが、3枚目のアルバムをリリースしたこの頃には人気もかなり落ち着いていた印象がある。このアルバムの全英アルバム・チャートでの最高位は27位、全米アルバム・チャートでは最高113位だが、六本木WAVEではものすごく売れていたし、「TOKIO HOT 100」ではシングル・カットされたダスティ・スプリングフィールドのカバー曲「セイム・ガール」が年間5位を記録した。当時の外資系CDショップやJ-WAVEの雰囲気を感じさせる、洗練されたポップスである。

 

 

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ザ・スタイル・カウンシルはその洗練された音楽性の中に、強いメッセージを持ったバンドだったが、日本ではおしゃれで都会的な音楽をやるグループとして、消費されていたような印象がある。ザ・スタイル・カウンシルの「カフェ・ブリュ」は1992年の六本木WAVEにおいても、絶対に切らしてはいけない旧譜だとされていたし、実際に定期的によく売れていた。

 

ザ・スタイル・カウンシルが新曲として最後にリリースしたシングルは1989年の「プロミスト・ランド」で、全英シングル・チャートでの最高位は27位であった。ハウス・ミュージックからの影響を受けたアルバム「モダニズム:ア・ニュー・ディケイド」は、レーベルから発売を拒否された。ポール・ウェラーはキャリア中で最悪ともいえる低迷期を迎えるが、その中で1991年にポール・ウェラー・ムーヴメント名義でシングル「イントゥ・トゥモロー」をリリースし、全英シングル・チャートで最高36位を記録した。翌年、初のソロアルバム「ポール・ウェラー」を日本のみでリリースした。数ヶ月後に海外でもリリースされるが、この時点では日本盤しか存在していなかったのである。日本でのポール・ウェラーの人気は根強く、このアルバムもよく売れていた。オリコン週間アルバムランキングでは、2日後にリリースされたオリジナル・ラヴ「結晶」よりも1ランク上の9位であった。

 

 

ポール・ウェラー ポール・ウェラー
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アシッド・ハウスの人気もひじょうに高く、特にブラン・ニュー・ヘヴィーズのCDはよく売れていた印象がある。ジャイルズ・ピーターソンのトーキン・ラウド・レーベルに所属していて、実は1979年結成のベテラン・バンドであったインコグニートはこの年、アルバム「トライブス・バイブス・アンド・スクライブス」をリリースした。シングル・カットされたスティーヴィー・ワンダー「くよくよするなよ」のカバーは、全英シングル・チャートでも最高19位とそこそこヒットしたが、六本木WAVEの店内ではかなりのヘヴィーローテーションだったし、CDもよく売れていた。当時、私はこのタイプの音楽が特にそれほど好きでもなかったのだが、夕方ぐらいにこの曲が流れると、これから都会の夜がはじまる、というようなワクワク感を感じてもいた。翌年にリリースされた小沢健二のデビュー・シングル「天気読み」にも、影響をあたえたと思われる。

 

 

 

フランスの歌手、女優、ヴァネッサ・パラディが全編英語詞でリリースしたはじめてのアルバムが「ビー・マイ・ベイビー」で、レニー・クラヴィッツがプロデュースを手がけている。60年代ポップスに対するリスペクトにあふれた作品で、シングル・カットされた「ビー・マイ・ベイビー」は全英シングル・チャートでも最高5位を記録した。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド「ウェイティング・フォー・ザ・マン」のカバーも収録されている。

 

 

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